第74話【12月24日その4】先輩の謝罪
※ 有川浩さんは現在ペンネームを「有川ひろ」と改名していますが、今回は『シアター!』出版時の有川浩で話を進行させていただきます。
『シアター!』が未完であり、今後も完結することはない。
わたしがそう言っても結城先輩は驚かなかった。やはり先輩はそのことを知っていたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。有川浩って死んだっけ?」
代わりに早苗先輩が慌てた様子でわたしたちを見比べた。
「勝手に殺すな。版権に関して出版社と揉めたりして作品の発表は少なくなったが、まだ生きているし執筆活動もしている」
「だよね。びっくりしたあ」
結城先輩の返事に早苗先輩は大きく息を吐いた。本当に驚いたらしい。そしてわたしの方を向いた。
「でもそうだとすると今後も完結しないってことはないんじゃないの? たとえ打ち切られたとしても、版元を変更して続きが出るっていうのは珍しくないよ。ましてや有川浩でしょ、引く手あまたなんじゃない?」
わたしは静かに首を振った。
早苗先輩の言うことはそのとおりだろう。だがそういうことではないのだ。
「続編が出ないのは出版事情ではないんです。作者である有川浩さんが、この小説の続きは書かないと明言しているんです」
「え、どういうこと?」
早苗先輩と亜子ちゃんは戸惑っているが、結城先輩は硬い表情のまま、わたしを見つめていた。
「わたしは当時のやりとりを知っているわけではありません。現在でもネットで閲覧できることを話しているだけです。それは了承してください。
有川さんはSNSで積極的に発言をし、ファンと交流をする作家だったみたいです。そしてある書き込みがされました「他の作品を書いている暇があるなら、早く『シアター!』の続きを書け」正確な言葉は違うでしょうが、要約すればそういうことです。
これに有川さんは怒ったんです。作者はどの作品も同じように愛情を注いで大事にしている。他の作品を貶すような人間のために『シアター!』は書かないと」
「え!? ちょ、ちょっと待って」
早苗先輩は先程よりも驚いたようだ。片手を「待った」をするように上げて、もう片方の手を額にあてて考えを整理している。
「それって心ない言葉に臍を曲げたってこと? どんなことにだって文句をつける奴はいるでしょ。プロがそんなのをいちいち気にするわけ?
それに書き込んだ人間を擁護するつもりはないけど、そいつも『シアター!』に関してはファンってことでしょ?
いやそいつのことはいいとして、有川浩だったら固定読者だけで十万人いてもおかしくないよね。そのまっとうな大多数のファンも、それの巻き添えってこと?」
早苗先輩の言うことはもっともだ。
わたしだって困惑し、悲しみ、そして怒った。しかし納得もした。
いちど深呼吸をしてから、わたしは話し始めた。
「読者に本を選ぶ自由があるように、作者にも書くものを選ぶ権利があると思います。わたしは有川さんの考えを全面的に支持するわけではありませんが、理解はできます。それにこの問題はわたしが『シアター!』を結城先輩に薦める理由とは関係がありません。なので先に進みたいと思います」
わたしは二冊の文庫を並べた。一巻の表紙には三人の男女が歩く姿が、二巻には四人の男女が歩く姿が描かれている。
本をくっつけてみるとわかるが、これは続き絵になっていた。
「『シアター!』の舞台は負債により解散間近の小劇団です。そこに敏腕経理として主宰の兄と、演劇経験はありませんが売れっ子プロ声優が加わり、劇団を立ち直らせていく――そういう物語です。
劇団メンバーは全部で十一人。一巻と二巻の表紙で合わせて七人が描かれていますから、三巻で残り四人が描かれると全員が揃うわけです。
つまりこの小説は全三巻の予定だったと表紙から推測できます。ストーリーからもそのくらいだと感じますし、そもそもあとがきで有川さんがそう書いています」
わたしは結城先輩をまっすぐに見つめた。
「結城先輩は最初の読み合いの時に「小説でもっとも大切なことは完結していることだ」と仰いました。先輩からすると未完である『シアター!』は、絶対に認めることのできない小説だと思います。
ただ先輩はこうも仰いました「作者には想定している結末があって作中にはそこに至る描写がされている」と。そしてわたしの『時代を超えた邂逅』では、先輩は作者であるわたし以上にその結末を深く洞察していました」
結城先輩の眼が鋭くなり、わたしを見つめ返す。
わたしはそれを受け止め、声に力を込めた。
「わたしには『シアター!』の結末が想像できます。二巻までに書かれた内容で、劇団の行く末も、劇団員の人間関係も、それらがどういう結末を迎えるのか自分の中でストーリーができています。
そしてわたしは結城先輩にもこの本を読んでもらって、それらをいっしょに語り合いたいんです。
正解の答え合わせはできませんし、二人の意見はまったくかみ合わないかもしれません。それでもわたしは結城先輩と、結末のない物語について語り合いたいんです。それがこの本を薦める理由です」
図書準備室に静寂が流れた。
わたしと結城先輩は睨み合うように、お互いを見つめて身動きをしない。
早苗先輩と亜子ちゃんが、息をひそめるようにこちらを見ているのを感じる。
しばらくして、結城先輩が力を抜いて微笑んだ。
「わかった、読ませてもらう。ありがとう有村」
わたしはそれを聞いて、体中の力が抜けたように椅子にもたれかかった。
結城先輩に本を突き返されることもなく、無事にプレゼント交換会を終えることができたのだ。
早苗先輩と亜子ちゃんもほっとした様子で、贈られた本を開いたり、お薦めの補足をしたりしている。わたしもそれに加わった。
結城先輩はプレゼントされた本をじっと見つめていたが、しばらくしてから声をかけてきた。
「話があるんだが、聞いてくれるか?」
そのあらたまった様子に、わたしたちは何事かと座り直した。
「みんなに謝りたい」
唐突な言葉にわたしたちは顔を見合わせた。先輩が謝まるようなことが何かあったろうか?
