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神さまと繋がった  作者: たつのオトシゴ
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004

  004


『迷子か?』厳かな声が森に響き渡った。

「「!」」その声が誰のものか分からず、幽生たちは狼狽する。

 しかし、遅れて気付く。彼らと対峙する始祖竜が話し掛けて来ていたことに。

『人間達を見かけるとは珍しい。迷い込んで来たのか? 森の外縁にはエルフの結界が張られているはずなのだが、誰にも会わなかったのか?』

 そう言って首を傾げる仕草は想像していた悍ましい(てき)のイメージを裏切るものだった。

 あれ……? 何だか想像してたのと違うような……。と、幽生は眉を寄せて訝しむ。

『迷子なら仕方が無い。エルフ達を呼んで森の外まで案内させよう。少しばかり待っていろ』

「その必要は無い」“神さま”は始祖竜の厳かな声を遮り、ペタペタと数歩前に出て行く。

『この森には凶暴な魔物がおらぬから危険ではないが、人間にとっては広大な森だ。地理に明るい者でないと再び迷ってしまうぞ。だから遠慮はいらぬ。いま迎えを呼んだから一時間足らずでエルフ達が来てくれるはずだ。それまではここで休むといい』

「一時間か……。異変に気付いて足を速めれば三十分後には到着するだろうな。つまり、エルフ共の邪魔が入らない三十分以内に奴の心臓から“槍”を抜き取らなければタイムアップだ」

『……何の話をしている?』

 始祖竜の重々しい声を意に介さず、“神さま”は平然とした調子で幽生たちに言う。

「ゲームと同じだ。エルフ(MOB)が現れてボス攻略を妨害してくる。妨害されずに戦えるタイムリミットは約三十分。君たちの願いを賭けた三十分だ。それまでに始祖竜を――殺せ」

 そう言われても、始祖竜の圧倒的存在感を前に幽生たちは呆然とし、足が動かない。それを余所に厳かで重厚な声が波紋のように響く。

『殺す、だと? 気にはなっていたが見慣れない格好の人間ばかりだな。特にそこの、奇怪な服を纏う白い貴様は何者だ?』と、始祖竜の態度に幽かな変化を見せた。

「私は“神さま”です」

 宇宙服の厚い胸を張って迷わず答えた。

「人間と一緒にするな。それに宇宙服は気に入っているんだ。馬鹿したら殺すぞ」

 一切怯まずに“神さま”は凄む。すると、さらに始祖竜の様子が一変する。

『貴様ラ、何者ダ? 答エロ』

 刺々しい言葉が幽生たちに降り注ぐと、森を流れる柔和で温かかった空気が一瞬で凍てつく。無数に対流していた粒子が光を失って消え、森の中が暗澹とする。

「――ッ」幽生たちは、始祖竜の双眸から向けられた体を裂くような威圧感に息を詰まらせる。

「答えている暇は無い。さあ、君たち。奴を殺して“槍”を引き抜け」

 息苦しい空気が浮遊する中で佐々木が恐る恐る口を開く。

「こ、殺せと言われても……どうやって……」

 “神さま”は白いグローブの手を胸に当てる素振りを見せると、

「力を、黒竜(こくりゅう)の紋章を与えただろう? その(こころ)に想いや願いを浮かべれば竜の力が発現する。後は何をどうすればいいかは力が教えてくれる。その力を行使して敵を倒せば、願いは叶う」

 ……願いが叶う? と、幽生はその言葉を反芻させる。

「そんなの、無理に決まってるよ……」少女のか細い声が聞こえてきた。

 雨宮ゐるかは震える体を抱き、弱々しく叫び続ける。

「無理だよ。どうやって……どうやって、あんな大きな化物を……。無理に決まってる……殺されるに、決まってるよ」

 半狂乱に陥った彼女を一瞥した樫之は無表情な頬に汗を滴らせて言う。

「その気持ち、理解できなくはありません。空想だと思っていた竜を目の前にして、根性とか勇気とか、そんな軽々しい気持ちで倒せるとは思えなくなりました」

 彼女たちの言葉を聴いた“神さま”は頷き応える。

「確かに君の言う通りだ。根性や勇気などでは奴は殺せない。そんなものは犬にでも食わせておけばいい。必要なのは君たちの胸にある愛や憎しみ、悲しみなどの強い“想い”の力だ」

「僕たちの“想い”の力……? 形も姿も無いそんな物で、どうやって戦うって言うんですか」

 始祖竜との絶対的な力差に膝を折りかけていた幽生は思わず声を荒げて焦燥を滲ませる。

「胸に浮かぶ竜の紋章は“想い”を竜の力に変え、その肉体を竜へ変貌させるのさ」

「そう言われても、僕にそんな力がある実感が――」いいや、おかしいぞ。

 と、幽生は自分の体に起きている異変に気付いた。額の傷から流れ、既に乾いた血を指で辿っていく。そして、異変の正体に指が触れた。いいや、正確には触れなかった。何故なら、僅か一時間ほど前に負った額の傷が跡形も無く消えていた。

「傷が、もう治ってる……? もしかして、これが……」

 眉を顰めていた幽生は違和感の正体に気付き、ハッとする。

 その時、雨宮の膝が音を立てて崩れ落ちた。

「できないよ……私には、できません。睨まれただけで震えが止まらない私なんかが、戦うなんて……できるはずない」

 へたり込んでしまった彼女は生気を失った顔を項垂れさせると、

「嫌だ……。誰か……誰か、助けてよ……」頭を抱え、碧眼から涙を零し始めた。

「そんなだから君はいつまでも弱いんだ」“神さま”は辛辣な言葉を飛ばした。

「……“神さま”に私の何が分かるの。“神さま”の癖に……分かったようなこと言わないで」

「自分で限界を決めつけて自分を縛り、戦おうとすらしない。それどころか、苦しい世界から救ってくれる王子様を永遠と待ち続けている。現れるはずが無い王子様を待つことで心を保ってきたんだろう? ……惨めだな」

「……うるさい」

 “神さま”は足をペタペタとさせながら彼女に近付くと、項垂れている頭をヘルメットのシールドの中から俯瞰する。

「王子様が救ってくれるのを言い訳にして戦うことから逃げている。誰かが手を差し伸べてくれるまで立ち上がろうとすらしない。……情けないな」

「……うるさい」

「ここまで来て、まだ迷っているのか? 戦い、死ぬことが怖いのか?」

「それの何がいけないの!」目元を紅潮させた顔を上げ、感情を爆発させた。

 常に何かに脅えていた雨宮からは想像できない形相に幽生たちは目を奪われた。

「まだ逃げ続けるつもりか?」それでも“神さま”は意に介さず責め立てる。

「逃げたっていいじゃない! 誰かに迷惑かけた!? 遊佐君みたいに強くなりたいって憧れたけど、私にそんな力も勇気も無いんだから仕方が無いじゃない!」

 幽生は自分のどこに憧憬を抱く要素があったのか思い当たらず、眉を困らす。言葉を交わした回数も数える程しかないのに。

「ここから逃げたところで、帰る場所はあるのか? 君を苦しめる東京に戻って、動物みたいに扱われる生活を続ける? ここで戦わなければ何も変えられないぞ」

「…………嫌」突如、雨宮の表情が凍り付いた。

「男達に嬲られ続ける世界に戻るか? いま逃げたら、死ぬまで体を汚され続けるだろうな。それでも戦うのは嫌か? 死ぬのはもっと嫌か? だとすれば……君は学校が大好きなんだな」

「…………嫌だ……嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 頭を抱えて花々が咲く地面に額を落とすと、呪文のように唱え始めた。

「もう、あんな所に戻るなんて嫌! 普通の女の子みたいに生きたいだけなのに、どうして私なのよ! 可愛くなりたくて可愛くなったわけじゃない! 胸だって望んで大きくなったんじゃない! 私の体は欲望を満たす道具じゃない!」

「そうだ。その“想い”だ。胸の奥に“想い”を爆発させろ。そうすれば世界は変えられる」

 “神さま”は彼女から視線を起こし、幽生たちをぐるりと見渡す。

「“想い”出せ。君たちはどうしてここにいる?」

 どうして? と、幽生は自問自答する。

 ――守るためだ。

「始祖竜の心臓に刺さっている“槍”を手に入れて、何を願う?」と、“神さま”は問うた。

 ――仄ちゃんを守るためだ。そのために僕は戦う覚悟を決めたんじゃないか。

「僕は……妹の笑顔を守れるなら鬼にでも悪魔にでも、竜にでもなってやる。だから……」

 始祖竜の威圧感に当てられ逡巡していた幽生は自分でも驚くほど冷静になっていた。十四歳の妹である仄の姿を思い浮かべる度に胸の紋章が熱くなる。ナニカが胸の奥から溢れてくる。

