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となりのサナトリウム

作者: 王加王非


「神殺しを果たしても君は神にはなれない」

 明るい夜空には星一つ見えず、ただ浮かぶ巨大な月を背に立つ彼女は言った。

「変えられるものなら変えてみせろ」

 微笑みだけを残して彼女は去ってしまった。



 私の世界は完璧に閉塞していた。

 酷く整備の行き届いた敷地の中。

 常人ならば気が狂うほど掃除の行き届いたその屋敷で、私は過ごしてきた。

 庭は広大で、朝から一日中歩いても敷地の境界まで辿り着くことはできない。

美沙(みさ)、次は何をしたら良いの?」

『数学のお勉強をしましょう。テキストはこちら、高麗式数学書をお使いください』

 黒く長い真っ直ぐな髪とその美しい姿は私の記憶の中で今なお色褪せない。

「また、これなの?」

『はい、ですが、中身は美澪様が苦手とする問題の傾向を鑑みて再編集しております』

 彼女の心は当時の私よりも清く誠実なものであった。

「それってつまり解けないってことでしょ?」

『いいえ、きっと次は解けるはずですよ。解けたら一緒に西瓜を食べましょう』

「わかった。頑張る」

 蝉の音に惹かれて外に目を向けると縁側で揺れる風鈴越しに彼方に聳える塀が窺えた。



 隔絶された世界だったが、当時の私にはそれが全てだった。

 無知を知ることが許されないその環境は、今の私からすれば楽園だった。

「お父様、僕はいつか美沙に追いつくことができますでしょうか?」

 私は7日に一度、食事の時間のみ面会を許された父親という人に問うた。

『できるかもしれない。ただ、美澪が成長するように、美沙だって成長しているんだ』

「それでは、僕は美沙以上に鍛錬せねばならないのですね」

 その言葉は私に僅かばかりの嫉妬と、熱を与えてくれた。

『時間は有限だ、その限りある時の中で美澪は美沙以上に努力しなさい。そうすれば、いつかきっと、美沙に追いつけるだろう』

 その時盛大に飲み干した牛乳の色は確かに白かった。



「先生、美沙は僕と比べてどれほど優秀でしたか?」

『そうですねぇ、美沙さんはとても優秀でしたねぇ、私の講義をノートに録るようなこともせず、全てその場で脳に書き込むかのように臨むような子でしたね』

『本当ですか?』

『もちろん、高麗くんも優秀ですよ?』

 付け加えられたお世辞は私の耳には残らなかった。


 確かに隔絶された世界であったが、屋敷には学校があった。

 私にはしっかりと学友もいた。

 いじめっ子もいれば、いじめられっ子もいた。

 私がそれに加担することもあれば、私が標的になることもあった。

「美沙を超えるには美沙ができることはすべてできなければならない」

 晴れ渡る空を見上げて、ひとりごちた。

「いいや、それだけじゃだめだ」

 つくづく思う。完璧な世界だったな、と。


「美沙、今日から俺は一人で寝ます。最近美沙の寝言がうるさいのです」

 唐突に吐き出した言葉は美沙の表情を驚愕に満ちたものに急変させ、取ってつけた嘘は、更に美沙の顔を赤く変えてしまった。

 そんな美沙を残して、別室にこもったフリをした。

 その実、バルコニーから木へと飛び移り、夜遅くまで屋敷裏の図書館に忍び込んで只管に勉強することを自らに習慣づけた。

 その日、私は嘘を吐くことを覚えてしまったが、私はあの瞬間、確かに成長したと思う。



 それからどれだけの年月が経ったかはわからない。

 壊れそうなほどの情報を押し詰めた私の頭は、これまた唐突に思ってしまったのだ。

「美沙姉は、境界の外に出たことはありますか?」

 勝てるはずもないその存在には少し嫌気が差して来ていた。

『いいえ、恥ずかしながら…… どうしたのですか、急に』

 しかし、その言葉に私は一筋の活路を見出してしまった。

「いや、気になっただけですよ」

 ――俺が先に外に出れば、美沙の知らない何かを見つけ出せる。

 美沙の持っていない何かをこの手に収められる。

 そんな馬鹿げたことを私は考えついてしまったのだ。

 テレビはあった。ラジオもあった。

 放送される内容は、確かに俗世の情報をくれていた。

 図書館に置かれたすべての書物がファンタジーだけだったなんてことはなかった。

 新聞さえも、蔵書さえも日々更新されていたのだ。

 学校では地理だって、地学だって確かに教わったのだ。

 気の遠くなるほどの長い日々を超えて、ただの好奇心だけでは辿り着けなかった敷地の境界線を超える決心が着いた。

 体育の授業では無心に走り込んだ。

 美沙にバレてしまったら美沙は俺よりも先に、外界にたどり着いてしまいそうで、それが嫌で、この足が一晩で往復できる距離を愚直に伸ばした。

