011
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日は完全に落ち、洞窟の中は真夜中の闇に沈んでいる。唯一、滝のカーテン越しに差し込む月明かりだけが洞窟の口を照らす。明かりが届かない最奥では宇宙服が岩の上で項垂れている。“神さま”はピクリともせず、一向に起きる気配を見せない。
洞窟の中で皆それぞれの距離を保って休んでいる。しかし、眠ろうとする者は誰もいない。岩壁に凭れて座り込む幽生もとてもじゃないが眠気が湧かずに目を伏せていた。
ふと、緩慢に立ち上がった彼は洞窟の外に出る。
滝の裏を通ってから滝壺沿いを歩いていると月が浮かぶ星空を仰ぐ。
「こっちの世界には月が二つもあるのか……」と、溜息を吐くように呟いた。
大小二つの月や、神樹の森などの自然には異世界が溢れている。
「……もしかしたら、二つに見える何か魔法みたいな自然現象があるのかも?」
滝壺の水面に映る二つの月。ここは現実でありながら現実離れしている。そんな不思議な感覚に襲われるのが心地良い。
「ゆ、遊佐……くん?」
先方の暗闇から唐突に聞こえてきた声。目を凝らすと滝壺を囲む岩場に立つ人影を見つけた。
「……雨宮さん?」
白銀の髪と碧眼を月明かりに輝かせ、その姿はまるで異世界の妖精。思わず見惚れて幽生は足を止めた。異世界で見た風光明媚な情景よりも、今の雨宮ゐるかは美しい。
幽生よりも先に洞窟を出ていた彼女は普段通り目を伏せると、瞳の輝きは消え失せた。それを残念に思った彼は「ぁ」と声を漏らす。
「えっと……」正気を取り戻し、彼女に何を話し掛けたものかと逡巡していると、
「あ、あの……!」と、普段のオドオドした雨宮らしくない、しっかりした声を上げた。
「あの……この前は助けてくれて……あ、ありがとうございます」
「……えっと……もしかして昨日のこと?」
「うん。更衣室で助けてくれた時の……お礼、まだちゃんと言えてなかったから……」
昨日の昼休みに男子更衣室で三年生の男子生徒二人に暴行されていた所を已む無く助けたのを脳裏に回想させる。しかし、あれは……。と幽生はしばらく言葉を詰まらせてから、
「お礼を受け取る資格は僕には無い。始めは君を助けようとは思っていなかったんだ。看過できない理由ができたから割り込んだだけで……。だから僕は君を助けた白馬の王子様でもなければ、ただの人でなしだ」
「……ぁ……ぅ」困ったように目を泳がせる雨宮を見て後悔した。
なけなしの勇気を振り絞った彼女の好意を無下にしてしまった。昨日と同じだ。また酷いことを言ってしまったと目頭を押さえ「またやっちゃった……」と呟く。
また女の子を悲しまてしまうのか? 仄ちゃんに涙を流させて、次は雨宮さんを――。
「でも……わざわざお礼を言ってくれて嬉しいよ。ありがとう」
気付いた時には彼女にお礼を口にしていた。
「……うん」短い返事だったけれど、どことなく声は弾んでいた。
「……」さて、どうしたものかと目を逸らして懊悩する。何か話し掛けるべきなのか、それとも踵を返して洞窟に戻るか。しかし、それでは眠れない気分を晴らすため外に出た意味が無くなる、と後者の選択肢は消え失せる。そう進退に逡巡していると、
「…………と、ところで……眼鏡は、大丈夫なの?」
初めは何の話か分からず小首を傾げていると、幽生は気付いた。眼鏡をしていないにも拘わらず視界が霞んでいないことに。黒竜に変身した際に壊れて失くしたきり、“神さま”に眼鏡を創って貰うのも忘れていたのを思い出す。
「言われてみれば視力が回復してる? もしかして……これも竜の力が影響しているのかも」
「……そう、なんだ」
「多分、だけどね」
