第26話
深く透き通った青空を見上げ、カンタルは呟いた。
「良い天気だねぇ。布団を干したいくらいだ」
「敵ぃん」
アサが穏やかな声で、まったりと頷き返す。
彼女の小柄な手の中には、小瓶に詰められた母乳が入っていた。
カンタルは微妙な顔をする。
「……出来れば、見えないところに仕舞ってくれると嬉しいなぁ」
「敵ぃーっ」
間延びした返事と共に、小瓶が彼女の胸元へ収納された。
それは、敵地と言える場所まで連れてきてしまった彼女への報酬だが、入手する方法を考えれば、見ていて心地よいものでは無い。
気分を変えるために、カンタルは再び空を眺めた。
「日差しがあったかいねぇ」
「敵ぅい」
穏やかな陽気が降り注ぎ、涼し気な風が通り抜けていく。
カンタルたちが座っているのは、テラスと言うべきものだ。
今にも壊れそうな白い椅子とテーブルが備え付けられていて、それを利用しての日光浴である。
そして彼らの前に広がるのは、水が出なくなって蔦に巻かれた噴水と、枯れ果てた石造りの池だった。
周囲には、庭園と言うよりは自然に帰った緑色の何か、としか表現が追い付かないモッサリしたものが溢れかえっている。
背後に控える屋敷は、当然のように蔦だらけで、壁はひび割れ、見て取れるのは過去の栄華だけだろう。
屋敷のどこかで、ガラスの割れる音がした。
「あー、またルフェンさんかな」
「……敵ぅぃぁ」
アサの表情が曇った。
この、御屋敷のような廃墟に務めているたった一人のメイドの名前は、既に聞きなれたものとなっていた。
廃墟で物が壊れようと気にならない人間もいるだろうが、そこに住むとなれば話は変わるものだ。
自由気ままに枝を伸ばした植木の影から、足音が聞こえてきた。
ゆったりと着流したドレスを靡かせ、令嬢もかくやと言った雰囲気を纏わせているが、廃墟を背景にすると怪談の構成員に見えるから不思議だった。
「ちょっと、変なことを考えていないでしょうね」
不遜な表情で現れたエリンが、腕組みをしながら言う。
彼女だけ空気が違うというか、浮世離れした雰囲気を持っているため、豪奢な王城も似合うが、朽ち果てた廃墟も似合っている。
カンタルは、通じないと分かった上で弁解した。
「エリンさんには、何でも似合うと思っただけですよ」
「……別に毒に頼らなくても、あなたの首くらい簡単に落とせるのよ?」
彼女が息を吐いて、テラスにある空いた椅子に座った。
小鳥のさえずりが聞こえる程度の沈黙と、エリンが足を組む音がする。
カンタルの視線が彼女に向けられたことで、誰ともなく溜息が漏れた。
彼が言う。
「交渉はどうなりましたか?」
「難航、って言っていいのかしらね。もっとも、ファルマ伯爵が私を完全に信用していないことが原因だと思うけれど。……冷めてていいから、紅茶を頂けないかしら」
「いいんですか?」
そう言いながら立ち上がり、伏せておいた予備のカップを取り出して、ティーポッドから紅茶を注ぐ。
ソーサーに置いて、エリンの前に置いた。
彼女が嫌なものを流し込むようにして、喉を鳴らした。
「別に私はどうだっていいんだけど、面白くは無いわね」
「大変そうですね」
カンタルの何気ない言葉に、彼女の眉が上がる。
「他人事で済ませるつもり?」
「あー、そういう訳でもないですよ? 分相応という奴です。偉い人のやり取りはわかりませんから」
彼は苦笑いを浮かべ、自分の椅子に戻って、自分の紅茶を飲んだ。
冷え切っていて、舌に苦みが残る。
そんな彼の耳に、エリンの言葉が刺し込まれた。
「あなたを巡って、ガーオレン王国とフォルデノン王国が戦争を始めるかもしれないっていうのに、暢気なものね。私でもそこまで神経太くないわ」
「……何の冗談です?」
鋭い切れ味というものは、切れていても気付かないことがある。
むしろ、切られたことなど気付きたくないものだ。
だからといって、切られたことに変わりは無い。