 機械に頼る方法はいくつも考えた。図書館で得た知識で、それら人体輸送機器を完璧に作り上げることも容易だったはずだ。

 しかし、理科室や技術室に忍び込んでも、バイクや自転車の部品になりそうなものは何一つ手に入れられなかった。

 毎夜チョークを片手に知らない世界を求めて走り続けた。

 昨夜、限界を感じて刻みつけた白い印を、超えていく瞬間は快感だった。



 もはや目的を失いかけ目標だけが先行しかけていたある日のことだ。

 チョークの印は千を超えていたと思う。

 遂に空高く聳える塀へと辿り着いた。

 脱出口を探しても見つけられず、それから何日かありとあらゆる手段でもってして壁面に傷をつけたり、屋敷から走る方角を変えてみたりもした。

 その頃には私も流石に気づいていたのだ。

「俺たちは閉じ込められている」

 この時、私はすべてを疑った。

 まずは学友、先生、父親、そして美沙、自分の知らないことも知っていて、自分の知っていることは大抵知っている美沙はこの事実を知らないとは思えなかった。

 今までの絶大の信頼とただ超えるべき壁として君臨していた美沙という存在は恐怖の対象となった。

 私がいつから美沙を超えたいと思うようになったのか。

 そもそも何故私は美沙と二人で生活しているのか。

 全てがわからない。

 記憶がないわけではない。

 もっと根本的な話だ。

 生まれてこの方、物心つく前から私、もしくは私達は閉じ込められていた。



 翌日から私の当面の目標は犯人探しへと切り替わった。

 チョークの痕跡は消したが、すでにこの敷地の人間の誰かが外に出ようともくろんでいることに私達を閉じ込めた誰かが気づいているかもしれない。

 しばらくして、答えは自然と浮かんだのだ。

 この完璧で欺瞞に満ちた世界を作り出したのは誰か。

 世間に仕事というものは確かに存在する。

 コンピュータ室で使用できるインターネットは確かに外界に繋がっている。

 テレビやラジオの向こうの世界は確かにあるのだ。

 答えは簡単だった。


「父上は境界の外を知っていますか?」

『突然どうしtaとi4ydae』


 視界に亀裂が走った。


【Error  】


 今でもその表記が視界に焼き付いている。

 私のカリキュラムはある日強制終了した。

『おはよう』

「6j5fq@;q@ x7t5p」

『やっぱり強制終了はちょっとまずかったかな。私の名前は廿楽杳子(つづらようこ)、貴方という人格をヘッドハンティングしに来た』

 緑で霞んだ視界にくぐもった声が聞こえてくる。

『ようこそ世界へ。君の乗っているスピノザは今から衛星軌道から振り落とされるだろう。まあ落としたのは私だから問題なく不時着するはずだ』

 思考が間に合わない。何故か自分の腕は薄白い。

 プカプカと浮かぶこの浮遊感はなんだ。

『ああ、まだあまり現実を受け入れようとするな』

 急に襲ってきた吐き気に促されてすべてを自分が浮かぶ緑色の液体にぶちまける。

『おうぅ。まあいいや。君にはいずれ世界を変えてもらいたい』

 それからのことはあまり覚えていない。

 強い振動で球形の水槽は割れ、中に私はそのまま転げ落ちた。

 伸びきった爪や髪が纏わりついてか、飛び回る液体が喉に詰まってか、わずかにのたうち回った後、気を失った。




 気がつけば私は病院の中だった。

 視界は白い天井、その変哲も無い天井が驚くほどクリアに映った。

「廿楽先生! 五号室の患者さん、目が覚めましたよ!」

 駆け出していく看護婦らしきものの声が遠退いて行く。

 蛍光灯の灯りへと伸ばした腕は未だ嘗て感じたことのないほど自由そのものだった。

 そんな私にポツリと声が掛けられる。

「世界へ、いや、現実へようこそ。一週間くらいは匿ってあげられるだろう」

 見覚えのある長い白髪の若い女は全くの無表情で私にすべてを淡々と語った。

 至極単純な話だった。

 私は生まれてこの方、VR空間で培養されていた。

 ビニールハウスで育てられた苺だったのだ。

 空の蒼さも、海の碧さも、原理は知っていて、その色は知っていたのに。

 そう、私は知らなかったのだ。

 現実世界がこんなにも鮮明で緻密に作り込まれているなんて。

 埃に塗れた院内を散歩し、あまり美味しくない飯を食った。

 食感がこんなにもリアルで飲み干した牛乳は今までに飲んだことのない味がした。

 鏡を見て今までずっと男だと思っていた私が男でないと気付かされ、ただ立ち尽くした。

「君が何故地球の衛星軌道で隔離されていたのかと、何故私はその君を地球に落としたのか。それくらいは説明しておいてあげよう」

 亜光速超重力培養衛星スピノザ、私の沈んでいた球体のことを彼女はそう呼んだ。

