021
021
幽生が黒竜に変身し終えるよりも早く、負傷している翼を羽ばたかせた佐々木は透かさず襲い掛かった。変身を終えると同時に、勢いをそのまま乗せた頭突きを脳天に打ち込まれる。
『うぐっ――!』脳髄を揺らされ目眩に襲われた幽生は呻きを漏らした。
特撮ヒーローのセオリーを無視した奇襲を受け、再び記憶の断片が流れ込んでくる。
――念願のマイホームを建てた。仕事から帰れば妻と幼い娘と一緒に食事をする。絵に描いたような温かい家庭を持ち、私は幸せだった……。この幸せは永遠に続くと思っていた――
『――ッ!』流れ込む“|||||想い”に脳を締め付けられ、意識が明滅する。
頭突きの衝撃で上半身を反り、前足が浮いて後ろに倒れかけたのを咄嗟に退いた右の後足で堪える。二足立ちのまま黒竜の体を捻ると黒鋼の鱗に覆われた尾を薙ぎ払う。鋼のように硬い尾を佐々木の側頭部に叩き込み、吹き飛んだその巨体が焦土を舞い上げながら転がった。
『……うぅ……こ、これが……遊佐くんの記憶、か』
幽生の“想い”の記憶が流れ込む感覚に襲われ、苦悶の声を漏らした。彼が悶えている間に前足を下ろすと透かさず大きく息を吸い、胸を膨らませる、
始祖竜との戦いで体力があまり残っていない幽生。しかし、左翼を負傷して満足に飛べない満身創痍の佐々木なら倒せると思っていた。
肺に溜めた魔力を圧縮すると、マグマを思わせる黒炎の砲弾を容赦なく吐き放つ。その黒炎弾を防ごうと無傷の右翼を盾にする。直撃した黒炎が爆ぜると翼は一瞬で無残に消し飛び、全身を火柱が呑み込んだ。
『ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……』炎を吐き終えると、全身を使って荒い呼吸をする幽生。
端から見ても体力が尽きかけているのは明らか。思っていた以上に体力の消耗が激しい黒炎を吐けるのは精々あと一発だと幽生は悟る。幾ら“想い”を魔力に変えられても体力は有限だ。
『うがぁああっぁぁあああぁ!!』
モクモクと黒煙を昇らせる業火の中から猛獣を思わせる悲鳴が聞こえてきた。炎の中で揺れ動く影を見つける。焦げた鱗は剥がれ、炎に包まれた全身を焼け爛れさせる黒竜の姿を。
その業火に呑まれながら佐々木は酷く苦しそうに言う。
『ぜぇ……ぜぇ……うぐっ…………ああ、こんなに愛らしい妹さんがいたら……遊佐くんが引き下がれないのも、納得できる……。私を殺してでも……守りたいほど大切な人なんだろう?』
こんな時でも他人の気持ちを思う佐々木真守という御人好しに少し呆れながらも答える。
『……はい』
『それでも……私は遊佐くんを殺すつもりで“槍”を奪うよ……』
そう言うと、炎と空気が揺らぐ奥で佐々木の両翼が再生していく。
『!』彼の魔力が膨れ上がるのを感じた。
『私も、家族を取り戻す為に、君を倒す!』双眸に覗かせた本気の鋭い殺意。
突然の変化と初めて見せた殺意に畏怖した幽生は咄嗟に胸を膨らませる。炎を吐くよりも早く翼を羽ばたかせて業火の中から飛び上がった佐々木。急降下し、翼を大きく広げて滑空すると風を切りながら一気に迫り来る。撃墜しようと慌てて紅炎の砲弾を矢継ぎ早に数発吐き放つも、身を翻して全てを躱された。
『くっ、ダメか!』幽生は地面を蹴り、巨翼を羽ばたかせて飛び上がると突進を間一髪で躱す。
足下を翔け抜けた佐々木は焦土に四足を突き立てた。地面を抉って勢いを殺し、滑るように体を反転させると後脚部の膝をググッと折る。中空を飛ぶ幽生の背を仰視すると折り曲げた後脚を一気に伸ばし、地面を割るほどの力で蹴り出す。黒い翼を羽ばたかせて飛び上がった佐々木は幽生の背後を取る。
