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第31話


 古惚けた貴族屋敷の中にも、小奇麗にされている部屋があった。


 普段は厳重に施錠されていて、この屋敷に唯一在中する、掃除の出来ない格闘メイドですら入れない。


 まして、間抜けな害虫が侵入しようとしても、『毒』で命を失うだろう。

 この部屋の主人が、それを望む限り――――。


「ふふ、ふふふ」


 両手で顔を隠したエリンが、部屋の中心で笑っていた。


 室内には、簡素な天蓋付きの寝台と、執務机しかない。

 彼女の資産からすれば質素に過ぎる自室だが、誰も入らないので知る由も無い。


「ははは、あはぁ――――んくっ」


 彼女が両手を離し、それを見つめて、自分の手首に舌を這わせた。

 恍惚の視線を空中に彷徨わせ、神に祈るように味わった後で、頬を薔薇色に染める。


 愛しい男から被せられた液体を、待ち望んでいた。


 手に入れるだけならば、何も問題は無い。

 彼に条件を出しても、小娘から奪っても、手に入れる方法は幾らでもある。


「それでは、意味が無いのよ。ねえ、カンタルさん」


 名前を呼んだ男が、自らの意志で、それを使用するに至った経緯を含めて、大切なものを差し出す行為こそが――――愛おしい。


 乾いた砂漠に一滴の水を落とすような、馬鹿で愚かで間の抜けた話ではあるのだが、その行為を好きになってはいけないのか。


 心の奥を掴まれて、いてもたってもいられなくて、今すぐにでも抱きしめたい。

 言葉では言い尽くせない感情を吐き出して、彼の何もかもを奪いたい。


 邪魔をする輩は、『毒』で殺せばいい。

 どうせ話をするだけ無駄な有象無象で、毒を受けて崩れる腐肉でしかないのだ。


 だが。

 だが、しかし。


 彼はそれを望まないだろう。


 ふわふわと浮かぶ綿毛が欲しくなって、手に取ろうとして、握り潰してしまうことは避けたい。


 彼を失えば、それこそ、世界を『毒』で満たしてしまっても構わない。

 意味が無い、価値が無い。

 宝石が石ころに変わる。


 自分の手でやるならばそれも一興かもしれないが、最後の手段として取っておきたい。

 最後の最後の願いとして、二人で果てるのも悪くない。


「あぁ」


 考えるだけで、身体が熱くなる。


 これはいけない。

 今すぐにでも、寝台を汚したくなってしまう。


 以前、欲望に負けて彼の居る浴室へ無理矢理入り込んだ時のことは、記憶に新しい。

 妙な邪魔さえなければ、彼を汚してしまえたのに――――。


「ん……っと」


 彼女が執務机の椅子に、腰を下ろした。

 足を組み、顎に指を添える。


 カンタルの香りを肺に流し込みながら、呟く。


「……それにしても、師匠って何なのかしら」


 他の女の事なので興味が無い振りをしてしまったが、実際は根掘り葉掘り聞いてしまいたかった。

 ルフェンにその気があるようであれば殺していたかもしれないが、そういう雰囲気では無さそうだ。


 放って置いても構わないのだろうが、今後どうなるかまではわからない。

 二人の関係について、エリンが苦言を呈したところで、その理由を問われることになるだろう。


 ただ、エリンが『敵対者』としてカンタルの身柄を拘束している以上、今のところそれを破る道理が無い。


 彼がこの屋敷に居てくれるのなら、大抵の事には目を瞑って構わないのだが。


「そうねぇ」


 彼女が執務机の上にある呼び鈴を手に取り、鳴らした。

 一呼吸を置いて、部屋の扉がノックされる。


「入っていいわよ」

「敵」


 何食わぬ顔で、アサが部屋に足を踏み入れる。

 エリンに視線を合わせることなく、膝をついて言葉を待つ。


 その忠節ぶりに疑問を浮かべつつ、エリンが言う。


「言葉、戻していいんじゃないかしら。今は何も『毒』なんて出してないわ」

「……そーですか。では失礼して」


 肩凝ったぁ、と言わんばかりにアサが息を吐く。

 エリンが目を細めた。


「そこまで緊張を解けと言った覚えも無いわよ」

「え? そーですね。失礼しました」


 背筋を正すアサであったが、今度は膝を折り曲げて正座となる。

 呆れたエリンの視線が、宙に流れた。


「ちょっと壊し過ぎたかしら」


 毒によって『隠れ里』の生き残りを捕まえて、言語中枢だけ壊してみたものの、やはり脳の制御は難しい。

 カンタルの母乳によって脳組織自体は修復されているだろう。


 しかしエリンは経験として、それだけでは元に戻らないことがあることも知っていた。


「……ところで、監視は順調なの?」

「はーい。問題だらけです。ルフェンが常に気配を追ってくるので、とても手間です」

「生き残りがあなたしか居なかったとはいえ、本当にこれでよかったのか不安になることろね?」


 にっこり笑って、問いかけるエリンだった。

 固まってしまったアサが、急いで頭を下げた。


「のこぎりは堪忍ですっ!」

「そんな面倒なことはしないわ。ちょっと毒を送り込んで、頭をポンするだけよ」

「……ポンも嫌です」


 小鼓が鳴るように頭を弾かれては堪らない、と頭を抱えるアサだった。

 エリンが背もたれに身体を預ける。


「なら、答えて欲しいわ。カンタルさんは、どうしてルフェンの事を師匠と呼ぶの?」

「そーですな。門下に入ったようです。格闘術に興味があるのでは?」


 あまり自信が無いのか、アサが首を傾けながら受け答えをする。

 彼女も考えるに、傭兵団の男から護身術を習っていた様子は見たことがあった。


「そんなに戦いたい、のかしら」

「そーですかね。殺されたくないだけだと思います」

「誰に?」

「ここで一番の脅威は、エリン様だけですよ?」


 何言ってんですか、と称賛するつもりで言ったアサだったが、彼女の期待とは正反対の表情をするエリンだった。


「そんなにポンされたいの?」

「うえぇぇっ、申し訳ありません! お、お詫びに、カンタル先生の下着を持ってまいります!」

「は? 下着?」

「はい! 私の里で流行しておりましたゆえ、今すぐにでも!」

「…………やっぱり壊れてるみたいねぇ。ちなみに聞くけれど、先生って?」

「あー、指揮権の都合上、私の上位者はシノ様ですから、それより弱いくせに偉いのであれば、先生くらいしか役職がなかったので、臨時として組み込みましたけど」

「ふぅん」


 エリンが考えることを放棄した。


 隠れ里の慣習など知ったことでは無いし、打つ手がないことを理解して尚、毒を受けるためだけに突っ込んで来た兵士たちのことを知りたい訳でもない。


 それよりも、気になることが出来た。


「……そんなに怖いかしら、私」

「ええ、とっても!」


 頭を床にぶつける勢いで頷くアサだった。

 強い怖いで上下関係が決まる蛮族たちを見る目で、エリンが言う。


「やっぱり、カンタルさんの下着、取って来る?」

「えー、あ、はい」


 そんななら今すぐにでも行ってきますけどそれが何か、と間の抜けた表情で返事をするアサであった。


「あなた、一度怒られてきなさいな」


 エリンが、ふ、と息を吐く。


 するとアサの背筋が、びくんと跳ねる。

 左右を振り向いて、アサの視線がエリンを捕えた。


「敵ぃっ♡」


 片目を瞬きさせた銀髪の少女が、勢いよく部屋から出て行くのであった。



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