彼女が口元だけを笑わせ、紅い唇を歪めた。
「あなた、フォルデノン王国の『姫将軍』――――レイナ・ゴルト・ルウィング姫殿下の婚約者らしいわ」
「えっと、そんないかつい階級の女性とは、出会ったことすらありませんが」
彼としても、困惑を通り越して不思議としか感じられない。
会ったことも無い婚約者に、何の感情を抱けようか。
いやそもそも、そんなに簡単に婚約者が見つかるのであれば、既に元の世界で結婚していたはずである。
その様子をどう見たのか、エリンが短い息を吐いた。
「はぁ。しかも『教会』の最高教主の一人娘――――ファラ・セルディノス・エリラウアも婚約者として名乗りを上げてるんだけど。……何したら、そんな業の深い状況になるの?」
「……わかりません。俺にも、何が何だかさっぱりわかりません」
カンタルは、両手で顔を覆った。
偉い人の考えることは、本当によくわからない。
巻き込まないで欲しいと、切に願う。
『教会』の一人娘と言えは、セルディしか思い浮かばない。
手を出した覚えも無ければ、手を出された覚えも無い。
深く沈み込むカンタルを尻目に、エリンが呆れた顔をした。
「事実はどうあれ、国がお題目を掲げて動くということは、『そういうこと』よ。政治のカードとなってしまったからには、ファルマ伯爵も容易に動けなくなったみたい」
「……それは良い事なんですか?」
顔を伏せたままのカンタルが言う。
エリンがティーカップの縁を、指で軽く撫でた。
「知らないわ。少なくとも、あなたはフォルデノン王国にとって確信的利益の一つなんでしょうね。身代金で返却されれば穏当な方だけれど、ガーオレン王国の判断によっては、悲惨な最後もあり得るもの」
彼女が荒れ果てた庭園を見つめて、肩を竦める。
「今はどっちの国でも、焦って手札の準備中よ。少なくとも、それが終わるまでは平和なはずね。残り少ない平穏を、もっと楽しんだらどう?」
「楽しむ、ですか」
この状況を楽しめる者を英雄と呼ぶのだろうが、生憎としてカンタルは小市民だ。
国家元首の娘と二股した上に、敵性国家に捕らわれているなど、彼の人生経験を三回ほどオーバーキルしているだろう。
楽しむなど言語道断で、彼に出来ることは現実逃避以外に無い。
身近な作業に没頭すれば、嫌なことも忘れられるかもしれないと、カンタルは考えた。
「……ごはん、作ろっか」
「敵ぅいー」
賛成、と言わんばかりに、のっそりとアサが手を上げる。
エリンもそれに続いた。
「それがいいわね」
「あ、そういえば」
カンタルは椅子から立ち上がったところで、この屋敷に到着してからの疑問を聞いてみた。
「何でこの屋敷には、メイドさんが一人しかいないんですか」
「ああ、そんなの決まってるじゃない」
当然のように、エリンが笑顔で頷いた。
「間違って『毒』で殺してしまったら、可哀そうでしょう?」
「敵ぅっ!」
アサが急いで胸元の小瓶を押さえた。
カンタルは難しい表情を浮かべる。
「ルフェンさんは、いいんですか?」
「あの子? 確かに形としてはメイドとして送り込まれているけど、あの子がまともにハウスキーパーの仕事をやっているところ、見たことある?」
「あ、いえ」
カンタルに、彼女が掃除をしている姿を見た記憶は無い。
たまに屋敷の中を歩き回り、殆ど姿を消していることが多かった。
だとすると何なのだ、という彼の真っ当な疑問に、エリンが答える。
「あの子は、私を殺すためにガーオレン王国から送り込まれた監視よ。まあ、牽制みたいなものね。意味は無くても、首輪をつけたと思う気持ちは欲しいものよね」
「安心したいのは、誰も一緒ですか」
我が身が可愛いのは、国家元首も小市民も同じだった。
そうであるのならば、この凄まじい『毒』を持つ女性すらも、安心したいのだろうかと、益体も無いことを考えてしまうカンタルであった。