「その“想い”を炎に変えて全ての敵を、世界を焼き尽くせ!」

 “神さま”は高らかに声を上げ、幽生たちを煽り続ける。

「胸に“想い”を浮かべろ! そして、願いを叶える為に――」

 ――戦え。

「……戦え」“神さま”の言葉が幽生の右手の傷痕を疼かせ、ふと思い返す。

 昨日、病室のテレビに流れていたあの広告を見た時から僕は戦う運命だったに違いない――。


   ×××


『ジジジッ』の砂嵐の音と共に、テレビに後光を纏う某宇宙映画のC-3POを彷彿をさせる人型ロボットがバストアップで映ると、

『私ハ“神サマ”デス!』無機質な声で言った。

『アイ アム ゴッド! アイム ゴッド!』執拗に三回も言った。

 すると、突如人型ロボットの姿形がぐにゃりと歪むとランドセルを背負うツインテールの幼女の姿に一瞬で変貌を遂げる。

『愛、悲しみ、寂しさ、憎しみ、怒り。悲劇に満ちた世界であらゆる欲望を孕む人間のみんな♪ わたしのマジカル☆パワーで、どんな願いも叶えてあげる♪』

 再び姿を歪ませると、鍔広のとんがり帽子や毒々しい色のドレスを纏う妖艶な魔女が映る。

『東京の110番は私が頂いたわ。叶えたい願いがある人間は110番を使い、“神さま”である私に願いを伝えなさい』

 三度姿を歪ませ、長い黒髭を垂らす巨漢の海賊が映る。

『俺と繋がることができれば、どんな願いも叶えてやる』

 兎の耳を揺らすバニーガールに姿を変え、

『あはっ☆ お姉さんと一緒に素敵なハッピーエンドを手に入れたい子、この指とーまれ☆』

 そして最後に宇宙服のヘルメットが画面いっぱいに映ると、

『諦めなければ願いは必ず叶う! お電話は110番へ』

 そう言い残してプツリと画面が暗転した。何事も無かったように本来放映されている番組が流れ始める。

 その日から、東京都内で掛ける110番は一切警察に繋がらなくなった。

 “神さまが降臨した日”と呼ばれ始めるのに時間は掛からなかった――。


   ×××


 ――異世界に飛び込む一日前。

「ねぇ、お兄ちゃん。また“神さま”のCM流れてるよ」

 夕焼けに染まった病室に制服姿の幽生が入るなり、妹の仄は言った。黒い髪を顎の位置でぐるりと切り揃え、愛くるしい瞳をした少女。二つのベッドが並ぶ病室。その奥の窓側にあるベッドで体を起こし、テレビに向かう仄の青白い横顔を見つめながら、

「もう一週間ぐらい経つのかな? 流れ始めたの」と、応えた。

 テレビからは声音が代わる代わる聞こえてくる。画面に興味と視線を向けたまま仄は言う。

「警視庁の110番どころか、全てのテレビ局の電波に介入できるなんて、どこの秘密組織よ。……それとも、本当に“神様”だったりして?」

「どうだろうね。今もサンタさんを信じてる仄ちゃんは“神さま”はいると思う?」

 そう話しながら病室を進む途中、扉側のベッドの床頭台に置かれたCDカセットやピンクのヘッドホン、積まれたCDが視界の端に映り込む。共同の住人がいないことを横目に通り過ぎ、二つのベッドの間に置かれた丸椅子に腰を下ろす。

「サンタさんを信じてたのは十三歳までだから! 今日で十四歳になったんだから、やめてよ」

 ――次また弄ったら殴るからね。と言わんばかりのジト目を向けてくる。

「そうだったね。ごめん、ごめん」と幽生は一笑した。

「分かればいいのよ、分かれば」兄を従わせて満足気な顔を見せながらテレビの電源を切る。

「今日は、その誕生日プレゼントを買って来たんだ。受け取ってくれる?」

 学校の鞄から取り出したDVDのパッケージを見せると、

「あ! これ昨日発売した『ラプラス』のライブDVDだよね!?」光速の勢いで掻っ攫われた。

 眼鏡を掛けるほど視力が弱いとは言え、掠める手が見えなかったことに唖然とする。

「いいの!? 本当に私の為に買って来てくれたの!? 見ていい!? いいよね!」

 艶やかな黒髪を振り乱し、今もサンタクロースを信じていそうな(いとけな)い笑顔を見せてくる。

「もちろんだよ」全身を使って喜ぶ仄を見て安堵する。

 変わらないなぁ。と、幼い頃から格好良いアイドルが大好きな妹を朗らかに眺めていると、

「お兄ちゃん、パソコン取って。早く! DVDのラッピングを剥がすまでに持ってきて!」

「畏まりました、お姫様」

 エゴイズムな妹も愛おしくて堪らない幽生は喜んで立ち上がった。床頭台に置いてあるDVDプレーヤーをベッドのオーバーテーブルに運ぶと、ラッピングを丁度剥がし終える。

 仕事を終えて丸椅子に座り直すと「よく出来ました。よしよし」と、幽生の頭を優しく撫でてきた。仄の柔らかく繊細な手に触れ、思わず頬を熱くしてしまう。

「それと……プレゼント、ありがとう。お兄ちゃん」

 そのはにかんだ笑顔を見せられ、幽生は思う。仄ちゃんの笑顔を見られれば、他にはいらない。その笑顔を守り、傍らでずっと見守り続けたい……。

「うん、どういたしまして」

 くすぐったい気持ちを我慢していると、病室の扉が重たそうに開く。すると、桃色のニット帽を深く被った女の子が姿を見せる。仄より歳が二つ幼い彼女はこの病室のもう一人の住人だ。

「こんにちは、(ゆい)ちゃん」と、唯という童女と顔見知りの幽生は気さくな挨拶をする。

「こ、こんにちは……」

 童女のか細い腕で閉める扉は酷く重たそうだ。

「そうだ、唯ちゃんも一緒に見よ? 昨日発売した『ラプラス』のライブDVD」

 そう仄が提案すると、

「ぇ、いいの? でも、仄おねえちゃんがまだ先に見てないんじゃ……」

「ダメな理由なんて無いよ。それに私は唯ちゃんと見たいの。だから一緒に見よ?」

「……うん、ありがとう。じゃあ、見てもいい?」唯は嬉々とした表情で頷いた。

「お兄ちゃん、プレーヤーとDVDを唯ちゃんのベッドに運んで!」

 自分のベッドを降りて唯のベッドに上がり込んだ仄を追ってDVDプレーヤーを運ぶ。

「幽生おにいちゃん……ありがとう、ございます」と、ベッドに上がっていた唯が見せる、おどおどした笑顔。仄とは別種類の愛くるしさを感じ、幽生の心をくすぐる。

 幼くしてガンを発症した唯は薬の副作用で髪を失い、日常的に帽子を被っている。しかし、日を追うごとに衰弱しているのを幽生は感じていた。医者や両親からは薬の副作用が強いせいだと言われているらしいが、本当は違うのだろうと彼は思う。

