024
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情景の変化が乏しい神樹の森で樹々の間を縫い、風を切って翔けていく二頭の黒竜。尾を揺らして逃げる雨宮の後ろ姿を追う幽生。敏速さでは上回っているが、体力が枯渇して思うように距離を詰められず焦燥に駆られる。
すると、先を飛ぶ雨宮は口に“神槍クイーン”を含むと口腔から鱗粉の炎を噴く。魔力を希薄させた紅炎の粒子が後ろに流れ、幽生を呑み込む。咄嗟に身を翻して左に逸れ、鱗粉から抜け出すと同時に爆発する。
『――ッ!』爆風に吹き飛ばされて巨大な幹に左半身を打ちつけた。
意識が揺らぐのを堪え、すぐに巨翼を羽ばたかせる。同じ高度を飛ぶのは危険と判断し、神樹の枝葉が茂る傘のすぐ下まで上昇しながら雨宮を追い翔ける。
彼女を俯瞰して幾多も炎弾を吐き放つが身を翻して躱されたり、幹に遮られたりして命中しない。それでも炎を吐き続けて動きを妨害し、徐々に追い詰めて黒竜の後ろ姿が大きくなる。
視線を上げると天空まで聳える母樹が大きくなっていた。つまり、もう時間も距離もあまり残されていない。そう悟った幽生は胸を膨らませては炎弾を矢継ぎ早に吐き放つ。
『……あと、少し……もう少しで、届く……のに』
この勢いで翔けていけば二分もしないで母樹の根元に着いてしまう。それなのに雨宮との距離はまだ埋まらない。それどころか、このままでは追いつくよりも先に扉に着いてしまう。
『くそっ……一瞬でも、止められたら……』
進化している幽生の敏速さなら、ほんの数秒でも動きを止められれば追いつけるはずだ。しかし、雨宮も必死に逃げている。そんな隙を容易に見せないのは彼も解っていた。皆、願いを叶えるために本気で必死なのだから。故に絶望的な状況に彼は鋭牙を食い縛る。
――その時だった。好機が訪れたのは。
絶え間なく襲われる激痛に意識が霞む状態で闇雲に撃っていた炎弾のひとつが雨宮の先に聳える幹に直撃し、爆発した。すると、みしみしと音を立てて幹が折れ倒れていく。その樹が雨宮の真正面、進行方向から倒れてくる。樹の巨大な影が彼女を覆い、頭上から落下する。
『――ッ!』咄嗟に右に逸れ、倒れくる樹を躱した。
その行動が偶然にも幽生が上空から放っていたひとつの炎弾の射線と重なった。背後から落ち迫る熱と光に気付いて首を振り返らせた時には彼女の背に直撃し、爆炎に呑み込まれる。
『今だ――』
絶好の機会を掴んだ幽生は霞む意識を覚醒させ、巨翼を広げて滑空すると一気に急降下した。
爆炎の中からフラフラとよろめきながら飛び出した黒竜のすぐ真上に迫る。巨翼を広げた彼の大きな影に気付いて首を捻った彼女の首元を左前足で掴む。
『しまっ――』目を剥いて声を漏らした雨宮。
『捕、まえた!』前足から体重を落とすと彼女は体勢を崩し、あっという間に墜落していく。
花々が咲き乱れる地面を抉りながら滑り、動きが止まると首元を掴む左前足で押さえ付ける。
『“槍”を返してもら――』と言い掛けて言葉を詰まらせた。なぜなら、
『うっ……』と苦しそうに呻く、開かれた黒竜《雨宮》の口から黄金の燦爛たる“神槍クイーン”が消失していた。彼女は咥えた後、確かに口に含んだ。しかし、それが跡形もなく無くなっている。
『ど、どういうことだ……? “槍”は……どこに……』幽生は考える。
ここまでの途中で森に捨てた? 奪われるのを恐れて隠したつもりなのか?