『しまっ――』竜は頭部の側面に瞳があり、人間よりも視野はずっと広い。死角と言える死角は真後ろだけだ。それなのに一瞬でその死角に回られ、慌てて振り返ると視界の端に胸をありったけ膨らませた黒竜の姿を見る。
考えるよりも早く身を翻して躱そうとするが、間に合わず巨大な炎弾を背に撃ち込まれた。炎に呑み込まれると同時に爆発の衝撃に吹き飛ばされ、焦土の地面に激突。起き上がる間も与えず幽生の背や翼に炎弾の雨を降り注ぐ佐々木。
『っ――!!』絶え間なく爆炎を浴び、食い縛った鋭牙の隙間から呻きを漏らした。
しかし、それは痛みに苦しんでいるのではない。進化というか、変異した黒竜の肉体を持つ幽生には僅かな痛みしか届いていない。それでも、どんなに硬質な黒鋼の鱗を纏っていても“想い”は容易くその鱗を貫き、心を突き刺す。
夥しい記憶を流し込まれる不快感に襲われ、締め付けられるように胸が苦しい。自分の心が無意識に拒絶しているのだと幽生は気付いた。ひとりでは抱えきれない“想い”を押し付けられれば、心が嫌がるのも当然である。
三度、流し込まれた佐々木真守の“記憶”が映像となって視界に広がっていく。
――妻との出会いは偶然だった。優しくて美しい年下の彼女に一目惚れしたのだ。
私を愛していると言ってくれた彼女を永遠に愛し続けると誓い、契りを交わしたのは十年前。
結婚してから三年後、ついに二人の命が妻のお腹に授かった。その知らせを妻から聞いた私は翌日の仕事で簡単なミスをしてしまうほど手が付かなかった。父親になる自分が不安であると共に嬉しかったのだ。思わず頬が緩んでしまう。
「先輩――じゃなくて課長、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……いや、ちょっとな……」大学からの後輩である部下の三宅に心配され、妻の妊娠を話すと彼は自分のことのように悦び、お祝いの言葉を掛けてくれた。
しばらく月日が経ち、娘が産まれた夜は言い表せない多幸感に包まれたのを覚えている。産まれたばかりの娘を恐る恐る抱いていると「顔、固まっているわよ?」と妻に言われた。この時、妻と娘の幸せな暮らしを守ってみせる、という“想い”が私の中で一層強くなった――
意識を引き戻した幽生は絶え間なく降り注がれる炎弾を尾で薙ぎ払うと爆音と共に中空で炎が爆ぜた。透かさず体を起こして身を翻すと焦土の地面を蹴り、翼を羽ばたかせて飛び上がる。頭上に広がる爆炎を突き抜け、佐々木との距離を一気に喰らう。佐々木は肺を膨らませて鋭牙の隙間から、ほろほろと炎を漏らし迎撃しようとしていた。しかし、それよりも素早くその長い首に咬み付き、鋭牙を突き刺した幽生。
『――ッ!』佐々木は呻くと共に、首を噛まれ口腔に滞留していた炎が体内で爆発した。
自爆で動きが止まり、口からモクモクと黒煙を上げる彼の首を咬み潰しながら地面に急降下。真っ逆様に佐々木は背から焦土に墜落すると黒い砂塵を舞い上げる。
首から牙を抜いた幽生は右前足で頭部を掴む。その黒竜の頭を持ち上げて浮かせると一気に落とし、地面に打ち付ける。地鳴を立てながら何度も何度も持ち上げては打ち付けた。
『死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで!』と、願うように叫ぶ幽生。
頭を落とされる度に焦土が舞い、揺れる森。陥没し、地割れした地面に打ち付け、また持ち上げようとした時、その右前足を掴まれる。佐々木の諸手、正確には両前足で握られた。
彼は諸足で力一杯に握ると幽生の右前足の骨をボギリッと折った。
『――――――ギッ!!』鋭い激痛が走り、痛みに目を剥いた、
右前足の激痛に悶え、掴んでいた頭を離してしまう。すると、仰向けまま佐々木は左の後足で脇腹を突き上げると幽生を蹴り飛ばす。横っ腹に衝撃を受け、焦土を転がる。
