第84話【3月2日】卒業式で受け継がれるもの
今日は霧乃宮高校の卒業式だった。
平日ということで保護者の参列は少ないかなと思ったが、かなりの人数が来ている。やはり我が子の晴れ舞台を見ておきたいのだろう。
在校生代表で送辞を読むのは、わたしもよく知っている生徒会長さんだ。
頭の切れる策士さんだが、送辞の内容は当たり障りのないものだった。こういう場では奇をてらったものは必要ないとわきまえているのだろう。
答辞を読む卒業生は知らない人だったが、後から聞いたところによると前生徒会長さんだという。一年生であるわたしも二ヶ月ほどはその在任期間を見ているはずなので、これは己の不明を恥じなければいけない。
式は粛々と進められていった。
たまに鼻をすする音が聞こえるが、派手に泣いている人はいないようだ。
最後にみんなで校歌を斉唱して閉会となった。
卒業生を見送ったあと保護者と在校生もそれに続いたが、わたしは体育館に残る。これから生徒会を中心とした中央委員会メンバーは後片付けがあるのだ。
文芸部長であるわたしもその一員である。
パイプ椅子を運んでいると、ふんわり美人の副会長さんに声をかけられた。
「有村さん、外に貼ってある誘導案内の紙を剥がしてきてもらえる?」
「はい」
「正門だけでなく、裏門の方にもあるからお願いね」
それに頷いて小走りで体育館をあとにする。
昇降口で靴に履き替えて外へと出ると、雨が降り出しそうな薄曇りだった。
外では卒業生たちが話をしたり、いっしょに写真を撮ったりしている。式の時よりも泣いている人が多いのは、友達との別れを実感しているのだろう。
そして在校生たちも続々とそれに加わってきていた。
花束や寄せ書きの色紙を卒業生に渡している団体がいる。
女子生徒がボタンやネクタイを貰っている姿もあった。
それらは部活の先輩と後輩なのだろう。卒業式では定番の光景だ。
そんな集団のひとつで号泣している女子生徒がいた。胸飾りがないから卒業生ではない、在校生だろう。
あまりの泣きように卒業生の先輩が頭を抱えて慰めていた。
ちょっと唖然としてしまう。自分が卒業するわけでもないのに、あそこまで泣くものだろうか?
わたしは三年生に知り合いがいないので、正直なところ今日の卒業式ではまったく悲しくなかった。薄情なようだがそんなものだろう。
そこでふと思った。では一年後はどうだろうか?
来年には結城先輩と早苗先輩が卒業をする。
――あ、これ駄目だ。
わたしは頭に浮かんだイメージを慌てて振り払う。
ほんの一瞬想像しただけなのに泣きそうになった。目に涙が溜まってきているのがわかる。それが流れないようになんとか堪えた。
これはまずい。
わたしは間違いなく来年の卒業式で泣く。それも大号泣するだろう。
先程の女子生徒に心の中で深く謝罪する。あなたは正しい。親しい先輩が卒業して泣かないほうがおかしい。
そもそも先輩たちがいない文芸部や霧乃宮高校というのが想像できない。そんな場所に存在価値があるのだろうかとすら思ってしまう。
しかし、これはなんとかしないと非常にまずい気がする。
亜子ちゃんは芯がしっかりしているから、涙ぐみはしても人目もはばからずに泣くようなことはないと思う。
となると、わたしひとりがまだ見ぬ後輩の前で醜態をさらすことになる。
今からイメージトレーニングをして、耐性を付けておくべきかもしれない。
そんなことを考えていたからか、みんなで写真を撮ろうと横に広がった集団への反応が遅れた。
慌てて避けたのだが、今度は反対側への注意がおろそかになった。
誰かとぶつかった衝撃があり、卒業証書が入っている丸筒が落ちた。
わたしは「すみません!」と謝りながら、慌ててそれを拾おうと屈む。目の前にスカートから覗く足があったので女子生徒のようだ。
袖で丸筒の汚れを拭って体を起こす。
「本当にすみませんでし――」
目の前の卒業生を見た瞬間、わたしは固まってしまった。
厳密に言えば、わたしにも三年生の知り合いがいないわけではなかった。
そこに立っていたのは文芸部の先輩であり、二年生が修学旅行中に図書準備室へとやってきた、あの長髪さんだった。
もっとも会ったのはその一度だけ。それも心温まる邂逅ではなかった。
よりによって彼女にぶつかってしまうとはこれも運命だろうか。とにかく不可抗力とはいえ悪いのはこちらだ、わたしは頭を下げて謝罪する。
「わたしの不注意です。すみませんでした」
差し出した丸筒を長髪さんは無言で受け取った。どんな罵声が飛んでくるかと身構えていたので拍子抜けする。
彼女は黙ってわたしを見つめている。以前も思ったが目つきこそキツいが美人だと思う。怒っている様子はなく無表情だが、逆にそれが恐い。