「うん……」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が君臨する。雨宮はこの場を離れる素振りも見せず、顔を上げて星空を眺め始めた。すると、再び碧眼が月明かりに照らされて輝く。
気まずさを誤魔化すために仰いでいるのかと一瞬思ったが、普段なら前髪で顔を隠して目を伏せる彼女が顔を月明かりに晒している。そうさせる何かが星空にはあると悟った幽生も仰ぐ。
そこにあるのは二つの月と、満天に爛々とする星々。
「もしかして、星が好きなの?」
「ぇ……あっ、うん。小さい頃から……星を見るのが好き、なんです。……よくお父さんと見に行きました」と星の話題になった途端に言葉が増え、本当に好きなのだと声音が語っていた。
緊張していた雨宮は表情を和ませて「それに……」と言葉を続ける。
「どこの世界でも、綺麗な星空が見られるんだって知れて……少し、安心しました」
「……どうして?」
「もし死んじゃって、別の世界に生まれ変わっても……綺麗な星空が見られる、から……」
星空を見上げているはずの彼女の碧い瞳は、星よりもどこか遠くを見ているようだった。
「……“神さま”が言ってたでしょ。僕たちの願いはまだ破れていない、って。だから……この戦いが終わって願いを叶えたら、きっと星空よりも幸せな世界を見られるよ」
「だと、いいな……」
「……ちょっと、臭いセリフだったかな」
「……うん」素直に頷いた雨宮ゐるかの瞳は幽かに笑っていた。
「……」
「……」
再び沈黙が支配した。星空を眺める彼女の姿に幽生は横目を遣る。銀髪と碧眼を月明かりに爛々とさせる妖精にしばらく目を奪われていた。しかし、ついさっき見せた微笑みは消え失せ、笑みを覗かせることは無い。
「……無理してる?」幽生は藪から棒に聞いた。
「ぇ……な、なにをですか?」星空から視線を下ろし、彼を一瞥する。
「男の僕といたら怖いんじゃないないかな……って」
「……それは……」
「実は、雨宮さんの噂を聞いたことがある」
そう告白すると彼女の表情が凍り付いた。
「真偽は知らないけど、その噂のせいで男子からは酷い言葉を言われたり、嫌な視線を向けられたりしているのは知ってる。だから、更衣室で……」
「……」苦しそうに俯くのを横目に言葉を続ける。
「あんな思いをすれば男嫌いになったり、男性恐怖症になったりしても不思議じゃない」
「…………そう、ですね。……男の人は怖いです」
やっぱりか、と小さな溜息を吐く。強姦未遂まで体験しているんだ。怖くない方がおかしい。男の僕がいたら折角の天体観賞を楽しめないに違いない、と幽生は思った。
彼の考えていることを悟った雨宮は俯きながら言う。
「で、でも……遊佐くんなら、大丈夫です」
「ああ、ごめん。本人の前で『怖いです』なんて言い難いよね」
樫之幽花と交わした会話の記憶の中に、『怖い』と口にしている自分をふと思い出す。それを棚に上げて言葉を続ける。
「すぐ戻るつもりだったから僕はこれで――」
「ち、違うんです」踵を返した幽生を慌てて呼び止めた。
制服のスカートをギュッと強く握った彼女は言う。
「私は……男性よりも、女性が怖いんです……。理由は言えないけれど……だから…………」
「……」誰にも言えないナニカを抱えている、その苦しそうな態度をじっと見遣る。
ふと、思い出す。火傷を負った顔を覗こうとした樫之が近付いた際に酷く脅えていたのを。彼女が命を賭しても叶えたい願いと何か関係があるのかもしれない、と悟った。しかし、あまりに苦しそうな彼女を前に、踏み込む気にはなれなかった。
なにより、これ以上苦しい記憶を掘り返したら綺麗な星空が勿体ない。
「……じゃあ、もう少しだけ見てから戻ろうかな」と、踵を返した足を戻すと星空を仰いだ。
その時、視界の端に映った彼女の横顔は、酷く哀しげだった。
「……うん」
少女の儚い声は滝の音に呑みこまれ、届くことは無かった――。




