表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/44

第30話


 枝葉のざわめきが心地よく、涼風が通り抜ける。


 柔らかな木陰の中に、朽ちた白いテーブルが置かれていた。

 新品の如く磨き上げられた陶器のティーセットが、景色から浮いて見える。


 つばの広い帽子を被ったエリンが、膝の上で本を読んでいた。


 椅子に座って物憂げにする様子など、深窓の令嬢と見間違うほどだ。

 彼女が視線を外さず、カップを手に取る。


 一口飲んで、表情を変えずに言った。


「カンタルさん、紅茶が冷えてしまったわ」

「あー、はいはい」


 最早、条件反射といった態度でティーコジーが巻かれたポットから、新しいカップに紅茶を注ぐ。

 カンタルは仕上げに花弁を落とし、ソーサーに乗せた。


 先ほどから本へ視線を落としたままのエリンが、紅茶を手に取る。


「……あら、良い香り」


 ようやく、彼女の視線がカンタルへ向けられる。

 彼は笑った。


「でしょう? 師匠のおすすめです」

「へえ」


 エリンの視線が、少し離れた場所で準備体操をしているルフェンを捕えた。

 再度、カップを傾ける。


「ところで、師匠って何?」

「いえ、尊敬できるなぁ、と思ったので」

「ふぅん」


 興味が無さそうに、エリンが膝上に意識を戻した。


 カンタルは、彼女の横顔を一瞥する。

 浴室でのことを怒られるのかと思っていれば、特に何も変わらなかった。


 これなら大丈夫かな、と、木陰を作る枝葉を見上げて言った。


「お手柔らかにお願いします」

「二人で私を殺しに来るのに、私には手を抜けと?」

「どちらが命を失うことも、俺は認めません」


 彼は、足元に用意していた陶器の壺を取り出した。

 中身はもちろん、カンタルの母乳である。


 匂いを嗅ぎつけたアサが構ってきて大変だったが、僅かな時間を貰って、何とか搾り上げた逸品だ。


 彼は人として、何かを失ってしまったかもしれない。

 しかし、自分だけ覚悟を見せないことは出来なかった。


 エリンが、薄目で彼を見つめていた。


「その傲慢さ、とても不愉快だわ」

「すいません」


 謝って済むものでもなかろうが、エリンとルフェンの意志を変えることが出来ないのだから仕方がない。

 それならば、何度でも何処までも傷を癒して見せる、と決めたのが、カンタルの覚悟だった。


「お待たせした、エリン嬢」


 ルフェンが微笑みを見せながら、静かに近づいてくる。

 威圧感も覇気も無く、只々、普段通りの態度であった。


 エリンが、口元を僅かに曲げる。


「そうね。残念だわ、ルフェン。ファルマ伯爵は、私のことが必要無くなったようね?」

「ああ、勘違いなさらないで欲しい。これはファルマ伯爵の監視任務とは関係ない。そもそも契約の時点で、いつエリン嬢に挑んでも良いと念押ししてあるのだ」

「あら、そう」


 大して驚いた様子も見せず、エリンが肩を竦めた。

 読書を止めて、本の上へ手を置く。


「毒の無い華であるならば、簡単に手折れると?」

「確かに毒は脅威に過ぎる。だが、勝てると思う相手に、挑むとは言わんだろう」

「……まったく。誰も彼もが下らな過ぎて、頭が痛いわよ。ええ、そんなに戦いがしたいのであれば、お好きに遊ばせ? ただし、相応の対価を頂くけれど」


 エリンが、眼に見えない魔法の杖でも振るうように、手を動かした。


 無手の構えを取ったルフェンが、間合いに踏み込む。

 白いテーブルが吹き飛んでいき、茶器が散らばる。


 空隙の刹那、ルフェンが笑った。


 『緋毒』の無効化――――。


 座ったままのエリンに対し、空気を泳いで縦拳が迫る。

 素人でも受けられるほどの勢いだが、受けるも避けるも罠を張った、拳法家の技だ。


 受けたならば、その腕を取って崩しを入れ、逆手で急所を突く。

 避けたならば、足で足を絡めて体を入れ、体当たりをする。


「ふふ」


 対するエリンの態度に、変化は無い。

 手を出したまま、椅子に座ったままだ。


 それならば、それで構わない。

 突き出た手が不気味ではあるが、獲物には違いない。


 ルフェンの拳が、最短距離でエリンの手を突く。

 狙いは、折れやすい小指だった。


 絡めて折っても良いが、安全策を取っての突きだ。


 衝撃が走る。


 ルフェンが後方に自分から飛んだ。

 着地する彼女の表情が厳しい。


 エリンの言葉が響く。


「どうしたのかしら?」


