01.スパイ訓練
真冬の十二月初旬。
北極星が美しく輝く時分、高校生の紅山仁は刺激的な出会いを迎えることになった。
「いってきまーす」
「はいよー、しっかり勉強してくるのよー」
その日の朝。
同居人である母、香織に別れを告げ、仁はいつも通り高校へと向かった。
冷気で肌が痺れる。白い息を吐き、一般の高校生と同じように登校する。
違和感があるとすれば、それは都市の景観だろうと思う。
オフィスビルや高層建築の奥、はるか先に巨大な黒い壁が見える。
都市全体をぐるりと円状に取り囲む全長五十メートルに及ぶ分厚い壁が、平凡なはずの日常において、異様に目立つ存在となっていた。
「なんだか巨人が襲ってきそうだよな、あの壁」
見慣れた景色を眺めながら、独り言を呟く。
無論、壁の向こうに広がるのは普通の日本の情景で、モンスターが住んでいるわけではない。
さらに上空はドーム状のバリアが張られている。原理は非公開とのことだ。
この不可解な壁と結界のおかけで、街の名はいつしか要塞都市ソサエティへと変貌した。
「おはようございます」
校門で教諭に挨拶し、人工的な空を背にして校舎へと入る。
ソサエティに住む人々の生活は思いのほか普通だ。
突如出現した壁に世界が沸いたのが二十年以上前のこと。
今や市民たちも慣れたのか、壁と結界を気にもかけない。
仁も例外でなく普段通り授業を受け、花のない学生生活を送るほどである。
「あー、美少女でも降ってこないかな」
単調な日々に不満を漏らす。今日はバイト先の模型店も休みで、率直に言えばヒマだ。
「仕方ねえ、本屋で雑誌でも買うか」
その日の放課後、彼は繁華街の本屋を訪れた。
クラフト系の月刊誌を購入するのが目的だったが、途中で一八禁コーナーを執拗に窺った。男子なら当然の行動である。
そして本屋を出て、ボーッとどこに寄ろうか考える。
丁度その時だった。
交差点の人ごみの中に、一人の銀髪の少女が見えた。恰好は黒のレザージャケットにジーンズというボーイッシュというか、気合の入った風体の美少女だった。
(外人かな? ……ん?)
目を引くような容貌だが、ふと異変に気付く。
彼女のジャケットに、何やら赤い斑点みたいなものが蠢ている。
まるで映画やアニメで見た、狙撃手が狙いを付けるレーザーポインタのようだ。
悪戯か何かだろう? 平和な日本でまさかね。
一笑に付したい所だったが、ポインタは彼女の頭部へと移動していく。
仁はそれを見て、気づかぬ間に駆け出していた。
引っ込み思案の彼にとって、この勇気はどこから出てきたのか。
今思い返しても全く分からない。中二病を拗らせすぎたのだろうか?
とにかく彼は撃たれる瞬間まで、少女を守ることしか考えていなかった。
それが全ての始まりだった。
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「まあ、あなたの行為に意味はなかったのですが」
「……辛辣やね」
銀髪少女パメラは、あっさりと仁の勇気ある行動を切り捨てた。
彼ら二人はだたっ広い大学の講義室のような空間に居た。
長椅子に腰かける仁は、対面から見下ろすパメラに抗議の声を上げる。
「せっかく身を挺したというのに、そのセリフはないのでは?」
「気持ちは有難いです。でも私は対物ライフルで撃たれても、一発や二発なら耐えられます。7.62mm弾なんて大したことありません」
「おいおい、戦車みたいに固くて分厚い体をしてるの?」
「怒りますよ?」
「お前が自分で言ったんだろうが!」
ツッコむと同時にテーブルを叩き、机上に並べたネジが揺れる。
「銃は精密機械です。部品一つでも無くしたら、動作しませんからね?」
パメラは拳銃のスプリングを手に取り、釘を差す。
仁は天使の下で例の訓練を受けていた。
暗殺者に狙撃された以上、身を守る術を体得しなければならないらしい。ぢょうど今は拳銃の分解と組み立てを行っていた。
扱う拳銃はコルトM1911MA、通称ガバメント。
一九一一年から八五年までアメリカ軍の制式拳銃して使われた名銃だ。部品点数は約60ほど。
「なんで拳銃を分解せにゃならんの? やるなら射撃訓練だろ」
「ダメです。扱う武器の構造や手入れ方法を知らないなんて、言語道断です」
「いやでも無理だもん。俺はただの高校生だもん」
「駄々こねない。それにあなたはこういう物に興味があると聞いていますが?」
パメラの台詞にぬうと唸ってしまう。確かに本物の拳銃を扱えるというのは、少々男心をくすぐる。
何というか、彼の中二病がざわめき出す。
「クソ静まれ、我が闇の人格よ」
「え、何を言ってるんですか?」
このようにパメラ教官の下で、仁はマンツーマン指導を受けていた。
都市内に秘密裏に建造された養成所。そこで訓練は行われ、すでに三日が経過している。
武器の取り扱いの他、格闘術に関するものも教程にはあった。
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「近接格闘術は護身術の基本ですし、その過程で体も鍛えられます」
場所は講義室ではなく、武道場のように畳の敷かれた部屋で行われた。
二人とも白の胴着に着替え、対面になって訓練を行う。
「俺は何を習うんだ? イスラエル保安部隊のクラウマガとか、ロシアの軍隊格闘術システマは……わたし、気になります!」
「指導するのは中国武術です。日本的に言えばカンフーでしょうか?」
「へえ、当然組み合って訓練するよね?」
「そうですね。体を動かさなければ、覚えられるものではないですから」
「OK。早速やろう」
「随分とやる気ですね。良い傾向です」
パメラは思春期の男子に疎いらしく、彼の鼻息の荒さに気付かない。
これは千載一隅のチャンスである。灰色の青春に、力づくでピンク色の花を咲かせる。
ラッキースケベは努力する者の下に訪れると、おじいちゃんも言っていた。
「あああああああああああ!!」
主張の激しい彼女の胸元に向かい、奇声を上げて特攻する。
「はあ!」
視界から消えたと思った時には、強烈な手刀が腹に叩きこまれていた。
初心者相手に何考えてるの? この戦車女、手加減って言葉を知らないのか?