『うぅ……かはっ、かはっ……うぅぅ……』
『……』咳込む雨宮の苦しみ方に、ふと違和感を覚えた幽生。
火傷の痛みに悶えているのとは、どこか違う。飴玉を喉に詰まらせた、みたいな苦しみ方である。酷く息苦しそうにしている彼女を見下ろして幽生は思う。
息苦しそう……? その言葉を反芻し、嫌な胸騒ぎが溢れ出す。
『……まさか…………呑み込んだ、のか?』
『か……“神さま”が言ってた……。この“槍”は無限の魔力を与える……って。だから、こんな私でも強くしてくれる、はず……ヴゥッ!』
瞳だけを動かし、自分を押さえ付ける幽生を見遣って言った。
『君はどうして、そこまで力に執着する』
『願いが叶わないなら、せめて強くなりたい……から。……私は……遊佐くんに憧れてたの』
『僕に?』思い掛けない言葉に驚き、双眸に戸惑いを滲ませた。
彼女の言う“憧れ”が異性を想う恋慕の“憧れ”と違うのは解っている。
『ずっと、弱い自分が大嫌いだった。だけど、どんなに酷いことをされても負けない強さを持っている遊佐くんが羨ましくて……羨ましくて……。でも……私が遊佐くんみたいに強くなれないのは解ってる。だから、せめて……力が欲シイ』
押さえ付けている雨宮の全身から突然夥しい魔力が噴き出す。
『何だ――!?』噴き出す魔力が押さえつけていた足を押し上げる。
すると、轟音を鳴らし、地面を割って巨大な樹根が突き出した。撓う樹根を凄まじい勢いで薙ぎ、幽生を吹き飛ばす。避ける間も無く半身に強烈な衝撃を打ち込まれ、花々の絨毯に黒竜の巨体が派手に転がった。
『……ぐがっ……ッ!』
胸の風穴と骨折している右前足の痛みに悶えながらも横転した重い体を震える足で起こす。
何が起きたのか解らずにいると、
『ねェ、遊佐クン、ミたイニ……強ク、なレタかナ?』
雨宮ゐるかの幼さを感じる声に不気味な声を混濁させた言葉が聞こえ、顔を起こして見遣る。彼の双眸に映ったのは雨宮ゐるかであって雨宮ゐるかではなく、黒竜ではなく黒竜ではない。その黒々とした肢体には翠玉色の斑点が浮かび上がっていた。その竜が息を吐くだけで夥しい魔力が漏れている。漂って足元まで流れてきた魔力に触れ、全身に戦慄が走る。
――殺される。その言葉が脳裏を過り、無意識に後退りした。すると、逃がさないとばかりにぐるりと囲むように地面を割って幾多の巨大な樹根が突き出す。巨翼を羽ばたかせる間も無く、あっという間に樹根が絡みついて肢体を締め上げる。
『ぐっ――!』この樹根を操る攻撃に見覚えがあった。
『力さエ、あレば……人間ナんテ、怖クナい……怖くナイ……もウ、怖クなイ』
雨宮がじりじりと近づいてくると共に肢体に絡みつく樹根が凄まじい力で締めつけてくる。
『――――――!!』首を絞められて息を出来ず、悲鳴すら上げられない。
徐々に力が増し、筋肉の繊維がプツプツと切れていく。全身の骨がみしみしと音を立てる。
幽生は確信した。この強大な力は、魔力は間違いなく始祖竜と同じものであると。彼にはこの捕縛を押し返すだけの力は残っていない。まして、逃げ出せたところで始祖竜と同じ魔力を得た雨宮ゐるかを倒して“神槍クイーン”を奪うだけの力は皆無。そう悟った彼の意識が絶望に喰われていく。
彼女がまた一歩近付いてくると樹根が一層の力を込めて締めつけてくる。すると突然、脳裏に映像が流れ込んできた。絞めつけてくる樹根から魔力が、“記憶”が流れ込むのを感じる。皮肉の内側に無数の幼虫が入り込むような気持ち悪い感覚に襲われる。
『ゃめ、ろ……はぃ……っで……ぐ、るな…………やぇ、ろ!』
その幼虫が羽虫となって“記憶”の映像を羽に映し、脳裏に群がっていく。
やめてくれ……。と、幽生は胸中で願う。
もう、見たくない――。
×××
――可愛くて、可愛くて、可愛い私。好きで可愛くなった訳じゃないのに女の子からは嫉妬され、疎まれる。ねえ……可愛すぎると罪になるの?
高校二年生に進級した頃のある日、私は数人の若い男に誘拐されました。どこか暗い場所で男達の情欲に嬲られていると閃光が広がり『カシャ』と音が聞こえ、写真を撮られました。
携帯電話のカメラを向けていたのはB組の桜ヶ丘さんでした。私が思っていた彼女の印象はお嬢様で、こんな酷いことをする人には見えません。でも、私の無様な姿を見下ろす彼女の口は静かに笑っていました。
ふと、思い出しました。数日前、私に交際を申し込んできた男子生徒の恋人が桜ヶ丘さんだったはず。正確には元恋人です。つまり、彼氏の心を奪った私に対する嫌がらせ、復讐なのだと悟りました。
「泥棒猫には相応しい姿ですね。フフフ」と、桜ヶ丘さんは笑う。
すると携帯電話の画面を見せてくる。そこには私の淫猥な姿が映っていました。
「この写真を流されたくなければ私の奴隷になりなさい。可愛すぎること、それは罪なのですよ?」と、彼女は冷然と言いました。
可愛すぎると罪になるの? 私は、普通の女の子として生きることを許されないの?
