六 高校時代
混沌の高校時代、僕は仲間達に囲まれながら、愉快に過ごしていた。彼等との友情は軽薄と言うに相応しかったけれど、友達と呼ぶのも間違ってはいなかった。僕は何も考えず、自然と彼等と交わっていた。高校入学までの長い春休みは、僕のあらゆる拘泥を拭い去ってしまったらしい。それでも、心のどこかで、僕は彼等とは異なる存在なのだという意識が根強く残っていて、それが僕を静かに満足させていた。僕は鳥井のように内奥を表現せずにいられない人間ではないから、自意識を漏らすことは決してしなかった。
僕と鳥井は、同じ高校に入学していた。中学の頃、同じ進路を志望していると知った時は、随分頼もしく見えた。だけど僕等は三年間で一度も同じクラスにならなかった。
はじめて鳥井の名を高校の人間から聞いたのは、三年生になってからだった。一年生の時分から、たまに会って話すぐらいの関係になっていた僕等は、明らかに疎遠と言えた。僕は、環境の変化が人間関係へ及ぼす無常を思ったものだ。
久し振りに彼の名を聞いた時は、少し意外だった。僕の知る鳥井は、周りの人間から噂を立てられるような人間ではなかったからだ。さらに意外だったのは、鳥井の評判が良くなかったことだ。彼の評価は、そもそも黙殺である方が自然だったというのに。
どうやら彼は、彼のクラスの女子達に嫌われているという。なぜ彼が悪く言われているのかを訊ねるのだが、相手からは要領の得ない回答ばかりが返されるだけだった。ただ何となく、と言っていいらしい。僕は理不尽を感じつつも、納得してしまう処があった。
中学時代の僕と鳥井は、まさに親友だった。多くの時間、多くの言葉を交わした。だからこそ、僕は彼から時折感じる違和感を誰よりも知っていた。
例えば彼は、僕の言うことを何でも知っていた。これは僕等があらゆる趣味を共有できるほど、心が通い合っているというわけではない。僕等が随分打ち解けた仲だったのは間違いない。だとしても、彼は僕の言うことを不自然なまでに知り過ぎていた。
こういうことがあった。あの時どういう会話の流れがあったのか、今となっては想起が困難なのだが、とにかく僕はある物について一つの喩えをした。
「あれはまるで昔のキーボードの配列みたいだ。キーの配置が今と違ってバラバラな……」
僕がこう言うと、鳥井は、ワカメのような前髪で隠れそうな眼に微妙な笑みを浮かべ、
「それ、かなり前のことだよなあ?」
と応じた。僕は、相手には伝わらないのを覚悟に、というかそれが目的で、パソコンのキーの喩えを言ったのだ。僕がこんなことを言えたのは、母親がかつてキーパンチャーをしていたからであって、僕の経験によるものではなかった。しかも僕は、キーの配列がどう違うかも知らないで鳥井に言っていた。後になって判ったのは、かな入力に用いるひらがなのキーに相違があることで、アルファベットには何の変化もなかったのだ。
あの時の僕は、発言者本人であるにも拘らず、よく分からないまま古いキーボードを引き合いに出したのだ。それを鳥井は正確に理解し、彼の想像で、Aのキーに「ち」ではないひらがなが記されたボードを浮かべられたというのだろうか? 鳥井の「それ、かなり前のことだよなあ?」という語調は、いかにも相手の発言を完全に把握している調子だった。僕にはそれが予想外で、信じられなかった。
もしかすると、あの時鳥井は、僕が言うことを偶然知っていたのかもしれない。ただし、僕は彼の「偶然」に何度直面したか分からない。その「偶然」の内には、彼の嘘が必ず含まれているに相違ない。その証拠に、彼は知っている風こそ見せるものの、そこから自分の知識を披瀝したことが一度もない。そういう彼に対面する度、僕は違和感を覚えるけれど、彼の真偽を追及することなく、次の話題へ流していた。
今となって彼の不審点を着目すると、彼のことがどこまでも疑わしい存在になってくる。僕は彼と長い時間を中学校内で共有した仲であったが、思えば彼が胸襟を開いて僕と向き合ってくれたことは数少なかったのではないか。そう思う根拠は、試験の点数を曖昧にしか言わなかったり、志望校をなかなか教えてくれなかったりといった、小さな過去の積み重ねに過ぎない。その積み重ねの結果が、ついに巨大な塊となって僕の前に表れた時、僕には鳥井が何だか異様な姿に見えてきた。
鳥井を疑うという、思念は一瞬で拭えた。僕は久しく鳥井と会っていないがために、彼のあらゆる性質の一側面を誇大に見ているだけなのだ。長い付き合いが、彼の悪い点まで発見してしまったのだ。彼への猜疑は、本来わずかなもので、これぐらいで友情は破綻しない。彼といざ対面すれば、僕は彼の美点を見つけるのに何ら苦労しないだろう。そう思いつつも、実際彼の美点とは一体何を指すのかという考えには、この時至らなかった。