結城先輩は真剣な表情でこちらを見て静かに言葉を続ける。
「俺は今回の交換会に乗り気じゃなかった。相手が読みたい本を贈ることなど無理だと思っていたんだ。特に俺へのプレゼントはそうだ。俺は三人よりも本を読んでいるという自負があったし、自分の好みをやたらと喋ったりしないからな。俺が読みたいと思う本が贈られることなど期待していなかった。
だが交換会が終わってみれば、自分がいかに浅はかだったかがわかった。三人とも相手のことを本当に真剣に考えて本を選んでいた。単純におもしろいという理由よりも、もっと深いところで考えていたんだ。表面的なことしか考えずに本を選んだ俺とは大きな違いだ。
そこでかえりみると今までだってそうだったんじゃないかと気がついた。俺はみんなを下に見ていたんだよ。単純な読書量と自惚れの読解力で、自分は誰よりも本を理解していると勘違いしていた。そのことでみんなを不愉快にさせていたと思う。それを謝りたいんだ。すまなかった」
結城先輩は膝に両手を置いて頭を下げた。そしてそのまま顔を上げない。
わたしは驚いた。少なくともわたしはそんなことを思ったことはない。先輩が謝る必要など何もないのだ。
隣を見ると亜子ちゃんも驚きと戸惑いの表情を浮かべている。お互いに何か言わなくてはと思っているのだが、言葉が出てこない。
わたしたちはすがるように早苗先輩を見た。
早苗先輩も驚いた様子だったが、わたしたちの視線を感じたのか表情を消す。そして冷淡にも聞こえる声を発した。
「結城、顔を上げて」
結城先輩がゆっくりと顔を上げると、早苗先輩はそれを見据えた。
「そうだね。たしかにあんたから上から目線を感じないとは言わない」
「早苗先輩っ! そんなこと――」
わたしが悲鳴のような声をあげるのを早苗先輩は制した。
「そのことで腹が立つこともあったし、カッコつけんなと思うこともあった。それは否定しない。
そのことをあんたが謝りたいというのならあたしは受け入れるし、これからは気をつけなさいよと言うしかない。でもね――」
そこで早苗先輩は不敵という感じに笑いを浮かべた。
「不遜でもなければ自信家でもない、そんな結城なんて結城じゃないでしょ。あたしはあんたのそういうところも含めて認めているし、付き合っているのよ。
下手に変わられても調子が狂うから、今のままのあんたでいいんじゃない。そう言っておくわ」
早苗先輩が話し終わると、亜子ちゃんが勢いよくそれに続いた。
「わたしも結城先輩は今のままで何も問題がないと思います! それに先輩に馬鹿にされたと思ったことなんてありません! 先輩はいつでもわたしのことを肯定してくれますし、理解してくれています。わたしは本当に結城先輩に出会ったことで救われたし、自信を持てたんです。ですから自分を卑下するようなことは言わないでください。お願いします……」
亜子ちゃんは最後は涙ぐんでいた。その頭を早苗先輩が優しく抱き寄せる。
わたしも何か言わなくてはと思う。
言いたいこと伝えたいことはたくさんあるはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。本当に自分が嫌になる。
「わたしは――」
結城先輩と目が合った。
自信なげな、不安そうな目をしている。わたしはそんな先輩を見たくない。結城先輩にはいつだって――。
わたしは一度目を瞑って大きく息をしてから、再び先輩と目を合わせた。
「わたしには、夢――というか目標があります。いつか結城先輩と対等に本について語り合うことです。これまではずっと教えられたり、与えられたりしてきただけでした。でもそれでは嫌なんです。わたしも同じだけを先輩に返したい、そう思っています。
ただそのために、結城先輩にわたしのところまで下りてきて欲しいとは思わないんです。結城先輩にはずっと高いところにいて欲しい。今はまだ見上げることしかできませんが、いつか必ず隣に立てるように努力します。その時まで結城先輩は今と変わらない、揺らぐことのない信念を持った読書人でいてください」
わたしとしばらく見つめ合ったのち、今度は結城先輩が目を瞑った。
そのまま時間が過ぎる。
誰もなにも話さない。
わたしも、早苗先輩も、亜子ちゃんも、みんなが結城先輩を待っていた。
どれほどの時間が経ったのか、結城先輩はゆっくりと目を開いた。
そしてわたしたちを見る。
「有村も北条も買いかぶりすぎだな、俺はそんな大した人間じゃない。だけど頼りにしてくれる後輩がいるんだ、もうしばらくは鈴木の言うところのカッコつけた先輩でいようと思う」
結城先輩は軽く微笑む。
その目にも表情にも、いつもの結城先輩が戻っていた。
わたしと亜子ちゃんが大きな声で「お願いします!」と返事をする。
すると早苗先輩が「あれ、あたしも良いこと言ったつもりなんだけど、なんか扱いが悪くない?」と不満そうに頬を膨らませたので、みんなで笑ってしまった。
わたしにとって今年のクリスマス・イブは、忘れられない日となった。




