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幽生の体を見た医者は汗を滴らせて目を丸くしていた。当然の反応だ。五日前に瀕死の大怪我で病院に運び込まれた少年が意識を取り戻し、全治一年の怪我が既に完治していたのだから。
どういう訳か人の往来が激しい東京の街中に制服姿で倒れていたことを幽生は聞かされた。
医者が病室を出て行き、静寂の中で独りになる。手を突いてベッドから体を起こし、ふと自分の諸腕に目を落とす。
「……痛くない」骨折していたはずの腕からは腫れと痛みが嘘みたいに消えていた。
信じられないとばかりに腕や手を動かしてみる。その腕には傷痕すら残っていなかった。
異世界のことも、戦いのことも、全てが夢だったのかもしれない……と、思ってしまう幽生。それを確かめるように空色の患者衣を摘み、胸元を覗き込む。その胸には黒い竜の紋章がくっきりと残っている。「これのおかげか……」と、医者が青ざめる治癒力の原因を悟った。
幽生たちを殺し合わせた“神さま”の力に最後まで救われたことを知ると、謝意と嫌悪が交錯して胸焼けに襲われる。
機材が片付けられてガランと広い病室で独り悶々としていると扉が勢いよくスライドして開く。すると、息を切らした女の子が病室に入ってくるなり、幽生の胸に飛び込んできた。
「お兄ちゃん……ごめん、なさい……ごめんなさい……」
「仄、ちゃん……?」胸に顔を埋めてきた仄に目を落とす。
ここは妹が入院している病院と同じ病院なのだと気付いた。
艶やかな黒髪を梳くように撫でる幽生。すると仄は顔を埋めたまま小さな体を震わせて言う。
「嘘吐きなんて言ってごめんなさい……。大嫌いなんて言ってごめんなさい……。消えちゃえなんて言ってごめんなさい……。私のことは嫌いになってもいいから……死なないで。お願いだから……私を置いていかないで。……死ぬのが怖くて嫌だった。だけど……だけど、お兄ちゃんがいなくなるのを考える方が怖くて、辛かった。だから……自殺なんてしないでよ……」
……僕は最低だ。
そう幽生は胸中で呟いた。もう二度と涙を流させないと決めていたにも拘わらず仄を泣かせてしまった。ポロポロと零す涙が空色の患者衣を濡らす。
しかも、妹は自分のせいで幽生が自殺しようとしたのだと勘違いしているようだった。震える小さな体に腕を回して優しく抱擁すると、安心させるために柔和な声音で話す。
「約束したの、覚えてる?」
「……え?」と、幽生の腕の中から涙で目元を腫らした顔を仰向けてきた。
「僕は仄ちゃんの傍にずっといる、って約束。覚えてる?」
「忘れるはずない……。その時に結婚する約束もしたことだって覚えてる」
「だから安心して? 僕が仄ちゃんの傍からいなくなることは絶対に無いから」
仄の潤ませた瞳をジッと見遣る。
「……じゃあ、これからもずっと傍にいてくれるの?」
「仄ちゃんが願うならずっと傍にいるよ。だから、もう泣かないで? ね?」
「……うん、わかった」と、目元を紅潮させながら精一杯の笑顔で頷いてくれた。
「僕の方こそ、ごめん……ごめんね……。僕の命は僕だけのものじゃないんだよね……」
そう呟いた幽生は改めて誓う。仄を悲しませることはもうしない、と。命を賭して願いを叶えようとするのは仄の“想い”を踏み躙る行為だ。自分の命を代償に仄を救うという願いは自分勝手で、独りよがりの我儘に過ぎない。だから、もう幽生は自分の命を安いとは考えない。
自分が死んで悲しむ人もいることを知った。始祖竜が殺されて悲しむエルフもいれば、エルフの青年が殺されて悲しむ家族がいたように。きっと、雨宮ゐるかや佐々木真守たちが消えて悲しむ人もいるはず。しかし、彼らが死んだことには誰も気付かないに違いない。あれは、この世界とは別の遠い世界での戦いだから。
死んだことすら認識されず、誰にも悲しまれずに彼らは死んでいったのだ。
異世界の出来事を思い出し、どこか遠くを見ていると腕の中から不意に仄が話し掛けてくる。
「お兄ちゃんは、神様っていると思う?」
あまりに唐突な質問と、“神様”という言葉に胸がドキリと跳ねた。
「……うん、いると思うよ。宇宙服がお気に入りの神様とか」
「どうして宇宙服?」
つい“神さま”のことを口にしてしまった、と目を泳がせる。
「あ、いや、それは例えばの話。仄ちゃんこそ急にどうしたの?」
「お兄ちゃんが大怪我したって聞いた時に思ったの……。私が酷いことを言っちゃったから、神様がお兄ちゃんを遠くに連れて行こうとしてるのかもしれない、って」
目を伏せた仄は弱々しい声音で言った。
「そっか……。でも、もう大丈夫。僕はここにいるから心配しないで」
と、抱きしめたまま後ろ髪を愛撫する。安堵の表情を浮かべた仄は目を細めると幽生の胸に一層もたれ掛かり、「もう少しだけ、このままいてもいいよね?」と甘えてくる。
「お姫様の望むままに」と、大袈裟に言う幽生。
「私がいいって言うまで頭も撫でて?」
「畏まりました」と、遠慮ない要望に応え、抱きしめたまま艶のある黒髪を優しく撫でる。
すると、幽生の胸の中で目を瞑る仄。眠った子猫のように愛くるしい姿に目を落とし、
「……“神さま”……か」と、ボソリと声をこぼす。
“神さま”は人間たちを遠くの夢の世界に導く神様だったのだろうか、と考えてしまう幽生。それでは神様ではなく、まるで天国へ連れて行く天使みたいだった。
ふと、“神さま”は本当に神様だったのかもしれない、と思ってしまう。しかし、本当に神様だとしても、再びあの“神さま”に縋る気にはなれない。
僕自身を犠牲にして救っても仄ちゃんは喜ばない……。僕が僕のために生きることが仄ちゃんの“願い”のひとつなのだろう。
きっと……自分すら大切にできない奴に、愛する人を大切に想うことはできない。