転がった体を起こそうと無意識で足に力を込めると、
『――ッ!』骨折した右前足に鋭利な痛みが走り、巨体は崩れ倒れた。
その隙に佐々木は翼を羽ばたかせると地面の上を翔け、迫ってくる。“想い”を叫びながら。
『教えてくれ……わからないんだ……。私の、家に帰る道がわからないんだ!!』
幽生には彼の言葉の真意を悟ることはできなかった。悲鳴にも思える叫びを上げながら迫る黒竜の双角が変形し始める。叫んだ“想い”と呼応し、成長して更に太く尖鋭に前へ突き出す双角。槍のような巨大な双角の角質が太陽を思わせる灼熱を帯びる。双角を中心に陽炎が揺らめき、輻射熱が幽生の元にまでチリチリと焼けるように伝わる。
あの角に触れてはいけない! と、全身の神経が騒ぐ。鋭牙を食い縛って足の痛みを堪えると崩れていた肢体を起こし、咄嗟に飛び上がる。地面の上を翔けていた佐々木は地を蹴り、頭上に飛び逃げた幽生を襲う。勢いを殺さずに追い迫る灼熱の双角は燦爛とし、眩さと熱さに双眸を細める。視界を潰された瞬間、灼熱の双角が黒鋼の鱗を熔かすと胸から背を貫いた。
『――ぅ』一瞬、何が起こったのか解らなかった。
ジュウッと焼ける音が鳴る。双角に貫かれたと気付いた途端、マグマを体内に流し込まれて臓腑を焼かれているような想像を絶する痛みに襲われる。
『うごぉぉああがあああぁぁぁぁぁあああああがががががががあぁぁぁああ!!』
獣染みた、ありったけの悲鳴を上げた幽生。
鋼鉄の鱗を熔かして貫通してきた双角から発する灼熱が血を沸騰させ、臓腑と肉を焦がし、肋骨の髄まで熔かす。体内の水分が蒸発する音と共に白い水蒸気が立ち昇る。
『――――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイダイ!!』
悶えて体を暴れさせるほど肉を抉られ、苦痛に塗れた悲鳴が森に響き渡った。
体内で爆発を起こしているような激痛と共に灼熱の双角から佐々木真守の記憶が絶え間なく頭に流れ込む。すると、濁流の如く記憶の映像が視界を流れる――
×××
――我が家を建て、妻と娘と幸せな生活を過ごして数年が経つ。元気にすくすくと成長した娘は小学校に入学し、私は異例の早さで部長に就任していた。愛妻と愛娘の幸せを守ることだけを考えて働いていた。だから、家族を守れる地位を手に入れた私は安心していたのだろう。
大切な何かと引き換えに手に入れたものだと気付かない内に……。
帰りが遅くなった私を妻はいつも笑顔で迎えてくれた。罪悪感を覚えるくらいに彼女は優しく、無理をさせていないかとその笑顔が少し心配になる。そんなある日だった……。
部長に就任した年の忘年会で部下の三宅に勧められて酔うまで飲んでしまった。
「佐々木部長は、まだ三十代なんですよね?」
と、テーブルの右斜め向かいに座る若い女性社員、五十嵐が話し掛けくる。
「一応ね。四捨五入したら四十だけど」自嘲気味に私は答えた。
「先輩は、課長の次はもう部長ですか。羨ましい限りです」右隣に座る三宅が言った。
「三宅も上からは期待されているぞ。だから、このままいけば課長を任されるかもしれないな」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
身を乗り出すくらい嬉しそうな三宅を見ていると私も嬉しくなる。
ふと、斜め向かいの五十嵐さんと目が合う。彼女は入社二年目の五十嵐|冬紀。人当りが良い彼女は好評だ。特に未婚の男性社員から。そういえば最近、三宅が彼女に話し掛けているのを見かけた。彼も五十嵐さんに好意を持っているのかも……。などの考えを酔いの回った頭に巡らせていると、あっという間に時間が過ぎ、忘年会は終わった。
幽かな意識を保ちながら私は家に帰った……はずだった。
