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ミニマリスト的方法で論証された倫理学

作者: 有明未明

スピノザは特に関係ありません。

 ――人間は単純さを好む。

 物の置かれていない殺風景なマンションの一室、部屋に充満する掃除機の振動音を突き破って、選挙カーの連呼する名前が鼓膜を震わせた時、ふと彼はそんなことに思い至った。

 人は、何故未知の人物よりも既知の人物を好み、後者により一層の安心感を感じるのか。その問いに対する回答として、次のようなものがある。

 人は、幾度となく同一の経験を繰り返すことによって、脳裏にある種の予期のモデルを形成する。予期のモデルは現実に対し、「起こり得る可能性」を想定し、そうでないもの――発生する可能性の全くないと思われるもの、或いはその少ないもの――を排除することによって処理する必要のある情報量を削減し、円滑な意思決定を助ける。

 人間関係においても、メカニズムは同様である。未知の人物よりも既知の人物と接する方が、脳に要求される処理能力は小さくて済み、その負荷の少なさに人々は安息を感じる。

 ――情報処理の負荷削減に伴う安息。それは、自分の性向にも当てはまるのかもしれない。

 必要最低限の家具。物の置かれていない、シンプルな――要求される情報量の少ない――部屋。

 自らの住まいを眺め渡し、彼は記憶と忘却の狭間で、そんな思考を漂わせる。

 掃除機のスイッチを切り――振動の海は引いてゆき、遮るもののなくなった名前の連禱が、自らを刻み付けようと差し込む――内部に蓄積された堆積物をゴミ箱へと。

 眉をしかめる。

 ゴミ箱へとあけられた排出物、その大部分は彼自身の髪の毛から構成されていた。

 ――汚らわしい。

 彼の部屋――常に秩序だったものであることが期待される、彼の聖域――が、ほかならぬ彼自身からなる汚物によって、猥雑に穢されゆくことへの嫌悪。

 彼にとって、彼の部屋は清潔でなければならない。

 ふと、窓が視界に入る。外の光は曇り空の下弱弱しく、部屋の内部から窓へと当たり、再び内部へと反射された光を圧することがない。

 彼は魅入られたようにその鏡像を見つめる。

 清潔で、秩序だった一室。ただ、彼のみが無秩序に這い回り、汚物を垂れ流している。

 ――嗚呼。

 彼はゆっくりとした動作で窓へと近寄り、それを開ける。五階分の高さ。冷たい風が顔をたたく。


 人間は世界の複雑性を縮減するために、各々が独自の世界像を構築する。

 しかし、その様なモデルは常に現実との不一致に悩まされ続ける――何しろ、それはあくまで現実から要素をそぎ落とすことでしか、また物事を説明するために架空の要素を付け加えることでしか構築できないのだから。

 では、いかに対処すべきか?方法論としては二つ、一つは、観察された現実との不一致に対し、適宜世界像を修正していく方法、もう一つは、構築された世界像に合わせて、現実の方を修正していくやり方だ。


 彼は、窓枠に足をかける。身を乗り出す直前に、ちらりと、彼の――彼の物だった――そして依然として彼自身の物であり続ける――その部屋を一瞥する。

 秩序と、清潔。

 彼自身の要請した、その完全性を満たす、彼の聖域。

 彼はその様子を魂に焼き付けると、中空へとその身を躍らせる。自らの理想、そのモデルを完成させるための手段として。

 地面へとたたきつけられる直前、彼の顔は安息に満ちていた。彼の心の中にある、彼自身の世界。それが乱されることは、もう永遠にありはしないのだから。

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