第29話
重苦しい空気の中、テーブルの上に硬質な音が響き渡る。
普段の厨房の雰囲気とは、遠く離れていた。
カンタルは、手を伸ばして置いた小瓶から、指を離した。
「これが、例のアレです」
「……ほう、これが例のソレか」
ルフェンが小瓶を、指で摘まみ上げる。
透明なガラスの中で、乳白色の液体が揺れた。
小瓶を光に透かして見たが、特に何かある訳でもない。
ルフェンの視線が、彼を射抜く。
「これを、飲むのか」
「ええ。大抵の人は、そうやって使いますね」
カンタルは頷いた。
他にも塗ったりすることもあるが、怪我の場合くらいなものだろう。
彼女の不安そうな顔を見ると、まあそれが普通の反応ですよね、と納得せざるを得ない。
カンタルとしても、無理をしてまで飲んで欲しいとは思わなかった。
むしろこれから戦いがある度に、胸から母乳を出すとなれば、彼もメンタルと戦う羽目になってしまう。
「止めときましょうか」
彼は優しく頷いた。
そうすれば、カンタルは心穏やかでいられるし、エリンも戦わなくて済むし、ルフェンも毒を受ける必要は無くなる。
「むう」
ルフェンが唸る。
すると、いつのまにか現れたアサが、テーブルの端から頭だけを覗かせてきた。
彼女の視線は、じっと小瓶に注がれている。
ルフェンがアサを一瞥した。
「これが……欲しそうだな」
「敵ぃう」
アサが頷く。
表情こそ変化が無いものの、架空の尻尾があれば振り回すくらいに彼女の尻が揺れている。
「飲んだことがある、と?」
「敵ぁ」
小瓶から視線を動かすことなく、アサが返事をした。
ルフェンが笑う。
「旨かったか?」
「敵ぃぃう」
「ふむ、何を言っているかよくわからん。だが、アサ嬢も持っていると聞いたが」
彼女の挑発的な笑みに、アサも胸元のポケットから小瓶を取り出した。
「敵ぃあ」
「ふむふむ。では、それを譲って欲し――――」
「敵ん」
アサが言葉の終わりを待たずに小瓶をポケットへ仕舞い込み、走って逃げた。
ルフェンの顔がカンタルへ向けられる。
「……中毒性は、あると思って良いものだろうか」
「飲んだことが無いので分かりませんが、禁断症状が出たとは聞いてませんね」
否定しきれないのが難儀であるが、アサの様子を見ている限り、苦しむ様子は見られなかった。
ただアサの目的が、嗜好品なのか、毒から身を守るための保険なのかは知らないが、常にカンタルの母乳を気にしていることは見受けられる。
ルフェンが難しい顔をして、息を吐いた。
「いや、悪いね。これの効果を疑っているわけではないんだ。スキルはそういうものだと理解しているつもりだ。だがな」
「はい」
彼は頷いた。
そして、言葉の続きを持った。
「これは母乳なのか? それとも父乳なのか。どちらだろうか」
「え、そこですか」
彼は転びそうになった。
気にしても仕方ない事だと考えるが、彼女の真面目な顔が揺らぐことは無い。
「言葉遊びと笑うかもしれんが、スキルは『ことわり』を違えることは無い。『さだめ』と言い換えてもいい。であるならば、方向性は絞れるというものだ」
「あー、つまり、スキルにも規則性がある訳ですか。でも、それなら母乳ですね」
彼が持つのはオカンスキルなわけで、オカンから父乳が出ることは規則に反する。
それなら、どうして男であるカンタルが、母性を内包するオカンスキルなどを使えるのか、という疑問が沸いて出た。
思い当たる節がないでもない。
顕著なのは、肉体の一部が女体化したことである。
これはつまり、スキルによって肉体を捻じ曲げられているのでは、という不安が過った。
精霊様に寄生されている身としては、いつか乗っ取られてしまう可能性を否定できない。
「……マジか」
「どうして君がそこで、深刻そうな顔をするんだ」
「いえ、スキル怖いと思いまして」
「天命だろう? 恐れを抱くのは当然のことだな。だがまあ、成すべき事があるのだろう。授かる、ということの受け止め方次第だね」
好戦的に笑ったルフェンが、手の中にある小瓶のコルクを抜いた。