「唯ちゃんも『ラプラス』のファンなの?」嫌な想像から逃げるために話し掛けた。

「えっと、はい。あっ、でも……」

「唯ちゃんは歌が好きなんだよ。唯ちゃんのお母さんが最近借りて来てくれたCDの中に『ラプラス』のアルバムがあって、凄く気に入ったみたい」

「音楽が好きなのは知ってたけど、それでなんだね?」

 床頭台に置かれたCDカセットの傍に積まれているCDを一瞥する。

「あっ、そう……そうなんです。えっと……」

「ちょっとぉ。唯ちゃんが困っちゃったでしょ」

「いや、そんなつもりは無かったんだけど」

「変な男にグイグイ来られたら困るに決まってるでしょ。だっさい眼鏡に、無駄に長い髪が変質者みたいなんだからさ」

 罵倒されているにも拘わらず、幽生は微笑まずにはいられなかった。

「ねえ、何が可笑しいの?」と、目を細めて見上げてくる。

「唯ちゃんの前だとお姉さんだね」そう言うと仄は頬を赤らめた。

「う、うっさい! いまからDVD見るんだから、ちょっかい出さないで!」

「ごめん、ごめん」と、頬を弛緩させながら丸椅子に腰を下ろす。

 ぷんすかしながらもプレーヤーにDVDを読み込ませ始めた。感情豊かな妹の隣に座っている唯は幼気な笑顔を見せ、幽生を慰めようとする。

「わたしは大丈夫ですよ。困っていませんから。……だから、幽生おにいちゃんもベッドに上がってください。そこだと、見せませんよ?」

「唯ちゃんは優しいね。ありがとう」

「どうせ私は優しくないもんね」仄は口を尖らして拗ねてしまった。しかし、

「……そうだね」と、幽生は一笑して言った。

 それを聞いて更に口を尖らせる。

「でも、それでいいんだよ。優しくなくてもいい。その分だけ僕が仄ちゃんに優しくするから」

 拗ねていた表情を仄かに紅潮させ、幽生をちらりと一瞥した。

「恥ずかしいこと言わないでよ。お兄ちゃん、の……ば、ヵ……」

 突然、彼女は胸をギュッと押さえ出す。すると、息を詰まらせて苦悶に表情を歪める。

「――仄ちゃん!」反射的にナースコールに手を伸ばした時、その腕を掴まれた。

「だ、だいじょうぶ……。これくらいなら、すぐ……治まる、から」

 眉を歪ませ、額に汗を滴らせて言った。

「だけど、一応――」

「大丈夫! だい、じょうぶだから……。それに、お兄ちゃんから貰ったプレゼント……早く楽しみたいの……。唯ちゃんにも心配させちゃって、ごめんね?」

 精一杯の作り笑顔を見せる。だが、息の乱れまでは隠せていない。

「で、でも、仄おねえちゃん……昨日の夜も……」

「全然平気だよ? よく、あることだし。……ほら、痛みも治まってきた」

 胸から手を離して無理に笑顔を保ち続けているのは瞭然だ。“よくあること”と言っていたけれど、それはつまり病気が進行しているのを意味している。

「わかった。だけど、楽な姿勢で見よう。ほら、僕の胸に背中を預けて」

 幽生はベッドに上がると俗にいう体育座りをするように膝を立て、脚を広げる。その脚の間に小さな体を座らせ、自分に寄りかからせた。

「……うん……ありがと、お兄ちゃん」恥じらいながらも小さな頭と華奢な背中を預けてきた。

「仄ちゃんの苦しみを和らげられるなら僕は何だってするさ」

 隣に無垢な童女がいることも忘れ、お腹の前に腕を回して抱擁する。

「変なところ触ったら、ぶっ殺すからね?」

「僕をぶっ殺す元気があれば上々だ」

 すると、幽生にしか聞こえない幽かな声で言う。

「……いつも心配かけて、ごめんなさい」

 エゴイズムで傍若無人なお姫様が弱さを見せて甘えてくるのは悪い気分ではなかった。むしろ、愛おしさのあまり、変なところを触って悪戯したい感情を押し殺すのに必死である。

「よしよし」と、さらさらとした艶やかな黒髪を慈しむように優しく撫でていると、『ラプラス』のライブ映像が流れ始めていた。

 センターで歌う樫之幽花の美しさよりも、鼻腔をくすぐる妹の髪の香りに夢中だった。


   ×××


 DVDを見終える頃には日はどっぷりと暮れていた。

「……アイドル、か」腕の中で仄が呟いた。

「仄ちゃんはアイドルになりたいの?」

「ライブの映像に感化されちゃっただけかな……。だから今のは気にしないで」

「そっか、残念だ。唯ちゃんもアイドルになってみたいと思った?」

「わたしは、聴いてるだけで十分楽しいから……。それに、運動とかダメダメだから、みんなみたいに踊れないと思う」

 でも……なれたら楽しいだろうなぁ。と、はにかんで微笑む。

「アイドルでも踊りが苦手だった人はいるから、なれるかもしれないよ?」

「そうなんですか? 知りませんでした……」

「そういうお兄ちゃんはアイドルになってみたいって思ったことは無いの?」

「あはは。僕が? 僕には無理だよ」

 アイドルになった姿を想像できずに自嘲の笑いを溢した。

「こんな僕を好きになってくれるファンなんて……誰もいないよ」

「ねえ、殴り殺したくなるから、やめてくれる?」

仄は首を振り返らせ、怒気に満ちた双眸で見上げてくる。

「生意気。すっごく生意気!」

 あらん限りの感情を込めて言い放った。

「私が好きになってあげてるのに、世界で僕は独りだ、みたいな顔してさ。生意気! お兄ちゃんは私がいれば満足でしょ? それとも何! 妹の愛だけじゃ不満なの!?」

 もやはヒステリーだ。しかし、幽生は充足した表情を浮かべ、

「……最高だ」と、腕の中の仄をギュッと抱き締めた。

「そうだね。最高の(ファン)を持つ、世界で一番幸せなアイドルにならなれそうだ。ありがとう」

「ダサい眼鏡とか変質者とか言ったけど……お兄ちゃんはカッコイイよ。すごく魅力的だもん」

「それは家族の贔屓目だと思うよ? 唯ちゃんから見た僕って普通だよね?」

 咄嗟に隣の小学生に助けを求めた。

「答えに困る質問するな、馬鹿」仄に肘で脇腹と小突かれる。

 けれど、童女は困る素振りを見せずに「いいえ、素敵です」と、どこか羨ましそうに言った。

「仄おねえちゃんを見つめる幽生おにいちゃんの顔は、いつも優しくて、温かくて、とても素敵です。……だから、その顔を眼鏡や前髪で隠しちゃうのは勿体ない……って思います」

「唯ちゃんまで……」逃げ道を断たれ、困り果てる。

「そもそもさ、どうしてそんなだっさい眼鏡してるわけ? 髪も切って、眼鏡を取ったらモテると思うんだけどなぁ。勿体ない。持ち腐れお兄ちゃんだよ。発酵しちゃうよ?」

 しないよ。と、胸中で突っ込みを入れる。

「ダサい。不潔。根暗。女の子に嫌われるよ?」言いたい放題だ。

「妹以外にモテたことないよ。クラスの女子には、きっと気持ち悪い根暗の男子生徒としか思われていないはずだし」

「どこかの腐れ女が言ってるだけでしょ。眼球まで腐ってる女にお兄ちゃんの魅力が見えるはず無い。だって、私のお兄ちゃんだもん!」

「理屈が破綻している……」さすがの幽生も頬を引き攣らせる。

「私が超可愛いんだから、そのDNAを持つお兄ちゃんも最高級に決まってる! 絶対に!」

 無茶苦茶な理屈を聞かされ、クスクスと肩を揺らして笑ってしまった。

「……何が可笑しいのよ」

 全てを巻き込んで自分を中心にしてしまう嵐みたいな、妹の湾曲した品性が幽生はどうしようもなく好きなのだ。だから、抱き締めたまま耳元で囁く。

「仄ちゃんが褒めてくれれば、それ以上はいらない。本当に僕に魅力があるとしても、仄ちゃんだけが知っていれば十分だから。ありがとう、愛してる」

 彼女はケラケラと笑い出すと言う。

「なにそれ、気持ち悪い。やっぱり無理かもね。こんな気持ち悪いシスコンがアイドルになれるはずないもの」

 ――だから

「お兄ちゃんは、私の傍にいるしかないんだぞ。わかりましたか?」

 少女は顔を綻ばせて見上げてきた。幽生も頬を弛緩させる。

「そうみたいだね」

「分かればよろしい」と、満足気に胸を張った。

 すると、華奢な体を一層寄り掛けてくる。

「でも、仄ちゃんならなれるよ。アイドルに」

「どう……だろう。なれるのかな?」

「きっとトップアイドルになれるよ。いや、絶対になれる。超可愛いんだから」

 その言葉に嘘は無かった。……嘘は無かった。だが、嘘以外には何があったのかと問えば、何も無い虚無で無責任な発言である。そのことに彼は気付いていない。

「うん、そうだね。でも、可愛いだけじゃアイドルにはなれないんだよ?」

 ……ん? 一瞬仄の表情に陰りを見た気がした幽生は小首を傾げる。

「そんなことない。十日もあればトップアイドルになれるよ」

「それは言い過ぎ」

「十日は無理だとしても、仄ちゃんならアイドルになれるって言ったのは本気だ」

「うん、それは素直に嬉しいよ。だけど、アイドルの世界も大変みたい……」

 アイドルの話になってから明らかに様子が変だ。平常を装っているが、瞳は暗澹としている。

「……何かあった?」

「……お兄ちゃんも知ってるよね? 『ラプラス』の樫之幽花さんがアイドルを辞めちゃったこと。このライブが最後のライブになっちゃったことも……」

 もちろん知っていた。仄がトップアイドルと呼ばれていた樫之幽花のファンであることも。

「夢の世界に生きてると思っていた人が、最高のアイドルが突然消えたの……」

 そのニュースは連日放送されていた。今でもテレビの話題に上がるのを見かける。半裸姿のトップアイドルがベッドで眠っている姿を男に撮られ、それが雑誌に掲載されてしまった。それからグループの脱退までは早かった。男が故意に流したかどうかは別として、露出の少なかった俳優の名前が皮肉にも有名になったのを覚えている。

「たった一枚の写真で夢が崩れちゃうんだ……って思ったの」

「……そうだね」

「夢の世界も楽しいことばかりじゃない。私が考えるほど、夢は優しくないみたいだよ……」

「……そっか」

 仄ちゃんは僕の妹として産まれた時から、お兄ちゃんのトップアイドルだよ☆ とは、口が裂けても言えなかった。

「だけど、それでも叶えたい、と思わせるだけの価値が夢にはあるんじゃないかな?」

 懊悩する妹に対し、幽生は真摯に言った。

「そう……なのかな?」

「そうだよ。……だから、夢を持つことを怖がらないで欲しい」

 ふふっ、と仄は一笑する。

「何だか、臭いセリフみたい」

 愛くるしい顔を覆っていた陰はどこかに消えていた。幽生の胸に体を預けたまま目を瞑ると、

「“神さま”も言ってたよね。諦めなければ願いは必ず叶う、って」

 ……お兄ちゃんが“神さま”だったりして。と、呟いた。

 ふと、幽生は思う。

 僕が神様だったら、仄ちゃんの病を治してあげられるのに……。

 どうして僕は神様じゃないんだろう……。


   ×××


「もう時間か……」面会時間の終わりがすぐそこまで迫っていた。

 丸椅子に座ったまま窓に目をやると外は真っ暗だ。窓に映る自分の姿と、その後ろではベッドでニット帽の上からピンクのヘッドフォンを掛けている童女の姿がはっきりと見える。