真っ白に燃え尽きた仁は、畳の味を知る羽目になった。
このようにカリキュラムには戦闘訓練が数多く含まれていたが、それ以外に諜報機関らしいものも存在した。
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講義室ではメッセージのやり取りに使う、暗号作成と解読が実施された。
「暗号帳(OTP)を使用して、暗号作成とその解読を行いましょう」
暗号帳とは数列がランダムに書かれた表が一綴りなったものだ。
二冊しか同じ物は存在せず、送り手が法則に従ってメッセージを暗号化し、受け手は逆に解読するというもの。
護身とはかけ離れた分野の授業に、仁は不満を露わにする。
「あのさ。戦闘訓練はまだしも、何でこんなスパイみたいなことまでやるの?」
「我々の組織は諜報を生業としており、別名秘密情報部と呼ばれています」
スパイや諜報という中二病的な響きに、彼は驚きの声を上げる。
「ええ? 俺は本当にスパイになるの?」
「そうではありません。ですがあなたを狙撃したのは他の諜報機関の者です。となれば、諜報員がどういうものか知る必要があるでしょう?」
「そうなのか? ……いや、そうなのかも」
今イチ納得いかないが、諜報員という響きは悪くない。
映画のスパイと言えば、拳銃とスーツで身を固め、美しいヒロインを伴って悪を挫くのが常である。
『ウォッカマティーニ、ステアせずにシェイクで』と言えば、もはや完璧だろう。
「ヤバいわ。コードネームを考えきゃ」
これは日頃鍛えた妄想力が試される。
例えば闇の翼は安直だろうか?
13という数字も入れたいし、ジャッカルとかグレイフォックスとかも良い。
カルロスやヨハンみたいな、神話や歴史の登場人物から持って来るのも一興だろう。
ブツブツと妄想を垂れ流していると、パメラは苦言を呈した。
「今やっている訓練はあくまで護身用です。一応言っておきますが、秘密情報部はあなたを作戦に起用するつもりはありません」
「おいおい、水を差すなよ。テンション下がるわ」
「あなたはあくまで庇護されている身なのです。大人しく訓練を修了すれば、多少なりとも自由になります。それまで我慢してください」
一向に硬い態度を崩さないパメラ。
ここ数日過ごして分かったが、彼女はとてもルールに厳しい。まさに鉄の女なのだ。
せっかく銀髪美少女に生まれたというのに、非常に勿体ない。
おまけにその甲斐あって、仁は養成所から一歩も外に出られないでいた。
「ねえ、ちょっとくらい外出させろよ。これじゃ刑務所だよ」
文句を垂れるが、やはり彼女は首を横に振る。
「外は安全が保障されていません。暗殺者の手がかりが掴めるまでは許可できませんね」
「そうは言うけど、母さんが心配するんだよ。せめて電話ぐらい良いだろ?」
流石にここに来て数日、母親と連絡が取れていないのは不味い。
母子家庭にある仁からすれば、母のことを心配して当然だった。
「お母様については我々が対応しています。学校やバイト先についても問題ないです」
この話を持ち出すと、決まってこのセリフが返って来る。
自動応答じゃないんだから、もう少し応用を聞かせろ。語尾にニャンぐらいつけろと思う次第だ。
パメラは話は終わったと断じ、今日の訓練終了を告げた。
「それではまた明日。朝食後、八時半にここへ戻ってきてください」
「はあ、分かりましたよ先生」
彼女は銀髪を揺らしながら、部屋を出て行った。
こうなって来ると、逃げようと考えても無理からぬことである。
大人しくしているのは性分ではない。よし、逃げるぞ。
講義の後片付けをしながら、さっそく脱出計画を練ることにした。
※Colt M1911A(通称:ガバメント)
作中にあるように、アメリカを象徴するセミオートピストルです。
74年にもわたって正式拳銃の座を守り、今でも様々なモデルが出ているほどの名銃。
敵を行動不能にする指標『ストッピングパワー』を前提に考えられ、
45ACP弾という直径の大きい弾薬を使用します。
アメリカの方は好きでしょうね、こういうの。
まさにパワー万歳!!
※『ウォッカマティーニ、ステアせずにシェイクで』
スパイ映画の金字塔、007シリーズでジェームズ・ボンドが言う決め台詞です。
正直、意味もなく注文してみたい。
お酒弱いですけど……