この時、私が罪人であると初めて知りました。
両親には相談できず、教師にも相談できるはずがありません。もちろん、私には頼れる友達もいません。この“可愛い”容姿にすり寄ってくる男子ならいたけれど、それは友達ではない。
友達……。“普通の女の子”なら友達がいるはずなのに私にはいない。
特別可愛い私は“普通の女の子じゃない”んだ……。
その日から桜ヶ丘さんとその友達の石塚という女子生徒に脅され続ける日々が始まりました。
夜、とある一室で見知らない男性に挨拶をさせられると突然桜ヶ丘さんから売春を命令されました。嫌だと首を振っても聞き入れてくれません。そのまま男性に押し倒された私は抵抗できずに凌辱され、『カシャ』と桜ヶ丘さんの携帯電話によって再び写真を撮られました。
それからも脅され続け、数日に一回のペースで様々な男性の相手をさせられる日々。その度に私の淫猥な写真は更新されていく。桜ヶ丘さんは携帯電話に保存した私のアルバムをまるで懐かしむように眺めている時があります。
石塚さんは私を見下ろし、「アンタには“雨宮ゐるか”って名前を捨てて貰うからー。これからは“ゐるか”って名前で働いて貰うわよ。いいよね?」と、言いました。
「フフフ。まるで風俗嬢みたいですね。お似合いですよ」
そう言った桜ヶ丘さんはお嬢様とは思えない真っ黒な笑顔を見せてきました。
それから“雨宮ゐるか”ではなく、私は“ゐるか”として男に挨拶するようになりました。
知らない部屋で知らない男に嬲られながら私はふと思う。人を奴隷のように扱う少女にすら友達がいるのに、どうして私には友達がいないのだろう、と。
――ある日の朝。昇降口で靴を履き替えようと下駄箱の前に立つと隣では眼鏡を掛けた男子生徒が靴を履き替えていました。クラスメイトの遊佐幽生くんだ。じっと彼の横顔を見ていると目が合う。咄嗟に私は顔を戻し、履いてきた靴を慌てて仕舞います。
学校靴を降ろす。ふと、遊佐くんの学校靴が目に入る。油性マジックで酷い言葉を書かれ、カッターナイフで刻まれた跡のある学校靴。苛められているのは明白です。遊佐くんも解っているはず。それなのに平然と履き続けられるのは、私には無い強さを持っている男の子だから。
私も遊佐くんみたいに強くなれたなら、こんな事にはならなかったのかな……。
「おはようございます。ゐるかさん」と、不意に背後から桜ヶ丘さんの丁寧な挨拶を掛けられ、思わず肩を跳ねさせてしまいました。恐る恐る体を振り返らせた私は、
「あ……うん、おは……よう、桜ヶ丘さん」と、挨拶します。
縦のロールを掛けたツインテール姿の桜ヶ丘さんと、その横にはショートカットで活発な印象の石塚さんも立っていた。毎日一緒に登校してくる仲の良い彼女たちが羨ましいと思ってしまう自分が悔しい。
石塚さんは口元をニヤニヤさせ、「どうしたの? 元気ないみたいだねー。何か嫌なことでもあった? それとも……“お仕事”頑張り過ぎたとか?」と白々しく話し掛けてきました。
“お仕事”という隠語を用いているとはいえ、誰かに聞かれて私がしている“あの事”を知られてしまう恐怖が胸を這い回る。きっと、今の私の瞳は忙しなく泳いでいたはず。
そんな様子に気付いた桜ヶ丘さんは、
「具合が悪いのでしたら保健室までついて行きましょうか?」
猫を被ったように柔和な声で言った。
「……大丈夫、です」俯き、銀色の前髪で彼女たちの視線を遮ると震える声で遠慮しました。
「そうですか? それならいいんですけれど」
前髪の隙間から、ちらりと桜ヶ丘さんの表情を覗き見ると一瞬、ゾッとする嫌な笑みを口元に浮かべる。すると、悪意と愉悦が含まれたその笑みがフッと消えた。視界の端に人影を捉え、すぐ側で誰かが私たちを窺っていたことに気付きました。桜ヶ丘さんはその気配に私よりも早く気付き、猫を被り直したのです。
「私に何かご用ですか?」すぐ側に立ち尽くす誰かに彼女は物腰やさしく言いました。
遅れて私はその人影を横目で見遣ると、
「そこ、通ってもいい?」と、淡々とした声を言い放った遊佐幽生くんが立っていました。