「ねえ、お兄ちゃん。明日ハサミ持ってきて」自分のベッドに戻った仄は唐突に言ってきた。

「ハサミ? 何かに使うの?」

「髪を切ってあげる、って言ってるの。しっかりと顔が見えるようにね。あっ、でも看護師さんにばれないように持って来てよ? 怒られちゃうから」

 好き放題に伸びている前髪を摘むと「確かに長過ぎるかな」と思い、甘えることにする。

「……わかった、それじゃあお願いしようかな? 家に帰ったら鞄にハサミを入れておくよ」

「しっかりご飯も食べるんだよ?」

「心配してくれてありがとう。……あ、そろそろ時間だ。帰らなくちゃ」

 床に置いていた鞄を取り、緩慢な動きで椅子から立ち上がる。

「また明日も来るから」

「うん……待ってる」そう応えた仄の笑顔は、何処と無くぎこちない。

 寂しさを必死に堪えている。それなのに、妹が「寂しい」と口にしたことは一度も無い。そんな女の子を置いて帰るのが辛く、足を重くする。

 しかし、時間は迫っていた。体を振り返らせ、隣のベッドで音楽を楽しむ童女を見遣る。

「唯ちゃん。またね」ヘッドフォンで聞こえないのを考慮して手を振ると、

「ぁ、うん、バイバイ……幽生おにいちゃん」小さな手で振り返してくれた。

 二人に再度手を振ってから扉に手を掛けた時「幽生おにいちゃん」と呼び止められ振り返る。

「うん? どうしたの、唯ちゃん」

 膝に置いたヘッドフォンをモジモジと弄り、逡巡する童女は言葉を口に籠らせていた。

「……?」隣のベッドで仄は首を傾げた。

「あの……幽生おにいちゃん、言ってた」

「えっと……?」

「夢は……夢は楽しいことばかりじゃないけど、それでも叶えたいと思わせる価値が夢にはある。そう、言ってた……よね?」

「ああ、うん。確かに言った、かな。思い返すと少し恥ずかしいけどね」

 そう言ってはにかむ幽生。すると、童女の血色の悪い唇が開く。

「じゃあ……じゃあ…………諦めなければ願いは必ず叶う、って本当?」

 ふと、テレビの中で“神さま”と名乗るナニカが口にしていた言葉を思い出す。

 無垢で幼気(いたいけ)な童女の相談には真摯に向き合うべきだと、彼の道徳意識が訴えてくる。しかし、

「もちろん、本当だよ」と、迷わず嘘を吐いた。

「……」仄は口を噤んで二人を見守っている。

「……そっか……うん、ありがとう。幽生おにいちゃん」

 疑う素振りも見せずに頷くと儚げな笑顔を見せてきた。

「幽生おにいちゃんが言うなら……もう少しだけ、頑張ってみようかな」

 その言葉がチクリと胸に痛みを走らせる。

 パジャマから出た首や腕は痩せ細って、衰弱しているのを隠し切れていない。それは本人も気付いているに違いない。薬の副作用に苦しみ、死に脅え続ける闘病生活は想像を絶するのだろう、と幽生は憐れんでしまった。悟られまいと、その感情を押し殺し、

「諦めなければ……きっと、叶うよ」と、再び嘘を吐いた。

 しかし、“神さま”の言葉が嘘であることは翌日に容赦なく突き付けられる。自分が最低な嘘吐きであることも。


 ――僕は“諦めなければ願いは必ず叶う”という言葉が嫌いだ。

 それ以上に、この言葉を軽々しく肯定する嘘吐きが大嫌いだ。


   ×××


 翌朝。肩に校章をあしらった紺の制服に腕を通し、ハサミの入った鞄を持って登校の準備を整えた。眼鏡を掛けて部屋を出ると、家を出る前に居間へ立ち寄る。カーテンの隙間から白い陽光が差し込む薄暗い部屋。ソファーの上で泥のように眠る母親に目を遣る。

「……ゆう、き?」

「母さん、起きてたの?」

「ええ。……幽生は、これから学校?」疲労を感じる声だ。

「うん。ご飯、テーブルに置いてあるから冷めてたらチンして食べて」

「わかった。ありがとう……」

「……今日はいつ仕事から帰ってきたの?」

「五時ぐらい……だったかしら」

 幽生が起床する一時間前だ。朝食を作っていてもピクリとも起きなかったのを思うと疲労困憊しているに違いない。

「やっぱり僕も、大学なんて行かずに高校も辞めて働くべきだよ」

「ダメよ。そんなこと許さないわ」

「いつも、そう言うけど……どうしてそう頑なに……」

「あんたは高校を出て、しっかりした大学に行きなさい。なぁに、お金なら心配いらないわよ」

 ――お金。母親が言う“お金”は学費ではないことを幽生は分かっている。

「……死ぬよ? こんな働き方を続けていたら本当に死ぬよ」

「死んでも大した保険金も貰えないでしょうね。……だから、死ぬ気はさらさら無いわよ」

 母親は自嘲混じりに冗談を口にした。

「それ……仄ちゃんの前で、冗談でも言わないでよ?」と、本気の声音で戒める。

「当たり前よ。それに、あんた達を置いて逝くほど腐ったつもりは無いわ」

 ――それに。と、言葉を続ける。

「あの子が生きられる可能性が少しでもあるなら、諦めるつもりは無い。ドナーが見つかれば地球の裏側だろうと飛んでいくわ。そのために必要なお金は私が集めるから、幽生は心配しないで学校に行きなさい」

 その言葉は聞き飽きていた。つい、苛立ちを声に乗せて言ってしまう。

「いくら必要なのか、母さんも分かっているはずだよね? もしかしたら数千万じゃ足らないかもしれない……」

「どうにかして見せるわよ。だからあんたは、幽生は私みたいに働く必要はない」

 冷静な声音で言う母親が、余計に腹立たしかった。

「仄ちゃんはどうするんだ! 長くて一年って言われてから、もう半年だよ!? 仄ちゃんはそのことすら知らない! 兄が妹を助けるために働くことが、どうして嫌なんだよ!」

 高校生という身分を隠して深夜のバイトをしていたことがある。しかし、それを知った母親が無理矢理辞めさせに来た。幽生にはそれが理解できなかった。法律云々は度外視するとしても、娘を全力で守らない母親が解せない。

「私はあんた達の母親よ」

「だったらどうして……」

「仄の母親でもあるけど、あんたの母親でもあるのよ?」

「……だから、何」

「二人には幸せに生きて欲しい……。それが私の願いだからよ。ひとりを幸せにする為に、もうひとりを犠牲にしても意味が無いでしょ……。だから、お願い。幽生は前だけを向いていて」

 誰かが言っていた。人は誰しも(ねがい)を抱いている、と。幽生の母親も例外では無かった。

「……」母親の願いを否定する理由も権利も見つけられなかった。

「今日も仕事でお見舞いには少ししか行けないから、仄のことは頼んだわよ。お兄ちゃん」

「……分かってる」そう言い、扉を閉める。

 しかし、ふと扉を閉める手を止め、ずっと胸に秘めていたことを恐る恐る口にする。

「母さんは……今でも“あの人”を愛してる?」

 すると、一拍の沈黙を挟んで母親は答える。

「……愛せると思うわよ。私が選んだ男だもの。でも……“あの人”を許すつもりも無いわね」

 幽生を気遣って嘘を吐いているとは思えない。それなのに、

「……」どうしてか言葉が出なかった。

「まだ、気にしているの? というか、気にしない方が難しいわよね……」

「別に……後悔はしてないよ。誰に非難されようと、仄ちゃんを守る為なら何だってするさ」

 ソファーの上で横になっていた体を重たそうに起こすと、半眼のまま幽生を見据えてくる。

「確かにあれは間違いだったかもしれない。妹を守る為とはいえ、結果としては正しくなかった。だけど……妹を守るお兄ちゃんとしては立派よ」

 寝惚け眼の母親は躊躇いなく断言した。

「立派……?」眉を困らせ、その言葉を反芻する。

「結果がどうなるかは誰にも分からないんだから。……“あの人”を止めていなかったら仄は死んでいた。それに、幽生がやらなかったら……私が殺していたかもしれないもの」

「それは……極論だよ。もし僕じゃなくて母さんなら上手くやっていたはずだ」

「夢と一緒で、やってみないと結果なんて分からないわよ。やってみないと何も変えられないし、見ているだけじゃ何も変わらない。だから……何かを変えようとした幽生は立派よ」