しかし、目を覚ますと……見慣れない天井が広がっている。家の寝室よりも広い部屋のベッドで背広の上着を脱いだまま寝ていた。そして、何故か隣には妻ではない女性が寝ている。彼女は忘年会で斜め向かいに座っていた五十嵐冬紀だった。
「…………」何が起こっているのか分からない。状況の理解が追いつかない。
ここがホテルであると遅れて気付いた。しかし、意識は混乱するばかりである。すぐに五十嵐を起こし、何があったのか聞いた話は信じられない、というか信じたくない内容だった。
酔い潰れた私が彼女と……。私は……妻を裏切ったのか? そんな、まさか……。ありえない……。しかし、シーツから露わになっている彼女の白い肌が罪の意識を押し付けてくる。その罪悪感から逃げるようにホテルを出ると気が動転していた私は五十嵐に、
「君を弄ぶつもりはなかったんだ。だけど……今日のことは忘れて欲しい」と言ってしまった。
彼女は俯きながら、「そう……ですよね。部長には奥さんがいますもんね……」と、小さな声で辛そうに了承してくれた。
「……ごめん」
「いえ、大丈夫です……。私こそ、すいません」
彼女が謝る必要なんて無いのに、と思いながら私はその場を後にした。
何も連絡せず、朝に帰宅すると妻は事情も聴かずに笑顔で迎えてくれた。だが、その優しい妻の顔を見れなかった……。妻を裏切った私がその笑顔を見ていいのだろうか、と。
それから一週間後の夜。娘が眠ったのを確認した妻から渡された写真を見て私は震えた。
「これが……ポストに入っていたんです」
写真にはホテルから出てくる私と部下の五十嵐冬紀が映っていた。
――翌日、妻は「少し……出掛けてきます」と娘を連れて家を出て行った。そして、数日後に送られてきた離婚届に私はサインしてしまった。当然だ。私は妻を裏切ったのだから……。妻と娘の幸せを守るどころか壊してしまった。
離婚してから一ヶ月。いわゆる愛妻弁当を食べていた私は社員食堂で昼食を取っていた。大企業というだけあって食堂とは思えない質のメニューの数々。しかし、あの日からどんな食事も美味しいと感じない。私の世界から色と香りと味が消え、全てが灰色に見える。
ふと、隣のテーブルとで昼食をとっていた四人の女性社員に視線を向ける。その中に五十嵐冬紀の姿を見つけた。しばらくしてトレーを持って立ち上がる彼女たち。
「五十嵐、少しいいかな? 仕事で頼みたいことがあるんだ」と、気付けば呼び止めていた。
休憩中に仕事の話を持ち出すのは嫌がられるかもしれない。しかし、彼女は目を合わせず、
「はい……」と小さく頷いた。
彼女は同僚たちに「先に行ってて」と言ってから私の向かいへ伏し目がちに座る。
「…………えっと……」思わず呼び止めたけれど言葉が出てこない。
「……どうして私を責めないんですか?」五十嵐が口火を切った。
「え……?」
「私のせいで奥さんと……。それなのに……」
「……きっかけはそうかもしれないけれど、君のせいではない。私がしっかりしていれば、こんなことにはならなかった」
「じゃあ、どうして……」と、声を震わせた彼女は私を一瞥する。
「あの日、私と君に何があったのかを確かめておきたくて呼び止めただけなんだ」
幽かな笑顔を浮かべて私は言った。すると、五十嵐は懊悩するように黙り込んだ。しばらくして彼女は震えた口を開く。
「……私、佐々木部長が好きです。優しくて頼りになって、皆を気遣ってくれる理想の上司だと思っています。……もちろん、男性としても」
「あ、いや、そういう話じゃなくて……」唐突な告白に少しばかり戸惑った。
「だから部長は利用されたんですよ。優しすぎるから……」
「……え?」彼女の言葉に理解が追いつかない。なにを言っているんだ?
