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 私はいつものように夕方、お風呂を沸かすために庭に出た。そして、いつものように裏庭を回り、庭の端にある薪置き場まで行くと、そこから薪を何本か手に取り、いつものように本堂の角を曲がって、お風呂場の裏手に向かった。それは本当にいつもの日常のいつものことだった。

「あっ」

 本堂の角を曲がった時だった。いつも唯が座っている石垣の上で何かが倒れているのが見えた。私はものすごく嫌な予感がした。

 ドキドキと興奮とも不安ともつかない胸騒ぎが私の胸の内を覆っていく。ゆっくり、私はその何かに近づいて行った。いや走っていたのかもしれない。ただそれがスローモーションのようにゆっくりと見えていただけなのかもしれない。

「唯っ!」

 それは唯だった。どこかで予感していた現実が目の前に現れる、私の全身が震え、足の力が抜け、崩れそうになる。

「唯、唯」

 私は直ぐに駆け寄って唯を抱き上げた。その首筋にハチに刺された赤く大きく腫れた跡があった。

「唯、唯」

 何度叫んで、何度揺さぶってみても唯はピクリとも動かなかった。静かな唯の体の重さがダイレクトに私の腕にのしかかった。

「唯~」

 唯は死んでいた。

「どうしよう。どうしよう。唯が死んじゃった」

 私は泣いていいのか、叫んでいいのか、悲しんでいいのか、完全に錯乱していた。

「唯~、唯~」

 いくら私が叫んでも、唯はあどけない表情のまま目を開ける事はなかった。


「・・・」

 いつも死は突然やって来る。兄の時もそうだった。電話が一本あって、病院に行くと、兄はもうすでに死んでいた。それは容赦なくなんの躊躇もしてくれない。それはいつも決定した絶対的な結果として冷酷に私の目の前に突きつけられる。

 死は、囲まれた逃げ場の無い鋼鉄の分厚い壁を殴っているようなそんなどうしようもないゆるぎない絶対的な圧倒だった。それでも私は必死でその鋼鉄の壁を殴るのだけれど、壁はびくともせず、かすり傷すらつかず、厳然と無言で笑い続ける。殴っても殴っても傷つくのはいつも私で、私はその壁の前に泣きながら無残にひれ伏す。

 通夜と葬式は私と和尚さんだけでやった。一度お寺に警察の手入れがあった時、唯だけは家族も親戚もおらずそのままになっていた。

「警察なんていい加減なもんさ」

 和尚さんが誰とはなしに呟いた。

「・・・」

 私と和尚さんは唯の遺体を前に、二人で静かに座り続けていた。線香の細い煙だけが、静かに揺れていた。

「あいつはここに来た時、靴下が履けたって喜んでいたよ」

 和尚さんが言った。

「靴下ですか」

「今まで靴下を履いたことがなかったらしい」

「・・・」

 私は唯の無邪気な笑顔を思い出した。唯はいつも何があっても無邪気に笑っていた。

「人は死んだらどうなるんですか?」

 私は唯の遺体を見続けながら訊いた。

「それは死んでみなければ分かりません」

「生きるって一体何なんですか・・、一体・・、これじゃあんまり・・」

 唯がかわいそうだった。私はなんだか分からないけど、悔しかった。こんな人生ってあっていいのだろうか。こんな悲しい人生があっていいのだろうか。

「唯はまだほんのちょっとしか生きていないじゃないですか。私なんかより全然生きてないじゃないですか」

「唯はお前と同い年だ」

 和尚さんが言った。

「ええ!でも・・」

 私は和尚さんを見た。唯はどう見ても中学生くらいだった。

「ろくに飯も食わせてもらえなかったんだろう。ここに来た時から妙に小さくて痩せていたよ」

「・・・」

 私は目の前の布団の中で横たわる唯の小さな遺体を見つめた。

「唯の生きた意味ってなんなんですか」

 私の目に、涙が溢れて来た。

「唯の人生って一体何だったんですか」

 私は湧き出すあまりに理不尽でやるせない感情を絞り出すように言った。それは私の生きる意味でもあった。

「・・・」

 和尚さんは何も言わず私の言葉を聞いていた。そして、無言のまま突然立ち上がると、本尊の後ろに回り込み、そこで何事かガサゴソとやり始めた。そして、きれいな紺色の布にくるまれた何か長方形の物を持って、再び私の前に座った。

「ここに百万円あります」

 和尚さんはそう言って、それを本堂の床板の上を滑らせるように私の前に置いた。

「あなたはインドに行きなさい」

 和尚さんは静かにそう言った。

「・・・」

 私もなぜかその時、インドだと思った。

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