 それでも、母親の言葉を素直に呑み込むことはできそうにない。

「……僕は何かを変えられたの?」

「半歩ぐらいは前進できたんじゃない?」

「なんだよ、それ……」と、幽生は呆れたように呟く。

 僕は立派なお兄ちゃんではない。病に苦しむ妹を救えない無力な僕は立派とは程遠い。“あの人”と同じように僕も殺されるべきなのかもしれない……。


 ――五年前。幽生が学校から帰ると、父親《あの人》は仄の上に跨って乱暴に殴っていた。妹が殺されると思った小学六年生の幽生は、父親の後頭部に炊飯器を叩き付けた。ポケットから取り出した包丁を両手で握ると、脳震盪で悶え倒れている父親の首に躊躇いなく振り下ろす。首や胸、肩、腕を何度も何度も突き刺す。

 幾度も振り下ろしている際に握る手が滑り、親指の付け根を刃が走る。鋭い痛みが走り、自分の手から血がドクドクと流れていると気付いた時には、|父親は死んでいた。

 後日に判明したことだが、事業に失敗して情緒が不安定だった父親を幼い娘の仄が励まそうと言葉を掛けると、それに苛立ち暴力を振るってしまったのだと。


 ふと、右手に目を落とす。親指の付け根から手首に走る傷痕が父親を殺した呪いの様だった。

「……いってきます」と、幽生は嫌な記憶から逃げる為に居間の扉を閉める。

「いってらっしゃい」の声を聞き終える前に扉を閉め終えた。

 廊下を進み、乱暴に靴を履いて玄関を出ると、

「……くそっ!」

 マンションの手すりを革靴で蹴り付ける。

「どうしたら、いいんだよ…………」


   ×××


 高校に登校した幽生は昇降口で靴を履き替えていた。ふと、隣で靴を履き替えている名前も分からない女子生徒と目が合う。しかし、銀髪碧眼で、その童顔に反して持て余すほどの大人びた体をした少女がクラスメイトであることは知っていた。彼女は脅えた小動物のようにすぐに視線を逸らして靴を仕舞う。

 特に気にも留めず幽生は教室に向かおうとした時、登校してきた二人の女子生徒が彼女の傍に現れ、道を塞がれてしまった。

「おはようございます。ゐるかさん」

 そう挨拶したひとりの女子生徒。ツインテールに縦ロールを合わせた彼女の挙動からは育ちの良さを感じさせる。

 イルカ? と、お嬢様の言葉に幽生は胸中で首を傾げた。しかし、語尾が下がる発音だったのを考えると、銀髪少女の名前であると気付く。

「あ……うん、おは……よう、桜ヶ丘さん」

「どうしたの? 元気ないみたいだねー。何か嫌なことでもあった? それとも……“お仕事”頑張りすぎたとか?」と、もうひとりのショートカットで明るい印象の女子生徒が言った。

「具合が悪いのでしたら保健室までついて行きましょうか?」

「……大丈夫、です」

「そうですか? それならいいんですけれど」

 進路を塞がれて立ち止まっていると、桜ヶ丘と呼ばれていたお嬢様が幽生の存在に気付いた。

「私に何かご用ですか?」

 いや、違うよ。という気持ちを押し込んで「そこ、通ってもいい?」と淡白に言い放つ。

「あら、ごめんなさい」

 一歩身を退いた桜ヶ丘の脇を通り抜け、彼女たちの会話を背に廊下を進む。

「遊佐……だっけ? あいつ、よく学校に来られるよねー」

「そうですね……。あの靴を平然と履いて授業を受けられるなんて、頭がどうかしています」

 寄せ書きのように油性マジックの罵詈雑言が書かれ、カッターナイフに刻まれた学校靴で足音を鳴らして階段を上がっていく。

「狂った頭にならなくちゃ全国模試で一位を取れないなら、馬鹿になった方がまだ幸せだと思うわ。まあ、それを妬む男子たちも女々しいけどさ」

「世の中どうかしていますね」

 彼女たちが談笑する傍では、雨宮ゐるかが胸に手を当てて苦しそうに目を伏せ続けていた。


   ×××


 都内屈指の進学校である名門私立高校に学費免除の特待生として入学した遊佐幽生は、プライドお化けの他生徒にとっては目障りな存在だ。特に男子生徒には妬まれ、嫌われている。

 破られたページをセロハンテープで繋ぎ合わせた教科書を捲る。担任教師は数学の公式を教科書で解説し終えると、黒板にチョークを叩き始めた。教師が背を向けた途端に、幽生の後頭部に丸められた紙屑が当たる。いつものことだった。

 すると、チョークを叩く音に混ざって聞こえてくる。

「あいつ何で学校来てんの?」「さっさと消えてくれない?」「不気味で目障りなんだよ」

「……」幽生は気にするのを止めた。

 だが、それでも悪戯は終わらない。構って欲しくてやっているのではなく、心の底から自分が嫌いだからやっているのだから。

 すぐに捨てられるからノートを取るのも止めた。授業を聴いて、教科書を見て理解すれば問題は無い。もし教科書も捨てられたなら、授業を聴いて全てを理解すればいいだけの簡単な問題だと、彼は考えている。今やっている大学受験対策の数学の問題よりも簡単だった。

「昨日やったテストを返す。間違えた問題は確認しておけよ」

 出席番号順に答案用紙を返却していく際、ひとりずつ教師から是非の言葉が掛けられていく。

「――遊佐」しばらくして呼ばれた。

「はい……」素っ気ない返事と共に立ち上がり、前に出て答案用紙を受け取る。

「いつも通り完璧だ。お前なら東大に主席で入学できるぞ。この調子で頑張ってくれ」

「……はい」

「校長も期待しているからな。担任として鼻が高いよ」

「……ありがとうございます。頑張ります」と、抑揚の無い言葉で心の底から嘘を吐いた。

 学校の名聞の為に東大へ入学させようとしている彼らからすれば、生徒間の問題は枝葉に過ぎないのだろう。関心があるのは遊佐幽生ではなく、遊佐幽生の成績だ。大学合格という結果だけを欲している彼らの言葉は皮肉にしか聞こえていなかった。

 点数も見ずに折り畳み、ポケットに仕舞う。席に戻る途中、ポケットの中で握り潰す。

「――ッ!」突然、幽生は派手に転んだ。

 誰かに足を引っ掛けられたのだと遅れて気付き、首を振り返らせると眼鏡越しの視界の端に「プククッ」「クススッ」と、ほくそ笑む男子生徒を捉える。

「…………」幽生は一瞥するだけで、感情を揺らさずに起き上がると席に戻っていく。

「遊佐、大丈夫か?」担任教師の心無い心配が聞こえてきた。

「……はい、大丈夫です」

 ずれた眼鏡を指で整えてから席に座ると、幽生は思う。

 世間ではこれを苛めというのだろう。だけど、不思議と苦しいとか逃げ出したいとか感じた覚えが無い。只々、退屈だ。どうしてか、妹のいない時間は全てが灰色に見える。

 ああ、苛められるのは、これほど退屈なのか……。

 仄ちゃんに苛められている時は、あれほど幸せなのに――。


   ×××


 昼休み前の四時限目。幽生は体育館の端で座り込み、退屈していた。

 ボールをつく音が鼓膜を煩わしく振動させてくる。女子はバレーボールをしている。男子はバスケットボールを行う為に四チームに分けられ、幽生のチームは試合を見学する順番だ。

「揺れた! 今、服の上からでも分かるくらい揺れたの見たか!?」

 ひとりの男子生徒のけたたましい話し声が横から聞こえてきた。幽生と同じチームに属する二人の男子生徒がバレーコートにいる女子生徒の話題で盛り上がっているのを横目で見遣る。

「おい、声がデカいって。俺たちが見てるの女子に気付かれてるぞ」

「えっ、嘘!」

「てか、跳ねなきゃ分からない胸を見るより跳ねなくても揺れる、ゐるかちゃんを見ろよ」

「それは、そうなんだけどさぁ。ゐるかちゃん、今は見学してるから動いてくれないんだよ。いや……でも、あの体は何もしなくてもエロいな」

 ゐるかちゃん? どこかで聞いた名前だと考えていると、今朝の昇降口で見掛けた銀髪碧眼のクラスメイトを思い出す。ふと、体育館のステージ前で膝を抱えて座る雨宮ゐるかを見遣る。