 私は世界的に有名な財閥の娘のうちの一人であり、末子だった私は一縷の逆転の望みを託され実験体としてこのスピノザで育てられた。

 そして、そのスピノザの正体とは、ゲーム仕立てで作り込まれた虚構学習装置である。

 スピノザはその球体名の由来であるオランダの哲学者バルフ・デ・スピノザが提唱した汎神論、ひいては永遠の相の下を完全再現した世界だった。

 汎神論では、世界は我々個人の精神を含め、自然が神であるとするものである。

 では錬金術師の如くすべての自然を制御できる者が自然の外部に立てばどうなるか。

 私の思想は、意志は、意識は、このスピノザによって支配されていた。

 私は、ずっと、水槽の中でずっと夢を見てきたのだ。

 一切無駄の無い洗脳教育が私の人生十四年間を席巻していた。

 そして、そのスピノザが地球外縁軌道に位置する理由は時間短縮である。

 アインシュタインの相対性理論で説明される通り、光速に近づく程に時間の進みは遅くなる。

 衛星軌道滞在による重力ポテンシャル分時間の進みは遅くなりはするが、最速秒速8kmの衛星軌道で超重力装置を使用することで亜光速航行していたのだった。

 無論、超重力修行は筋トレ目的ではない。

 万人に課せられた時間制約の限定解除。

 時間圧縮効果が得られる。

 私が十四年間過ごしてきたスピノザは確かに十四年間だったのだ。

 しかし、地球上ではまだ八年間しか過ぎていなかった。

 このスピノザによって、私は美沙とは違う見たことも無い姉共よりも年を取っていた。

「汎神論方式じゃなくて心身二元論方式に則った心身分離時間航行衛星デカルトってのも一応作ったんだけど、却下されてしまったんだ。まあ、姉のせいでデカルトは意味を失ったけどね」

 そして、私がスピノザから引きずり降ろされた理由、それは、世界中を変革したとある新薬セーシェルタートルの開発に起因する。

 セーシェルタートル。それは老化スピードを大幅に遅らせる長寿薬。

「貴方は男として育てられて来たわけだけど、トランスってわけでもなさそうだし。やっぱり女の子なら年は取りたくないじゃない?」

 時間は確かに有限だ。

 追いつけない何かに追いつくにはそれよりも速く走るしかない。

 私はずっとその二つをスピノザの中で植え付けられてきた。

 でも世界は変わってしまった。

「そして最期にもう一つ、貴方のカリキュラムは総じて十七年間。後三年は残っていたの」

 その三年間のカリキュラムは開発者の一人だった廿楽杳子も看過できない程の内容だったらしい。

 しかし、そこで気づいてしまったのだ。

 この女は大嘘つきだと。

 凄く新鮮で長く感じた一週間はあっという間だった。

 その後は、ずっと高麗財閥の刺客から逃げ回っていたが、体が勝手に動いていて何をしていたかあまり覚えていない。

 人は体験の鮮度に合わせて体感時間の伸縮を行う。

 反復動作により効率化されたものはとても短く感じ、時に世界が止まって見える。

 確かに、実際にこの目で見た世界は新鮮で、まるで現実という速度についていける気がしなかった。

 しかし、私のこの逃亡生活に鮮度がなかったのはスピノザでその訓練をしてきたからに他ならなかった。




 父親を殺して、五年の歳月が過ぎた。

「意識は因果律に従うか?」

 一事象に限らず、全く脳で同一の経験をして生きてきた人間であれば果たして。

 図書館の蔵書は時間進行差の影響を鑑みてかなりの頻度で、更新されていた。

 その中で見つけてしまったのだ。

 《架空三年計画》。

 システムはすべて廿楽に完成させる。

 その上、ニセの十七年計画の内容を廿楽にリークし拒絶させる。

 更にその上で十七年計画を強行する。

 その際、廿楽は必ず、何らかの手段を持ってして計画を中断、その後美澪と接触を図る。

 我々はこの三年間分の教育を廿楽提唱のデカルト方式で彼女に施す。

「私に自由なんかなかったんだ」

 永遠の相の下、私が美沙を超える日が来る。

 その点を堺に必ず美沙は私に悪意を向ける。そうなっていた。

 その真実を知って私は自殺を繰り返し、スピノザの中で父を殺そうとした。

 何度も何度も何度も。

 もちろん、そんなコマンドは承認されない。

 そして、私は、全てのカリキュラムを終えて神を殺す選択肢を取った。

 父上が本当は私を愛していたことも知っていた。

 美沙のモデル人格が実はAIでなかったことも知っていた。

 それでも神を呪うよう神に操られた私は父をこの手で殺害した。

 そこまですべて、廿楽が仕組んだことだとも知っていたのに。


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