第16話
緑の匂いが濃く、空気が重くなっていた。
誰かが足を動かせば、枯葉や小枝の折れる音がして、張り詰めた緊張を更に苛立たせた。
そんな中で、音も無く歩くリョカが小声で言う。
「ダンジョン、みたいね」
「はあ」
小脇に抱えられたままのカンタルは、気のない返事をした。
彼の考えるダンジョンとしては、魑魅魍魎が跋扈する暗がりの洞窟だろう。
地下に広がる迷宮も、その一つだ。
だが、彼のいる高台から目前に広がる景色は、日の光が差し込む、朽ち果てた遺跡だった。
建物が風化して天井が崩れ落ち、経た年月の重さを感じさせる。
乱立する白い柱や壁が、墓標の如く突き立っていた。
リョカが片目を手で覆い、意識を集中させている。
「居るわね」
「一匹かい?」
背後にいた暁光の傭兵団団長――――コウエン・ディオルが近寄った。
ダンジョンを観察しながら、眉根を寄せている。
リョカが振り向かずに言う。
「少なくとも二匹、子供を産んだばかりで気が立ってる」
「……厄介だな。巣ごもりの所為で見つけやすかったのは良いが、気性が荒いのは面倒だね。撤退できそうかい?」
「無理かな。一匹が動き出したわ」
「頼めるか?」
コウエンの問いに、彼女が静かに頷いた。
カンタルとコウエンの視線がぶつかる。
すると、リョカが澄ました顔で言う。
「問題ない。スキルを使う」
「わかった。では頼むよ。僕たちは挟み撃ちで、背後の一匹を討つ。僕は本隊を率いて左側面から向かう。エオルは右から遊撃隊を連れて追い込め。行くぞっ!」
団長の号令が一喝され、傭兵たちが地響きの鳴る怒号で返した。
傭兵団が左右に割れ、一つの目的に向かって動き出した。
その時、遺跡の正面から、殺気立った獣が現れる。
額から二本の角を出した魔獣が、無駄のない筋肉を纏わせて大地を蹴った。
その大きさは、胴を長くしたライオンに近いだろう。
人数の多い本隊を脅威と判断した魔獣――――デューラが飛び上がった。
リョカがタイミングを合わせて、何もない空間へ向かって剣を振る。
「闇に落ちろ――――『暗黒』」
「シャアァァァァァッ」
デューラが、血飛沫を上げて後退した。
黒い闇から突き出たリョカの剣が、距離を無視して飛び出している。
カンタルは放り投げられた。
「あいたっ!」
「ちっ、勘が良いかな。傷が浅い」
黒衣をなびかせて、リョカが斜面を滑り降りる。
デューラも彼女を最大脅威と認識したのか、牙を剥いて駆けだした。
一直線に衝突する勢いで――――デューラが足を取られる。
地面に張られた黒い影に、前脚が嵌っていた。
その隙を見逃さず、リョカの剣が横薙ぎに一閃する。
「ギャァァァァァンン」
太い前脚が宙を飛んで、遺跡の壁にぶつかって落ちた。
デューラが反転して逃げようとする。
「待て――――っ」
追撃を選んだ彼女が、上半身を大きく前に傾けた。
魔獣の後ろ足が、蹴り足に見せかけて飛来する。
逃げる振りをして誘ったデューラが、体勢を崩したリョカに向かって再反転し、体当たりを仕掛けたのだ。
鋭利な魔獣の角が、黒衣を穿って、高々と掲げられる。
ぶらり、と空中に揺れる両足があった。
デューラが首を振り、その勢いでリョカが遺跡の白い柱に飛ばされる。
空中で態勢を入れ替えた彼女が、横向きで柱に着地した。
「くっ。魔獣の癖に、生意気かな。……あ、『シノ』様、今は駄目で――――」
「シャアアァァァッ」
魔獣の視線が、カンタルに向けられた。
強敵よりも、動かない弱者に狙いが変更されたのだった。
「うぁっ」
何しても無理だろうなぁ、という気持ちが彼に生まれると、手の先一つ、まともに動かせなかった。
角を向けて突進してくるデューラに対し、立っていることしか出来ない。
抵抗しようとか、角を捌いて反撃するとか、そもそも頭に出てこないのだ。
スキルの発動を告げる天啓さえ、聞こえることは無かった。
代わりに、幼子の必死な叫びが聞こえた。