「……?」一瞬、彼女と目が合った。

 もしかしたら、体育館の脇で話す彼らの声が届いているのかもしれない、と幽生は気付く。

「同感。童顔なのに体はエロい。しかも、ロシアのクォーターとか、どこの最終兵器だっての」

「女子が妬む気持ちも分かるぜ。頭も良くて、可愛くて、スタイルも抜群の同級生が横にいられたら劣等感に襲われるよなぁ」

「……まあ、似たような奴なら男子(こっち)にもいるけどね」

「え、ああ……」彼らは幽生に視線を向けた。

 その気配を感じつつも意に介さず、バスケ部の独壇場と化している試合を眺める。すると彼らの下卑びた談笑が再開する。

「そういえば、ゐるかちゃんの噂なんだけど……話したっけ?」

「他クラスの女子の彼氏がゐるかちゃんに惚れて、その女子が激怒した話なら聞いたぜ?」

「いや、それ結構古い話だよ」

「違うの? じゃあ初耳だ」

「実は、あのエロい体、頼めばやらせてくれるらしいって噂だ」

 ――本当か!? と、叫ぶ声が体育館に木霊した。

「馬鹿! 声デカいって!」

 十分に彼らの声は丸聴こえだった。ボールの音で聞こえないと思っているのか、雨宮ゐるか本人を含めた一部の女子生徒の耳にも届いていることに二人は気付かず話を続ける。

「噂だけど、有力な話らしい。あの大人しいゐるかちゃんが実は援交しまくりとか想像するだけで燃えるだろ? 一度頼んでみようかな」

「確かに、それは惜しい噂だなぁ……」

「それなら一緒に頼んでみないか?」

 と、話を持ちかける。しかし、ついさっきまで女子生徒の胸が揺れるだけで興奮していた一方の男子生徒は意外にも冷静な調子で言う。

「……でも、もし噂が嘘だったら大変なことになるぜ? 本当だとしても、援交をやってるような女だぞ? いくら最高にエロい体だからって性病を移されたらと思うと俺は勘弁だな……」

「性病……か。性病は……嫌、だな。それで病院行くの恥ずかし過ぎて死ねるわ」

 諭されたもう一方の男子生徒は笑いながら平然と言った。まるで雨宮ゐるかは病原菌扱いだ。

「……」耳を傾け、口を噤んでいた幽生は僅かに眉を顰める。

 言いたい放題の彼らが不愉快だった。

 男子から向けられる獣の視線と、女子の妬みに満ちた棘のような視線がどれほど苦しく、鋭利に突き刺さっているのかは幽生には分からない。ステージの前で体を抱きしめるように蹲る雨宮が震えていることしか分からなかった。

 試合終了を知らせるホイッスルの甲高い音が体育館に響き渡る。


   ×××


 ――昼休み、食堂でたぬきそばを食べようと発券機前で財布を取り出す。しかし、制服の内ポケットに手を入れても財布は無かった。他のポケットに手を入れても姿形も見つからない。

「はあ……更衣室に置き忘れたか」大きな嘆息を漏らす。

 後ろに並んで待つ生徒達を一瞥し、何も買わずに列を離れる。食堂を出て更衣室までの廊下を早歩きで戻っていく。

 しばらくして更衣室に行き着き、引き戸の扉に手を掛ける。その時、中から女子生徒の声が聞こえてきた。咄嗟に手を止める。

 ……間違えた? と、顔を仰向けて部屋のプレートに目を遣る。しかし、プレートにはでかでかと『男子更衣室』の活字が書かれていた。

「……合ってる、よな」

 自分の過失ではないことを確認できたが、中から女子生徒の声が聞こえてきたのも確かだ。首を傾げて懊悩するが、財布が必要な幽生は扉を僅かに開けて中を覗き込む。

「……あれは確か、雨宮ゐるか?」中にいたのは白銀の髪が特徴の雨宮ゐるかだった。しかもどうしてか、まだ体育着のジャージ姿だ。

 何をしているんだ? と、更に中を覗くと彼女の他に二人の男子生徒を見つける。ロッカーを背に立つ雨宮。そんな彼女の逃げ道を塞ぐよう立つ二人の男子生徒。学校靴の色からして三年生だ。幽生はどことなく嫌な雰囲気を感じ取る。

 だが、いまはそれどころではない。財布を更衣室の奥のロッカーに置き忘れたのを思い出す。しかし、見つからずに遣り過ごすのは困難を極めた。

 二人の男子生徒は扉を背にして幽生の存在にまだ気付いていない。

「……」様々な可能性を考慮し、しばらく様子を見ることにした。

 すると、彼らの会話が聞こえてくる。

「呼び出してゴメンね、雨宮さん」

「あ、あの……話って、なんですか……?」目を合わせずに彼女は震えた声を漏らす。

「実は、ゐるかちゃんに頼みごとがあるんだ」

「私に頼みごと……ですか?」

「そうそう。その頼みなんだけど……ゐるかちゃん、援交してるでしょ?」

 目を剥き、一瞬で彼女の表情が凍り付いた。

「……ぁ……ぇっと……何の、話ですか……?」

「昨日の夜、雨宮さんがホテルから出てくるのを見たんだ」

「……そ、それは…………ぁの……」目を激しく泳がせて言葉を詰まらせる彼女の態度を見た幽生は、体育の授業中に聞いた“黒い噂”が事実だと知る。

「それで、ゐるかちゃんに頼みたいのは……俺たちの相手もして欲しい、ってことなんだ」

「……ぇ」彼女はその意味をすぐに理解できずに呆けた。

「いいでしょ、雨宮さん? 知らない男を平気で相手に出来るなら、僕らにもその体を貸してくれるよね?」

「……な、なにを……言って」

「それとも、君がホテルから出てきた証拠写真をばら撒かれてもいいの? それが嫌なら大人しく言うことを聞いてよ」

「少し楽しませてくれたら酷いことはしないからさ。ねえ、いいでしょ、ゐるかちゃん?」

 一方の男子生徒が彼女の腕を乱暴に掴むと、その体を舐めるように見回す。男達の獣染みた下卑な視線が幼く端麗な顔を歪めさせる。

「や、やめて……くだ……」と、囁くような悲鳴を漏らすだけで、彼女は脅え震えている。

「……」幽生は息を殺して眺め続ける。

 欲望に塗れた男子生徒の手が、少女の滑らかな曲線を描く肢体に伸びていく。

「……ぃや……やめ……て」

 大した抵抗もせず、そして豊満な胸が汚されていった。

「…………っ」雨宮は唇を噛んで目を背ける。

「……」沈黙を保ち続けていた幽生は、あまりの不愉快さに眉を寄せて奥歯を食い縛る。

 なんでだよ……。と、胸中で怒り叫んだ。

 どうして必死に助かろうとしない! 何もせずに初めから助かることを諦めている雨宮ゐるかが理解できず、怒りが沸々と湧き上がってくる。不愉快ですらあった。

「……ふざけんなよ」

 思わず漏れてしまった声にひとりの男子生徒が気付き、扉から覗き込む幽生を見つける。

「誰だ!」

 もうひとりの男子生徒も遅れて振り向く。雨宮の瞳も幽生の半身を捉える。

 一斉に三人の視線を浴び、観念した幽生は渋々扉を開け、

「忘れ物を取りに来ただけなので、気にしないでください」

「は? 何言って――」

「そっちの方がお互い都合がいいでしょ?」半分脅し染みた言葉で男子生徒の口を籠もらせる。

 幽生の冷ややかな瞳に気圧された彼らをそのままに、奥へ進んでロッカーに手を伸ばす。

「ねえ、君……口止めじゃないけれど、一緒にどうかな?」

 落ち着いた印象の一方の男子生徒が唐突に誘ってきた。ロッカーから財布を取り出し「遠慮しておきます」と、無下に断る。

 財布を仕舞って更衣室の出口に向かう途中、雨宮を一瞥する。助けて貰えないと悟ったのか、悲愴な表情を浮かべて俯き続けていた。それを意に介さず、すぐに目を戻して扉に手を掛ける。しかし、その手をピタリと止めた。

 白銀の前髪から覗き見えた幼い顔が網膜に焼き付いて離れない。しかも、彼女の姿が何故なのか、幼気いたいけな妹の姿と重なって見えてしまった。

 ……助けたくても助けられない苦痛を僕は知っている。それなのに、助ければ助かる人を僕は見捨てるのか? と、幽生が葛藤し、懊悩する。

「君さ、出て行くつもりなら早く消えてくれない? 僕らも我慢できないんだ」

 ……はあ、どうして重なって見えちゃったのかな。と、頭を掻いて嘆息を漏らす。

「わかりました……」

 そう言いつつも扉を開かず体を半分だけ振り返らせ、二人の先輩を見遣ると言葉を続ける。

「……あ、もうすぐ卒業の先輩方の名前に傷を付けない為に、ひとつアドバイスを」

「あ?」威圧的な一方の男子生徒は眉を顰めた。

「性病には様々なものがあります。潜伏期間中にも移るものがあり、移れば病院で治療をしなければいけません。ですが、保険を使って治療を受ければ保護者に知られる可能性もあり、使わなければ高額な治療費を先輩方が払うことになりますね。もし、親御さんに知られたら何て弁明するのですか? 後輩の女子生徒を強姦して性病を移されました、と? 例え嘘を吐いても性病を移されたと説明せざるを得ませんね。それって……結構恥ずかしいですよ? 先輩方のご両親はどんな表情をするのか……。感染した理由は何にしても、厳格なご両親としては愉快な話ではありません。その後は何が起こるのか……想像出来ますよね? このような可能性も考慮した上で、やろうとしているんですよね?」