「あら、ごめんなさい」と、後ろに身を退いて道を空けた桜ヶ丘さん。
彼女たちの脇をすたすたと抜けて行った遊佐くんは生徒達が足早に歩く廊下を進んでいく。
「遊佐……だっけ? あいつ、よく学校に来られるよねー」
彼の後ろ姿を眺めながら石塚さんは言いました。彼女の隣に立つ桜ヶ丘さんは、
「そうですね……。あの靴を平然と履いて授業を受けられるなんて、頭がどうかしています」
冷やかな声と瞳を浮かべ、罵詈雑言を書かれた学校靴で階段を上がっていく遊佐くんを目で追います。すると、石塚さんは呆れたような声を漏らす。
「狂った頭にならなくちゃ全国模試で一位を取れないなら、馬鹿になった方がまだ幸せだと思うわ。まあ、それを妬む男子たちも女々しいけどさ」
「世の中どうかしていますね」
そう世界を嘆いた桜ヶ丘さんはスッと私の方を向き直ると、能面のような表情で見つめてくる。彼女の視線が恐ろしく、思わず目を伏せて震える諸手を握ると胸に当てた。
「それはそうと、今日も仕事が入っていますよ。なので、夜は予定を空けておいて下さいね?」
「おじさんが相手だけど、ゐるかは中年も大好きだもんね? そうだよねー?」
冗談を言う石塚さんはクスクスと口に手を当てて笑いました。
「……」私は目を伏せつづけ、息苦しい時間が流れるのを待ちます。
「そういうことですから放課後は一緒に帰りましょう?」
「……」前髪の隙間から桜ヶ丘さんを一瞥すると、
「何か不満かしら?」私の態度が気に入らなかったのか眉を顰めました。
「…………いえ……」奴隷が主人に逆らうことは許されないのです。
不意に私の顔のすぐ横で『バンッ』とスチール製の下駄箱に片手を突いた石塚さんが顔をグッと近づけてきました。すると、周りの生徒に聞かれない声で、
「妬むのは男子だけじゃないだよー? アンタみないな女、アタシは大嫌い。可愛くて綺麗なだけで男から優遇されるのが当たり前みたいなアンタがね」
彼女の指が私の脇をスーッと撫で、曲線を描く。全身に緊張が走り、思わず息を止める。
「この淫らな肉体でそこらの男でも誘ってればいいのよ。それに、男を欲情させるアンタの体を有効活用するためにアタシたちが一生懸命尽くしてあげてるんだからさー。感謝されることはあっても、怨まれる筋合いは無いはずだよねー?」
石塚さんの言葉を否定し、言い返したかった……。だけど、
「……」声が出せずに俯くしかできない。逃げ出したくても足が震えて動きません。
助けて……誰か……。
「アンタに男を紹介して、それでお金を稼いであげてるんだよ? アタシたちに感謝してよねー? あ……それとも、これまでの写真流されたい?」
「……」
私の苦しみに誰も気付かないまま通り過ぎていく。誰も……助けてくれない……。
「それくらいにしておきなさい。人も増えてきましたから、もう教室に行きましょう」
石塚さんの背後で始終口元を微笑ませていた桜ヶ丘さんは言いました。
「それもそうだね。じゃあね、ゐるか。放課後は教室で待っててねー」
顔を離すとわざとらしい笑顔を見せ、手を振ってきました。そうして私から離れて行った彼女たちは昇降口を抜け、談笑しながら廊下を歩いていく。
一気に緊張が解けると止めていた息を大きく吐き、荒い呼吸をする。まだ脚の震えが止まらず、心臓はギュッと握られたみたいに苦しい。
「…………誰か……助けて……」
私の声は誰にも届かず、登校してくる雑踏の足音に呑み込まれていきました。どれだけ苦しくても時間は流れていく。あとどれくらい待てば王子様が助けてくれるのだろう……。
「……早く、助けに来てよ」
いつか現れると信じている“友達”に助けを求めることしか出来ませんでした。
私って馬鹿だな……。
――四時限目。バスケットボールとバレーボールが跳ねる音を響かせる体育館。
体育の授業で女子はバレーボール、男子はバスケットボールをしている。私のチームは見学する順番となり、ステージ前で体育座りをしています。