「ははさまっ!」
地面から生まれた鎌状の黒い刃が、デューラの頭蓋を易々と貫いていく。
次から次に、幾本も生まれてくる黒刃によって、魔獣が持ち上げられながら裂かれた。
派手な血飛沫を上げて、肉の塊が落ちて転がっていった。
「…………」
カンタルの足は震え、喉が腫れたように詰まる。
今更、恐怖が足元から這い上がってきたのだろう。
だからと言って。
母親を心配して駆け寄る幼子に対し。
怯えた視線を向けて良かったとは、思わない。
「はは――――さま」
彼女が、衝撃を受けた瞳をしていた。
絶対に裏切らない者へ裏切られたかのような、驚きが見えた。
それでも彼女が、一生懸命に何かを考え、頭を下げる。
「ごめんなさい、ははさま。ごめんなさい、ごめんなさい――――」
どうして良いか、分からなかったのだろう。
自分が悪いと思い込み、何度も頭を下げてくる。
「…………」
謝る必要は無いのだと、言葉が出れば良かったのに、カンタルの身体は動いてくれなかった。
臓腑が捩じり切れんばかりの、自分への怒りがあった。
出したい声が出ない。
「ごめんなさい……」
彼女の声に涙が交じり、最後には途絶え、小さな足取りで遺跡の奥に行ってしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
どれくらい時間が過ぎたのか分からないが、カンタルは肩を揺すられていた。
いつの間にか座り込んでいたのだろう、地面が近く見える。
「おい、しっかりしろ」
「……あ、エオルさん」
カンタルは顔を上げて、声の主を見た。
厳しい表情をしたエオルが、膝立ちのままで言う。
「何があった」
「リョカが、魔獣に突っ込んでいって、やられて、魔獣が俺に向かってきて、それで、それで――――」
上手く言葉が出てこない。
伝えるべき事柄は分かっているのに、伝えるための言葉が致命的に出てこない。
それをどう思ったのか、エオルが彼の背中を叩いた。
「もういい、とりあえずお前は帰れ。動けない奴らを乗せる馬車が来てるから、そこまで行け」
「…………」
「ちっ、手間かけさせんじゃねぇ」
乱暴に襟首を掴まれ、半ば引き摺られる形で馬車まで連れていかれた。
荷台に放り込まれ、馬車が進み始める。
腹に血の濡れた包帯を巻いて呻き続ける男と、それの手当てをする者がいた。
布に全身を包まれて、身動き一つせず馬車の揺れに合わせて揺れる、人の形をしたものがあった。
カンタルの顔が強張る。
それを見た手当てをしている男が、苦い顔で言う。
「おい、あいつをそんな目で見るな。仲間だぞ」
「は、はい……」
精一杯の返事をしたが、手当てを続ける男が納得することは無かった。
どうしてこんな思いをしなければいけないのか、とカンタルは苦々しく思う。
異世界でだって、誰も彼もを救える超人になれないなんて、おかしいじゃないか。
まだ現実の方がマシだったのか。
いつだって、世界は彼にとって厳しいものだった。
――――オカンスキル、発動します。
今更なんだよ、とカンタルが心の内を吐露する。
スキルで助けてくれたっていいじゃないか、と戻せない過去を想う。
そんな彼に聞こえて来た言葉が、頭に残った。
はっはっは、そなたは誰も彼も救いたかったのかえ?
世界中の人間を、であるか?
ひどく頭は悪いが――――心根は優しき子よのう。
勝手に死ぬ者などどうしようも出来ぬし、相手の勘違いなど知るものか。
他人など、思い通りになるわけがなかろう。
だからな。
そなたは優しい故、傷ついておるだけだ。
それは決して、間違っておらぬよ。
誰に言い訳をする必要も無い。
そなたの愛しきものに、優しくせよ。
そなたが思うより、優しさは強きものぞ。
そなたは、そなたの優しさを信じれば良い。
歩いた道は、そなたの後ろに出来るのだ。
道無き前を見よ。
答えはそこにしか無いぞ。
我は、前を見るそなたが、愛おしいのだ。