「……っ」八行にも渡って捲し立ててきた根暗眼鏡の薄気味悪さに彼らは顔を引きつらせた。

 知ったように言ったものの、彼らの家族を知っているはずも無く推測に過ぎない。しかし、この名門私立高校は御曹司とお嬢様の宝庫であり、彼らの表情を見る限り外れていなかった。

「それで先輩方はどうしますか? このまま続きをしていかれます? 構いませんよ、僕は黙っておきますから」

 脅し染みた言葉に「くそっ」と吐き捨て、苦虫を噛み潰した様に更衣室を足早に出て行った。

 幽生は深い溜息を吐き、肩を縮めへたり込む雨宮ゐるかに目を遣る。

「……」男子更衣室を沈黙が占領した。

 お互いに目を逸らしていると、

「あ、あの! ……ありがとう」沈黙を破り、口火を切ったのは彼女だった。

 しかし、その声を遮るように刺々しく言い放つ。

「ふざけんなよ……」

「……ぇ?」

「ふざけんなよ。どうして助かろうとしない……。脅されていたとはいえ、あんたは最初から助かろうとしていなかった。助かろうとするわけでもなく……ただ、目を背けるだけで何もしない。助かろうとするのを諦めないでくれよ」

 どうしてだろう……。どうして僕はこんなにも怒っているんだ? ……ああ、そうか、

「助かろうとすれば助かるかもしれないのに、諦めるとかさ……ふざけんな。苦しくても諦めずに必死に頑張って、それでも助からない人が馬鹿みたいじゃないか……」

 仄を救う為に身を粉にして働く母親を、その行為を馬鹿にされている気がして不愉快だった。

「ぁ……ぁの……ごめんなさい」

 酷く脅えて俯いた彼女を見て、ふと我に返る。

「いや、こっちこそ……ごめん。それに嘘とはいえ、君を傷つけるような嘘を吐いた」

 彼女に近寄ると、その小さく白い手首を掴んで引っ張り起す。

「あ、ありがとう……」

「怪我は無いみたいだし、もう行くよ。雨宮さんも早くしないと、食べる時間無くなるよ?」

 そう言い残して逃げるように更衣室を後にする。


 ……僕は冷たい人間だ。だけどそれ以上に、雨宮ゐるかの細い手は寂しそうに冷たかった。


   ×××


 学校を終えて寄り道をせず病院に向かい、妹の病室がある階までエレベーターで昇っていた。『チン』の音と共に扉が開き、エレベーターを出ると消毒液のにおいが鼻腔に流れ込む。

 仄の病室を目指して廊下を歩いていると、まだ先のとある一室から出てきた看護師とすれ違う。ハサミを持って来たのを知られたら怒られるだろうなぁ。と、看護師に叱られるのを恐れていると、仄が入院している病室の前に到着する。

 遅れて気付く。すれ違った看護師が出てきた病室は妹の病室であると。

「……」幽生は来た道を振り向き、すれ違った看護師の背中を目で追う。自分に何も言わなかったのを考えると、仄に何かがあった訳では無いのだろう。と、特に気にも留めず扉を開く。

 ベッドに腰を掛け、窓の外を眺める愛しい妹の後ろ姿を見つける。顎で切り揃えた黒髪に、青白くて華奢な肢体を包むパジャマ。いつも通りの仄……ではなかった。小さなその頭には、

「あれ、ヘッドフォン姿の仄ちゃんは珍しいね。何を聴いてるの?」

 幽生の気配に気付いて首を振り返えらせると、ピンクのヘッドフォンを外して膝の上に置く。

「……あ……うん、お兄ちゃん。……ちょっと、ね」

 声が脳に届くより速く、妹の異変に気付いた。

 虚ろな瞳を浮かべ、どこか苦しそうにも見える。……まさか。と、幾つもの嫌な想像が脳裏を駆け巡らせる。ふと、ついさっきまでこの病室には看護師がいたのを思い出す。

 ……だけど何かの処置をした跡が見当たらない。つまり、仄ちゃんの容体が悪化した訳では無い? だとすれば何があった……?

 妹の傍らにはヘッドフォンのコードが繋がれたピンクのCDカセット。唯ちゃんから借りたのか? と、考えたが様子の変化に関係しているとは考え難い。

 唯ちゃん……そうだ。唯ちゃんなら何かをしっているはず。

 扉側のベッドに慌てて目を遣る。しかし、そこにいるはずの童女の姿は見当たらない。看護師がシーツを交換した後なのか、不自然なくらい綺麗に片付いたベッドがあるだけだ。

 ふと、昨日も唯は出歩いていたのを思い出す。

 このままでは埒が明かない、と幽生は平然を保ちつつ仄の前に歩み寄る。

「仄ちゃん? どこか苦しいの?」鞄を置いてから腰を屈め、顔を覗く。

「ううん。平気……だよ」

「……」明らかに様子がおかしい。幽生はこれほど塞ぎ込んだ妹を見たことが無かった。

 膝を突き、諸手でそっと優しく仄の手を握る。その妹の手は酷く冷たい。

「何か嫌なことがあったり、怖い夢を見たりして心細かったら僕を頼って。お兄ちゃんが必ずどうにかしてみせるから、ね?」

「…………どうにか、って……どうするの?」

「嫌なことがあったなら、それを忘れるくらい仄ちゃんを楽しませる。怖い夢を見たなら眠っている時もずっと傍にいる。だからお兄ちゃんを頼っていいんだよ」

「……どうにか、できるの?」

「もちろんだ。僕に、お兄ちゃんに任せて」精一杯の笑顔で言った。


「じゃあ……“死にたくない”ってお願いでも、どうにかしてくれる?」


「……」笑顔を必死に保ちつつも思い掛けない言葉に戸惑い、寸秒の間を作ってしまった。

「……もちろんだよ。もしかして病気を心配しているの? だとしたら、それは杞憂だよ。薬を飲んで安静にしていれば、これ以上悪化しないって先生から聞いたでしょ?」

 僕はまた嘘を吐いた……。これまでも最愛の妹を騙してきた。罪悪感? そんなものは疾うに捨てた。仄ちゃんを守る為なら罪に染まることへの迷いは無い……。

 嘘を吐くのは嫌だ、という人はよくいる。僕から見れば、それは愛する人に嘘を吐く自分が嫌なだけだ。たとえ嘘吐きが悪だとしても、嘘を吐く行為は愛する人への裏切りではない。

 ――と、僕はそう思っていた。それなのに、


   「嘘吐き」


「………………え?」

 幽生は生まれて初めて自分の耳を疑った。『嘘吐き』その声は紛れも無く仄の声だった。

「お兄ちゃんの嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き!! 嘘吐きなお兄ちゃんなんて信じられない!!」握っていた手を弾かれた。

「僕は本当のことしか――」

「嘘吐き! それだって嘘なんでしょ!? ……どうせ私はもうすぐ死ぬんでしょ? 本当は助からないんでしょ? 本当のこと言ってよ!」

 今にも涙が零れ落ちそうな妹を抱き締め、優しく髪を撫でる。

「大丈夫だよ。僕は仄ちゃんの味方だ。だから落ち着いて? お兄ちゃんを信じて。仄ちゃんの病気は絶対に治るから」

「それならどうして……どうして、唯ちゃんは死んだのよ……」

「……」幽生の脳裏は真っ白になった。

 完全に言葉を見失うと同時に、違和感の正体をようやく悟る。仄の小さな頭越しに見える隣のベッドは不自然なくらい片付けられていた。すれ違った看護師はベッドを整えに来ていたのだ。何故なら、ベッドが“空いた”から。

「…………いつ、だ」彼が絞り出した言葉がこれだ。

「昨日の深夜に容体が急変して……運ばれて……そのまま、帰って来なかった」

「……」

「ナースコールを私が押して、看護師さんが来るまでの間に唯ちゃんと少し話したの。これをあげる、って……」

 唯一、愛用していたピンクのCDカセットとピンクのヘッドフォンだけが病室に残されていた。借りたとばかり思っていたそれは譲渡された遺品だった。

「……どうして」

「録音されてたの……。唯ちゃんの声が」

 仄が再生ボタンを押すと、ヘッドフォンから聴き覚えのある童女の声が聞こえてくる。

『パパとママは、わたしのために隠してくれてるけど、わたしはもうすぐ……死んじゃうんだと思います。だから、いついなくなるか分からないので、大好きな仄おねえちゃんにメッセージを残すことにしました。今まで遊んでくれて、ありがとう。……仄おねえちゃんは諦めないでね。……それじゃあ、バイバイ』