すると、ボールが跳ねる音に混ざって男子生徒の会話が幽かに聞こえてきました。その方を見遣ると少し離れた体育館の側壁に背をもたれかけて座り込む二人の男子を見つけます。
彼らの少し横に離れた場所に座る遊佐幽生くんが視界に入り、ちらりと見てしまう。すると、遊佐くんと目が合ってしまった。
「!」咄嗟に目を伏せて前髪で顔を隠す。きっと、変な奴だと思われたに違いありません。
また、やっちゃった……。と後悔し、溜息を吐いていると男子生徒達の幽かな会話が再び聞こえてきます。
「そういえば、ゐるかちゃんの噂なんだけど……話したっけ?」
不意に私の名前が聞こえ、ドキリと動揺する。目を伏せたまま思わず耳を傾けてしまいます。自分の噂なんて聞くべきではないと解っているのに、喧騒に包まれた体育館の中で不思議なことに彼らの声だけが鮮明に聞こえてくる。
「他クラスの女子の彼氏がゐるかちゃんに惚れて、その女子が激怒した話なら聞いたぜ?」
私を誘拐した桜ヶ丘さんの『泥棒猫には相応しい姿ですね』と言った姿が脳裏に浮かぶ。
「いや、それ結構古い話だよ」
「違うの? じゃあ初耳だ」
「実は、あのエロい体、頼めばやらせてくれるらしいって噂だ」
「!」ドクンッと心臓が跳ね上がった。破裂しそうなくらい動悸が激しくなる。
どうして……そんな噂が……。嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!
どうしよう……。知らない男に私が夜な夜な嬲られていることが、もし知られたら学校にいられなくなる。両親に知られたら、二人を悲しませてしまう。それだけはしたくない。だけど、どうしよう……どうしたら……。淫売婦だと知られたら外も歩けなくなる。
私の胸に恐怖と不安の濁流が押し寄せてくる。気付けば体が小さく震え始めていました。
「噂だけど、有力な話らしい。あの大人しいゐるかちゃんが実は援交しまくりとか想像するだけで燃えるだろ? 一度頼んでみようかな」
嫌! やめて! そう叫びたくても胸が苦しくて声が出せない。
「確かに、それは惜しい噂だなぁ……」
「それなら一緒に頼んでみないか?」
もう、やめて……。心が叫ぶと共に私は体をギュッと抱きしめる。
「……でも、もし噂が嘘だったら大変なことになるぜ? 本当だとしても、援交をやってるような女だぞ? いくら最高にエロい体だからって性病を移されたらと思うと俺は勘弁だな……」
ぇ……せい、びょう? 性病って……私のこと……?
私の中でナニカが汚されていくような、吐き気にも似た感情が込み上げてくる。
「性病……か。性病は……嫌、だな。それで病院行くの恥ずかし過ぎて死ねるわ」と、男子は笑いながら言いました。
やめてよ……。お願いだから、やめて。私は性病なんかじゃない。違う……。そんな目で見ないで……。病原菌を見るみたいな目を向けないで! 私は……私は、人間なの! 嫌だよ……もう。普通の女の子どころか、私は人間としてすら扱われないの……? もう、嫌……。
腕の中に顔を埋め、震える体を抱き締めることしかできませんでした。
どうして……どうして、こんなことになってしまったのだろう……。私の何がいけなかったのかな? 誰か……助けてよ。誰か、
「…………たすけて……」
ホイッスルの甲高い音が私の小さな叫びを無慈悲に切り裂いていきました。
――その日、王子様かもしれない人と出会いました。
体育の授業を終えた昼休み、男子の先輩から更衣室に呼び出された私はのこのこと出向きます。また交際を申し込まれるのだろう、と思っていましたが何故か更衣室には二人の先輩がいました。援交していることを脅され、凌辱されかけた私を助けてくれたのです。
その人は……クラスメイトの遊佐幽生くん。
私の手首を掴んで体を起こしてくれた彼の手は、とても……温かかった。
――放課後になり、教室から生徒が次々と出ていく。横に目を遣ると、少し離れた席で鞄の準備をしている遊佐くん。
……どうしよう。まだちゃんとお礼を言えてない。でも、何て話し掛けたらいいの? 「そんなに急いでどこに行くの?」とか? いやいや、そんな気軽に話すなんて私には無理!