 微笑みさえ浮かぶ余裕に、『緋毒』を無効化された焦りなど見えない。


 突き出した手が、獲物を誘うかの如く開かれた。

 無傷であり、拳で突かれた形跡も無い。


「あなたが鍛錬して磨き上げた拳が、こんな細腕一本も砕けないの?」

「剛身? いや、スキルか」


 鍛錬と訓練次第で、エリンの真似事は武術にも可能だ。

 ただし、彼女が鍛錬などするはずも無いし、その方法すら知らないだろう。


 であるならば、人の身で不可能な御業を天命と呼ぶ。

 天の命であるならば、人の『ことわり』など軽く飛び越える。


 それは別に、納得できる話だ。

 否定もしないし、そうでなくとも、才の有る無しで鍛錬の必要すら変わるものなのだ。


 スキルも才能も、是非に及ばず。


 鍛えた拳が届かない。

 それは拳法家であれば、歯痒いことではある。


 願おうが恨もうが、望もうが悔いようが、結果としての『それはそれ』。

 だから、彼女が納得する。


「なるほど、厄介だ」


 納得した上で、次を考える。

 そんなことで諦められるほど物分かりが良ければ、拳など鍛えぬ。


 我戦うは、不条理なり。


 強い者に抗うために、技は生まれた。

 弱きは嫌だと反逆するために、武術は編まれた。


 人間が時を超えて研鑽してきた拳を、その程度だと見くびっているがいい。

 人類が続く限り練磨して、練磨して、練磨し尽くした先が何も無かったとしても。


 拳法家である限り、拳を鍛え続ける愚を晒すだろう。

 その愚かさこそ、拳法家の誉れである。


「まあ実際、何でそんなことやってるかと言われれば、『楽しい』からとしか言いようが無いからな」


 鍛錬して楽しい。

 強くなって楽しい。

 強い奴を殴って倒すと楽しい。


 少しばかり頭がおかしいと、自他ともに認めなくも無い精神性だろう。

 ならば、いっそ、是非も無し。


「いくぞっ」

「……厄介ねぇ」


 エリンが嫌そうな顔をした。

 すっくりと椅子から立ち上がり、流し目でカンタルに確認を取る。


「『あれ』を出すのであれば、今だと思うわよ」

「『あれ』? ああ、精霊さんのことですか。いつも勝手に出てくるので、今すぐには難しいかと思います」

「あらそう。残念ね」


 あまり残念ではない態度で、彼女が掌を上にして差し出した。

 掌の上の何もない空間に、ふ、と息を吹きかける。


 その先に、ルフェンがいた。


「何と――――っ」


 『緋毒』に効果が無いと理解していても、これは避けねばならない。


 避けなければ絶対に後悔するだろう、という予感が張り付いて剥がれない。

 避けること自体は、吹き矢を避けるように簡単だった。


 問題は、その意図にある。


 それに気づいたとき、ルフェンの視界が回っていた。


 いつの間にか彼女の背後に回っていたエリンが、長い足を突き出していた。


「私、格闘が苦手だと、一言も言った覚えは無いわよ」


 初動さえ見えない回り込みの早さと、背骨を蹴り砕く威力があった。

 吹き飛ばされて樹木に引っかかったルフェンが、力なく藻掻いている。


 ――――オカンスキル、発動しました。


 待ってました、とばかりにカンタルは壺を抱えて飛び出した。

 倒れているルフェンを仰向けに寝かせ、口元に壺を傾ける。


「がぼぼぼぼぼっ」


 無理矢理に母乳を流し込み、オマケとばかりに背中にも母乳を撒き散らす。

 ぺしん、と彼女の額を叩いてから立ち上がった。


 壺にはまだ、中身が残っている。

 エリンが訝し気な顔で、カンタルを睨んでいた。


「……何? やり過ぎだったと言いたいのかしら」

「いえね。俺はやりたくないんですけど、勝手に身体が動くから仕方ないですよね」


 カンタルは、にっこりと笑った。

 晴れやかな笑顔のままで、壺の中身をエリンにぶちまけた。


「えーと、すいません」

「…………」


 彼女の髪の端から、乳の雫が落ちていく。

 とても乳くさい匂いが立ち込める。


 人間の背骨を砕く蹴りが飛び出すかとカンタルが身構えていると、エリンが背中を向けた。


 そのまま屋敷の方へ歩いて行ってしまう。

 カンタルは首を傾げた。


「絶対怒られると思ったのに……」


 彼はエリンの背中を見送り、壺を地面に置いた。


 遠くに転がっている白いテーブルと、粉々に砕け散ったティーセットを眺める。

 短く息を吐き、箒と塵取りの場所はどこだったか、と考えるのだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