 カチッと再生ボタンが戻る乾いた音だけが鳴った。

「ねえ……お兄ちゃん言ったよね? 諦めなければ願いは必ず叶う。そう言ったよね? 唯ちゃんは、お兄ちゃんを信じてまた頑張ろうとしてたのに……死んだんだよ」

「…………ごめん」

「私に謝っても、もう遅いよ……嘘吐き。嘘吐きのお兄ちゃんの言葉なんて信じられない! 心臓の病気も治らないんでしょ? どうせ私も死ぬんだよね!? ねえ!」

「必ず治る。病気は治って、仄ちゃんは死なない。だから――」飽く迄、嘘を吐き続けた。

「嘘吐きをどうやって信じろって言うの? 全部嘘なんだ……嫌だ……嫌だ」

 仄は目を剥き、双眸から光を失った。

「嫌! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!! 死にたくない死にたくない死にたくない!! どうして!? どうして治らないの!? 嫌だ……死にたくないよ!! 治るって言ってたのに!! みんな嘘吐きだ!! 嘘吐き嘘吐き嘘吐き!!」

「落ち着いて、仄ちゃん。僕がいるから。大丈夫、大丈夫だよ? だから落ち着いて?」

 腕の中で泣きじゃくる小さくか細い体は、強く抱き締めれば崩れてしまいそうだ。

「私の気持ちも分からないくせに優しくしないで! 嘘吐きに分かるはずない! 死ぬ人の気持ちなんて分からないでしょ! それなのに……願いは必ず叶うとか、いい加減なこと言わないでよ! 本当は……アイドルに憧れてた! 樫之幽花みたいなアイドルになって、輝ける生き方をしたいんだよ! それなのに……それなのに、どうして死ななくちゃいけないの!?」

「……仄、ちゃん」

「聞きたくない! 嘘吐きなお兄ちゃんなんて、私の大好きなお兄ちゃんじゃない!」

 ――大嫌い!

 大嫌い……。その言葉が脳裏を駆け巡る。クラスメイトにどんな嫌がらせをされても苦しくなかった胸に鋭い痛みが走った。全身が酷い虚脱感に襲われる。

 全筋肉が弛緩すると、腕の中で暴れ狂う仄に容易く突き飛ばされて派手に尻餅をつく。

 臀部の痛みに一瞬顔を歪めていると、叫ぶように罵詈雑言を浴びせて来た。その罵詈に混ざって傍にある物を手当たり次第に投げ付けてくる。

「……気付いてあげられなくて、ごめん」腕で庇うこともせず、全ての痛みを受け止める。

「あっちいけ! 私の前から消えてよ!」

 枕やタオル、CD、『ラプラス』のDVDなどが乱雑に飛んでくる。

「お兄ちゃんなんて、大っ嫌い!! お前なんか――死んじゃえばいいんだ!」

 その言葉と共に、ヘッドフォンを繋いだままのCDカセットが幽生の視界を覆った。

 鈍く重い音が頭蓋を響かせ、吹き飛んだ眼鏡が床に弾かれる。重いカセットが床に落ちると激しく割れる音が病室に木霊する。破損した一部が幽生の手に当たった。

「……っぅ」頭が割れるような痛みに顔を歪ませると、

「…………お、にい……ちゃん?」

 青白い肌の妹が顔面を一層蒼白にし、自分を見下ろしてくるのが霞む視界でも分かる。

「……ん?」すぐに気付いた。額から頬に流れる生温かいものに。

 右目の視界を真っ赤に染める夥しい流血。頬に触れた手にはどす黒い血が付着する。

 何が起きたのか理解した幽生は顔を綻ばせて言う。

「うん、ちょっとした切り傷だ。すぐ止まるから心配しないで、仄ちゃん」

 しかし、血を目にして興奮が冷めた彼女は唇を震わせ、血の気を失っていた。

「ぁ……あぁ…………ぁ……お兄、ちゃんに……」

 突然病室の扉が荒々しく開かれた。騒ぎを聞きつけた一人の看護師が飛び込んでくる。

「君たち何してるの!!」

「ど、どうし……て…………酷い、こと……言って……」

 錯乱し、見開いた瞳を激しく泳がせる。

「大丈夫よ、遊佐さん。大丈夫。頭を切っただけだから安心して?」

 すぐに駆け寄って来た看護師は落ち着かせようと試みる。だが、

「あ……あぁぁ……わたし、が……お兄ちゃん、を……」

 仄の心は唯の死に触れ、既に罅が走っていた。そこに、大切な兄を傷付けたという自責の念が追い打ちを掛け、妹の心を完膚なきまでに砕いた。

 今は何を話し掛けても届かないと悟った幽生は眼鏡を拾って立ち上がる。

「ナースコールで他の看護師呼んだから、一応診て貰いに行きなさい」

「……いえ、大丈夫です」

「ダメよ。ただの切り傷だったとしても、止血して行きなさい」

「家でやりますから、僕なら大丈夫です」

「……ご……ごめ……お兄ちゃんに……ごめん、なさい……まだ……」

 頭痛を堪え、腰を屈めて顔を覗き込む。仄は涙を頬に伝わせていた。

「謝るようなことはされてないよ。僕は……仄ちゃんのお兄ちゃんだ。妹の我儘を受け止めるのもお兄ちゃんの仕事だよ。仄ちゃんは僕だけのお姫様だもの。だから……泣かないで?」

 乱れた黒髪を梳くように優しく愛撫する。目尻に溜まった一粒の涙をそっと指で掬い取ると、幽生は笑って見せた。

「……お兄、ちゃん……?」

 体を起こし手に持った眼鏡を掛け直すと、

「あの、仄ちゃんをお願いします」看護師の女性に頭を下げる。

「せめて止血だけでも――」

「お兄、ちゃん……どこ、いっちゃうの……?」初めてだった。仄が寂しさを漏らしたのは。

 その一言だけで幽生の覚悟が確固たるものとなった。

「明日もまた来るから安心して? 今日は寂しい思いをさせちゃうけど……ごめんね」

「…………うん……待って、る」

「僕が必ずどうにかしてみせるから。お兄ちゃんが守るから。だから、少しだけ待ってて」

 鞄を置き捨て、顎から血を滴らせながら病室を静かに出ていく。

 ――もう二度と、仄ちゃんに涙を流させない。

 そう胸に誓った幽生は病院を飛び出すと、人影が疎らな往来を駆け出していた。茜色の夕日は、逃げるように走る背中をどこまでも追ってくる。

「僕が守るんだ! 助けるんだ! ……くそっ!」

 人目を憚らず彼は叫び続ける。

「くそっ! くそっ! くそっ! 僕は大事な妹を守ることすら出来ないのかよ! このまま見殺しにするつもりか! ふざけるな!」無力な自分が何よりも許せなくて、憎かった。

 当ても無く駆けていると、気付けばビルが立ち並ぶ駅周辺の雑踏の中にいた。肩で息をし、疲れ果てた足を震えさせて晩霞を仰ぎ見る。

「何か……何か、方法は……」

 頭痛に襲われる脳を必死に働かせた。しかし、何も見つけられなかった。

 そんな時だった。仰ぎ見る頭上で光る大型ビジョンに珍奇な広告が騒々しく流れ始める。

 今の東京では“神さま”を名乗るCMが定期的に全テレビ局の電波に介入して広告されていた。そのCMが幽生の頭上で大型ビジョンに流れている。

 そこに映る、後光を纏うツインテールの幼女が、

『愛、悲しみ、寂しさ、憎しみ、怒り。悲劇に満ちた世界であらゆる欲望を孕む人間のみんな♪ わたしのマジカル☆パワーで、どんな願いも叶えてあげる♪』と、無垢な笑顔で言う。

 幽生には“神さま”の言葉が本物の神様の言葉に思えてしまった。

 ……願いを? その言葉を反芻する。

 そして最後に宇宙服のヘルメットが画面いっぱいに映り込み、

『諦めなければ願いは必ず叶う! お電話は110番へ』

 そう言い残してプツリと暗転し、元の番組に戻る。

「……どんな願いでも……叶う」

 絶望の闇で見つけた砂粒の希望。携帯電話をポケットから取り出すと、藁にも縋る思いで『1』『1』『0』を入力した。そっと右耳に当て、

『私は“神さま”です。ピーという発信音の後に、あなたの願いを入れてください』

 留守番電話を思わせる音声を聞く。

 都市伝説に過ぎない……。頭ではそう思いながらも素直に願いを口にする。

 ピー

「……僕の命と引き換えでもいい。だからお願いします。妹を助ける力をください」

 雑踏の中心で、顔を血で染めた高校生が泣き出しそうな声で電話を掛ける姿は、都市伝説よりも不気味な存在に違いない。

『…………』不気味な青年の声に“神さま”は応えなかった。

 根も葉もない噂に縋ってしまった滑稽さを自嘲しながら携帯電話を離そうとした時、

『その願い、私が叶えてあげましょう』

 仄を救う唯一の希望を彼は掴んだ。

 愛する妹に、もう二度と涙を流させないために僕は何だってする。

 どんな犠牲を払っても、守ってみせる。たとえ自分の命を犠牲にしてでも。

 必ず、僕は――。

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