美人が黙っているとそれだけで迫力がある。むしろ文句を言われたほうが心理的には楽だ。
沈黙を嫌ってこちらから話しかけた。
「あの、ご卒業おめでとうございます」
口にしたあとで、わたしが言ったら嫌味ではないかと気づいたが、取り消すわけにもいかない。
それでも長髪さんは無言だった。
許してもらえたのかはわからないが、謝罪はしたのだからいいだろう。行こうとしたところで長髪さんが口を開いた。
「なんでネクタイじゃないのよ?」
彼女の視線を追って自分の胸元を見る。
そこにはリボンがあった。
霧乃宮高校の女子生徒の制服は、公式にはリボンと決められている。
もっとも世のジェンダーレスの流れもあり、男子生徒と同じネクタイを着用していても黙認されていた。
そしてリボンは野暮ったいという理由で、女子生徒のほとんどがネクタイを選んでいる。
「あいつらに禁止されてんの?」
「いえっ、違います! 自分で決めたんです。一年生の間はリボンでいようと」
長髪さんの言う「あいつら」とは結城先輩と早苗先輩のことだ。もちろん先輩たちはそんなことを禁止してはいない。
ただ、上下関係の厳しい体育会系の部では、下級生のネクタイを禁止しているところがある。
実際にわたしのクラスでも、運動部の子がそれについて不満を口にしていた。
わたしに関して言うと、亜子ちゃんと二人で決めたことだった。
せっかく買ったリボンがもったいないということもあるし、わたしはともかく亜子ちゃんにはリボンがよく似合っている。
しかし、結城先輩と早苗先輩に敬意を表してというのが大きな理由だった。同じネクタイをしているのがなんとなく恐れ多いのだ。
もっとも進級を機にネクタイにすることも決めていた。わたしたちがリボンだと後輩がネクタイをしづらいかもしれないからだ。
長髪さんはしばらくわたしのリボンを見つめていたが、おもむろに自分の胸元に手を伸ばしてネクタイをほどく。
そしてそれをわたしへと差し出してきた。
「やるわ。いらなきゃ捨てておいて」
わたしは狐につままれたように、そのネクタイを受け取った。
これはどういったことだろう?
単なる気まぐれか、それとも卒業で感傷的な気分になったのだろうか。
「……ありがとうございます」
お礼を言ったものの、わたしは持て余すようにネクタイを見た。
使い込んであるようで手によくなじむ。それなのに汚れはまったくなく、綺麗にアイロンがかけられていた。
持ち主の几帳面な性格がわかるようだ。
そのまま二人とも無言でしばらく佇んでいた。
そこでわたしは思い出した、今は頼まれごとの途中だった。誘導案内の紙を剥がさなくてはいけない。
「それじゃあ、失礼します」
お辞儀をして歩き出す。
しかし、三歩ほど行ったところで鋭い声をかけられた。
「有村瑞希」
フルネームで呼ばれて、わたしは振り返る。
長髪さんが先程までとは違って、険しい眼つきでわたしを睨んでいた。
「あんたがわたしに言ったこと、忘れてないわよね?」
それを聞いて、わたしは体ごと向き直って彼女に正対する。
そして真っ向からその視線を受け止めた。
「はい。覚えています」
――わたしが長髪さんに言ったこと。
自分は作家になる。そして卑劣漢な登場人物に彼女たちの名前を付ける。
わたしはそう啖呵を切ったのだ。
もっとも今ではもう、そんなことをしようとは思っていない。
だからといって、作家になると言ったこともなかったことにしてくれというのは虫が良すぎるだろう。
わたしと長髪さんがただならぬ雰囲気で睨み合っているからか、横を通り過ぎる人たちが訝しげにこちらを見てくる。
そのまましばらく時間が流れた。長く感じたが、実はそれほどでもなかったのかもしれない。
長髪さんの口元がわずかに歪んだように感じた。
見ようによっては微笑んだようにも思える。
「自分の言葉には責任を持ちなよ」
それだけを言って長髪さんは踵を返した。
わたしは立ち去っていくその背中をしばらく見つめ、深く頭を下げた。
どうやら彼女は応援してくれたらしい。
わたしが作家になる夢を。
出会い方が違っていれば、彼女とも普通の先輩と後輩として仲良くなれた気がする。それが希望的観測だとしても、彼女もわたしも霧乃宮高校文芸部員だ。
その系譜はたしかに受け継がれている。
わたしはネクタイを丁寧に畳むとポケットにしまった。
空を見上げる。
雲の切れ間から青空がのぞき、柔らかな陽光が降り注いでいる。
もう春なのだ。
一ヶ月後には新入生が入学してくる。
文芸部にもきっと新入部員がやってくるだろう。
今度はわたしが先輩として伝えていかなくてはならない。
霧乃宮高校文芸部は素晴らしいところだと。