「そんな優しい部長が好きです。でも、どうして私を責めてくれないんですか……。怒ってくれた方が、ずっと楽だったのに……。好きな人が苦しんでいる姿、もう見ていられません」
「……それは」瞳を潤ませて俯く彼女に掛ける言葉が見つからない。
「私のせいじゃないって部長はいってくれましたけど、私のせいなんです……」
「いや、それは私がしっかりしていれば起きなかったことで君は――」
「部長を奪えるかもしれないと思ったから……協力したんです。離婚させるために……」
今にも泣き出しそうな声で五十嵐は言った。
……え? と、思いもしない告白に私は言葉を詰まらせる。
「だ……誰が、そんなこと……を」
「部長も知っている人です……」
――五十嵐冬紀から全ての真実を聞いた私は休日の昼間、とある高層マンションの前にいた。宅配業者がオートロックを抜ける際に住人を装って平然と侵入した。必ず会うために。
五十嵐は教えてくれた。責任を取らせて離婚させるために私が不倫をした証拠を撮ったことや、酔い潰れた私を彼女がホテルに連れ込んだこと。酔っていた私は彼女を拒絶し、肉体関係を持たずに眠ってしまったことも聞いた。
彼女に話を持ちかけた奴は言ったらしい。責任感が強く、人を疑うよりも自分を疑う佐々木真守という男は勘違いして罪の意識を持つはずだ、と。私を深く知っていなければ言えない。
しかし、罪を感じていたのは五十嵐冬紀もだった。だから私に全てを告白してくれたのだ。
ピンポーン、と一室のインターフォンを押す。少しすると「どちら様ですか?」という女性の声が聞こえ、「私だ」と答える。すると、
「……どう、して…………」戸惑いを滲ませた声がインターフォン越しに聞こえてきた。
「いきなりで、ごめん。……どうしても真実を知りたくて会いに来た」
「…………すぐに開けるわ」私が全てを知っていると悟ったのか彼女は扉の鍵を開けた。
そして扉を開けて現れたのは私の妻だった。いいや、正確には元妻である。
「……ぁ……」彼女は言葉を迷っているのか口を開いては閉じてしまった。
「沙織はいる?」私は娘について尋ねた。
「……い、今は……お友達の家に……」
「そうか、ならよかった」これ以上娘の沙織を巻き込みたくないと考えていた私は安堵していると、不意に聞き慣れた男の声が元妻の背後から聞こえてくる。
「……先輩……どうして、ここに」
と、玄関から伸びる廊下の奥から姿を見せたのは大学からの後輩で、部下の三宅だった。
「本当だったのか……」
五十嵐と不倫させようとしたのは妻と三宅の二人であった。
その始まりは、結婚してからも仕事ばかりをしていた私。子供が欲しい妻は気持ちを隠し、夫である私を毎日見送っていた。順調だった仕事を邪魔したくない、という彼女らしい優しさ故に。そんなある日の夕方、買い物帰りの妻は偶然に街で三宅と会ったらしい。結婚式で見掛けた三宅を顔だけは覚えていたけれど、その時は挨拶するだけで何も無かった。
しかし、三宅は妻に密かに好意を抱いていたらしい。一度だけ三宅を家に連れてきた時、二人は連絡先を交換していた。それから妻と三宅は時々会っていたことを告白した。
私を家の中に入れて貰うとテーブルを挟んで二人と向かい合い、その話を聞いた。
「……じゃあ……まさか、沙織は……」
私は恐る恐る尋ねると妻は消えそうな声で答える。
「…………彼との子よ……」
「……そう、か」五十嵐から二人が同棲していると聞いた時、その可能性を想像していた。