くぃ、と一息に飲み干し、喉を動かす。
乾いた音を立てて、空の小瓶をテーブルに置いた。
「なに、人はどんな道でも『選ぶ』ことは出来るのだ。選ぶことしか出来ないかもしれんが、それが自由と言う奴だ。道から外れさえしなければいい。その道の果てにあるものこそ、誇るべき価値があると思うよ。見えない果てが、崖だったとしてもね」
私はそれが見たい、と。
宝物を見つけた子供のように、目を輝かせて言う。
カンタルはそれを見て、感動していた。
「そう、ですよね」
精霊様に身体を乗っ取られて女体化したとして、カンタルの生き様は残る。
自分で自分を恥ずかしいと思う必要は無い。
人助けであれば、男が母乳を出しても構わないだろう。
「男が母乳を出しても、いいですよね」
「え?」
ルフェンが真顔になる。
カンタルも真顔になる。
「え?」
彼女が乾いた笑いを浮かべる。
「……あー、ああ。そんなに悩んでいたのか。うん。……大丈夫だ」
「ですよね!」
こんな上司が欲しかった、とカンタルは感慨深く自分の両手を握りしめた。
ルフェンの事は尊敬できる。
自分の楽しみのためには、道を外さない限り手段を問わない辺りが、生粋の趣味人であるからだ。
自分の命すら投げうって、楽しみに全力を尽くす姿は、敬意を表するに値する。
彼は声を抑えながら言った。
「あの、ルフェンさんのことを、師匠と呼んでも良いですか?」
「へ? ちょっと意味が、よくわからないのだが」
珍しくルフェンが狼狽えていた。
恐らく、尊敬され慣れていないのだろう、とカンタルは考えた。
何故なら、生粋の趣味人であるほど、常人には理解され難いものだからだ。
彼は、深く頷いた。
「わかってます」
「どういうことだ? 私に理解させて欲しいのだよ」
困惑と言うよりは、懇願に近い態度だった。
彼は優しく首を横に振った。
「ルフェンさんは今まで通りでいてください。俺が、そうしたいだけなんです。理由が必要であれば、俺が母乳を提供することを理由にしてもらって構いません」
「……ふむぅ、つまり君は、私を師匠と呼びたいがためだけに、『緋毒』を無効化する母乳を提供する、ということか」
彼女が眉を寄せて腕組みし、硬いものを飲み込むような態度をしていた。
薄目を開いたルフェンが言う。
「確かに言うことを聞くとは言ったがね。……ところで、私が断ればどうなる?」
「はあ、どうもなりませんけど」
対するカンタルは、何も考えていない顔をしていた。
何故なら、何も考えていないからだ。
そもそも母乳だって、条件を出して渡すようなものでもない。
もしも『緋毒』が無効化できなかったとして、カンタルに取れる責任などないのだ。
効かなかったことで文句を言われるくらいなら、あなたの責任で使ってくださいね、と最初から無償で渡した方が気楽でいられる。
「ぬう」
ルフェンが額に手を当てて悩む。
ありもしないカンタルの利益を必死に考えるが、彼の思考を読めずにいた。
カンタルの思考など、読む必要すら無いことが、教えられるまでわからない。
結局ルフェンが、渋々といった態度で頷いた。
「まあ、正式なものでは無く、呼び方だけという話ならば良いぞ」
「大丈夫です」
カンタルは満面の笑みで頷いた。
彼女が溜息を吐く。
「私の門下、と言うことにしよう。間違っても流派は名乗るなよ。あと、師父と呼ぶことも禁止だ」
「はあ、了解しました」
気の抜けた返事だが、それも仕方ない。
武門における拝師制度では、親子関係と同等以上の制約が鉄則だ。
しかしカンタルとて、厳しい修行の果てに技術の継承をしたいわけではなかった。
精神的に尊敬できる先達の敬称として、師匠と呼びたいだけなのだ。
ルフェンとしても、後で武門の何たるかを説明すればいい、などと面倒を後回しにしたのだから言い訳はできない。
「さて、そろそろ母乳の効果が表れるだろう。行ってみるかね」
「はい、師匠」
二人が椅子から立ち上がり、約束の場所まで向かう。
朽ち果てた庭園で、エリンが紅茶を飲みながら待っていることだろう。




