七 鳥井
久し振りに鳥井に会ったのは六月だった。僕が教室に居て、彼は入り口から声を掛けてきた。それは陽気な挨拶をした。ただし彼の声音や表情が陽気なのではなく、彼の発した言葉が、文字にすると際立って尋常でない気分の挨拶になるのだ。僕は彼の挨拶を正確に聞き取れなかったのだが、なぜか僕のことを兄貴呼ばわりしていた。彼はそれを無表情と平静の口調で言うから、僕をおかしく思わせた。
「やあ、久し振りだね」
言いながら彼のもとへ近付くと、彼の隣に、一人の男が彼にくっつくようにして立っているのに、今更気付いた。いよいよ廊下に出ると、鳥井の近くに立つ男が、一人また一人と増えていく、正確に言うと僕が見つけていく。僕は閉口した。僕は鳥井一人と接するつもりが、大勢の彼の仲間達に迎えられていたのだ。
僕は気を取りなおして、鳥井一人と話そうとした。
「どうしたの?」
「実はこの久保田って奴が現代文の教科書を忘れちゃってさ、そっちのクラスでも今日現代文あるでしょ? 悪いけど貸してやってくれないかな」
「ああ。いいよ」
その時話したことを要約すれば、こう表される。だけど実際の会話は、こんなに簡単ではなかったし、もっと多くの時間を費やしていた。僕はそれを疎ましく感じていた。
鳥井が喋っている際中、彼の周囲の男達が、しきりに賑やかに鳥井に混じって話しかけている。鳥井は、仲間達に邪魔されることをむしろ求めていて、何度も話が中断しては仲間と戯れている。
彼等がただ楽しそうに話していたなら、僕はまだ気楽でいられたと思う。僕が嫌な心持をした理由は、彼等の会話の内容が理解できない点にあった。主義主張が理解できないのではなく、そもそも理解できない言葉、単語が連発して、僕を困らせたのだ。
思い返せば、鳥井は中学の頃から、時折僕には解らない言葉を使っていた。その言葉は、僕の語彙と隣接しているようでありながら、正体の認識できない壁が一向謎なものにさせていた。彼が奇妙な言葉を喜々と投げかける度に、僕は頼りない笑顔と笑声で、彼の言うことを理解した気になっていた。
それに対して、鳥井を含む男達が、依然として僕には解釈できない謎の言葉を吐き続け、僕を脅かそうとしている。その割に僕は、少しも彼等に圧倒させられた気にならなかった。
僕は段々と、自分の心が離れていく感覚がした。心の眼とでも言うのだろうか、僕は彼等から、実際の距離とは幾分遠い処から、彼等を眺め出した。僕は驚いた。鳥井が何人も居るのだ。さっきまで一人一人別人と認めた男達が、皆鳥井に見えてくる。無論これは僕の錯覚だ。それでも彼等から放たれる品格というか、気というか、そういったものが人工物のように均質だった。こう見えた時、今まで鳥井に備わっていた個性がすっかり抜け落ちて見えた。
僕は鳥井を、鳥井達を軽蔑しだしていた。急激にこういう人達と一緒に居るのが嫌になった。僕は彼等から離れたいために、急いで現代文の教科書を取って渡した。
彼等との交流は少しだけ続いた。鳥井が仲間を引き連れて、僕の居る教室を訪問しては、奇妙に騒ぎ立てるのだ。僕は鳥井達の仲間にはなりたくなかった。彼等と親しい関係であると目されたくなかった。彼等の姿が見えると、溜息が出るほどで、少しも望ましくなかった。
間もなくして、僕は鳥井との訣別を決めることになるのだが、その意志を持つに至る発端は、実に些細なものだった。僕は以前のように、鳥井の頼みに応じて教科書を貸した。教科書はすぐ返されたが、ページをめくると他人の字で小さくメモがされているのを見つけた。鳥井の筆跡ではなかった。僕は自分でも訳が分からないほど憤慨していた。小さな字は、消しゴムでいくら圧をかけても教科書に刻まれていた。
以来僕は、授業が終わると即座に教室を飛び出し、鳥井達と出くわさないようにした。あるいはクラスの仲間達と過度なまでに浮かれ騒ぐことで、鳥井の介入を控えさせようとした。こうした努力は功を奏し、鳥井と話すことは激減した。最終的には顔を合わすことも無くなったくらいだ。