覚悟はしていたつもりだが、真実を聞いた途端に私の中の何かが崩れ、消えていくように全身から緊張が失せていく。しかし、不思議と憤りは生まれなかった。
「そんなつもりじゃなかったの。真守さんが私を大切にしようとする気持ちは伝わってた。だけど……それだけじゃ嫌だった。不安で……家で独りでいるのが不安だった。そんな時、彼とまた街で会ったの……。彼は私の不安を聞いてくれて……それから時々会うようになって……」
妻のためだと思って仕事ばかりしていた私は彼女の気持ちに気付いていなかったのか。毎晩、笑顔で迎えてくれていた妻が夜遅くまで独りで不安に脅えていたのか。妻のためだと勘違いし、傷つけていたとも知らずに私は……。
「……」テーブルに目を落としながら耳を傾け続ける。
「真守さんの子じゃないと知られたら真守さんだけじゃなく、娘の沙織まで失う。自分勝手なのは解ってる。でも、そうなってしまったらって考えるだけで怖くて……怖くて……」
声を震わせる彼女を庇うように三宅は言う。
「それで俺が言ったんです。先輩が不倫したことにすれば離婚しても娘の親権は守れるはずだと。離婚すれば娘の正体を知られる不安も無くなる、って」
……“娘”か。と、私は胸の中で呟いた。
「……そう、だったのか」
「怨むなら俺を怨んでください! 俺が、先輩の奥さんだと知っていながら声を掛けたんです! だから――」
「……ごめんな」と、私は目を伏せて謝った。
「せん、ぱい……?」
「…………ど、どうして……真守さんが」
「私がしっかりしていないばかりに、君を苦しめてしまった……。気付けなくて……ごめん」
伏せていた目を起こすと、
「どうして……どうして、いつも優しいのよ……」
彼女の涙を初めて見た。その雫を見た私はどんな言葉を掛けていいのか分からなかった。
すると、一滴の涙を滴らせて苦しそうな声を漏らす。
「こんな時ぐらいは、怒ってよ……お願いだから。優しくされたら……真守さんを好きでい続けちゃうじゃない。どうして……こんな私に優しくしてくれるのよ……」
「……ご」めん。と、出かかった言葉を呑み込む。私がいても彼女を傷付けてしまうだけだ。
そう悟った私は静かに立ち上がると、俯いた三宅に言う。
「彼女と沙織を頼む。それじゃあ……もう、行くよ」そう言い残してその場を後にした。
マンションを出た私は淡々と歩き出す。自分がどこに向かっているのかも分からない。
「……あれ……私の帰る家は、どこにあるんだっけ?」
帰る場所……? 私には初めから家族がいなかったのだ。それなら、どこに帰ればいいんだ? 私の帰る場所は……どこだ? わからない……わからない…………私の家に帰る道が、わからない…………。
ここは、どこだ? 私の家族はどこに? ……誰か……誰か、教えてください。
携帯電話を取り出した私は110番を掛けると、
『私は“神さま”です。ピーという発信音の後に、あなたの願いを入れてください』
無機質な声が聞こえてきた。その声に縋りつくように言う。
“神さま”……教えてください。私の家族はどこですか? 妻と……彼女と出会ったあの日に戻してくださいませんか? ……もう、誰も不幸にしたくない。彼女を悲しませない生き方をやり直したい。そうすれば三宅も、五十嵐も苦しまなかったはず。
だから……“神さま”。私に……家族を取り戻すチャンスを私に下さい。
往来の真ん中で携帯電話を耳に当てて私は天を仰いだ。そして、
『その願い、私が叶えてあげましょう』
私は“神さま”と繋がった――。