懊悩していると遊佐くんは鞄を手に、教室を出て行こうとする。
「あ――」と、声を漏らした私は彼の背中を追いかけるために席を離れようとした時、
「放課後だよ、ゐるか」と、横から軽快な声が飛んできました。
いつの間にか教室に入ってきていた石塚さんが私の肩に腕を回してくる。すると、落ち着いた声音の桜ヶ丘さんが小首を傾げながら話し掛けてきました。
「どうかしたのですか? 口が半開きですよ?」
彼女たちの声が聞こえてきただけで一気に動悸が激しくなり、息苦しい感覚に襲われる。
遊佐くんがいた方を一瞥する。しかし、彼は既に教室を出ていて姿が消えていました。
「ぁ……お礼……まだ」と思わず呟いてしまう。
「え? なにか言ったー?」肩に腕を回したまま石塚さんが顔を覗いてきました。
しまった……聞かれていた。
「ぁ、ううん……なんでも、ない」
「まあ、いいや。でさ、なに勝手なことしてんの?」彼女の声音がガラリと冷たく変貌した。
顔は笑っているのに瞳が全く笑っていません。何かに怒っているのだと気付きました。
「ぇ……?」ですが、何を怒られているのか解りません。
すると桜ヶ丘さんは無表情に言います。
「三年の男子生徒二人から更衣室に呼び出されたと聞きましたよ」
二人が何に怒っているのか悟りました。
「わ、私は……何も……」目を伏せた私は前髪で彼女たちの視線から逃れようとする。
「アタシたちを通さずにやられると困るんだよねー。その体はアンタだけの物じゃないんだからさー。私たちの大切な、大切な売り物だってこと自覚してる?」
石塚さんの冷たく静かな声を耳元で囁いてきました。
「アンタは“雨宮ゐるか”じゃなくて“ゐるか”ちゃん、でしょ?」
「でも、お金さえ払えるなら男子を狙って売るのも有りかもしれませんね?」
信じられない言葉を桜ヶ丘さんは口にしました。私は慌てて顔を上げると彼女に訴える。
「そ、それだけは……。学校に、いられなくなっちゃう……から」
頬に冷や汗を滴らせる私の顔が可笑しかったのか桜ヶ丘さんは嫌な微笑みを浮かべます。
「でしたら、その素敵な名前のとおり“ゐるか”は“|海豚”らしく、雌豚のように働いてください。もし、また勝手なことをしたら許しませんよ? ……返事はどうしたのですか?」
私を奴隷のように侮蔑してくる彼女の悍ましい笑みを見た。彼女こそ人間ではなく、悪魔なのかもしれない、と思わずにはいられない恐怖に襲われる。
「……ごめん、なさい」再び目を伏せて俯いてしまう。
「たまに私も怖いと思う時があるんだよねー。悪魔みたいだったよ?」と、石塚さんは苦笑を浮かべると動揺を滲ませた声で言いました。
「あら、そうですか? ありがとう」
「いやいや、褒めてないから」
「そんなことより、そろそろ行きましょう。今夜もお客様が待っていますから」
「今夜も長い夜になりそうだねー、ゐるかちゃん。クフフッ」
ああ、そっか。私は二人の奴隷なんだ……。きっと……これからも、ずっと。
楽しそうに笑い合える二人にように、友達が欲しい。女子には妬み疎まれ、男子には欲情を満たす道具として扱われ、私は普通の女の子になることを許されない。友達になってくれる人はいない。この世界から救い出してくれる王子様はいない。
もう、嫌……。こんな世界から逃げ出したい。神様でも、悪魔でもいい。救ってくれるなら何だってする。だから……お願いします、神様。私を……私を、普通の女の子にしてください。
もし、普通の女の子になれたら、友達が欲しいなぁ……。放課後になったら一緒にケーキを食べに行ったり、洋服を買いに行ったりできる友達。
それから……ちゃんと恋をしてみたい。誰かを心から好きになってみたい。……遊佐くんみたいな強い男の子に恋してみたかった。あ、今のは半分冗談ですよ、神様。
でも、遊佐くんみたいな友達がいたら良かったのに……。男の子が友達でもいいですよね?
そうだ、今度会えたら告白しよう。告白されたことは沢山あるけど、するのは初めて。だから勇気を出して言うの……。
“私の友達になってください”って。
なんだが恥ずかしいね……アハハ。
もし会えたところで、緊張しちゃって上手に言えないと思――。




