序章
サンサンと光り輝く太陽、キラキラと光る海!
陽気な人々に囲まれて、毎晩歌って踊ってのパーティアイランド!
こんなに素晴らしい場所が地球上にあるなんて! ……それに対してここは。
仕事の帰りに旅行代理店でもらってきたパンフレットから目を上げると、そこには現実世界が広がっている。
「はぁー、なんとこの世は夢の無い事か」
真っ白い壁には一切の装飾が施されておらず、唯一あるのはシンプルに丸い形の壁掛け時計。
俺が座っているソファーと同じ色をした黒いテーブルの上には仕事場から持ち帰ってきたお土産、もといやり残した資料が束となって置いてある。
その向こうにあるテレビの画面に『政治、またもや不安定の見込み』の文字が大きく出ているのを見るのは何回目になるだろうか。
思わず目を背けたくなり、手元に目をやる。
「フィリピンかぁ〜、良いな〜、行きたいなぁ〜!」
……そうだ五分、五分でいいからフィリピンに行こう。想像力をフルに働かせれば、気持ちだけでもフィリピンへ行けるはずだ。
まず目を閉じて、エメラルドグリーンの海を心に描こう。その次にはおいしい果実、マンゴーとか良いんじゃないか?
ビーチに座ってマンゴージュースを飲むんだ。
一口味わえば喉からはじけるような味わいが広がっていく。
そしたら次にはいよいよ熱くなった肌を冷やすためにいざ海へ――。
「お兄ちゃん、何してるの?」
イメージが最高潮に達しようとしたまさにその時、聞き慣れた一つの声によって俺の意識は日本のとあるリビングルームまで引き戻された。
「奈美……人がせっかく楽しんでいたところなのに」
そう言う俺をよそに奈美、我が妹はニタニタと笑っていた。
「お兄ちゃん、またモーソーなんてしてたの? しかも……」
奈美の薄茶の瞳が俺の手元へと向く。
「フィリピンとか今どき流行んないって!!」
「フィリピンバカにすんなよ! タガログ語だって学んでる――」
「タガログ語とか使えない言葉を学ぶより、アタシみたいにもっと有益な言語を話せるようにした方が良いと思うけどなぁ〜? お兄ちゃん、英語もロクに話せないじゃん」
西城奈美、今目の前で仁王立ちしているこの女は大学三年生にして七カ国語を話す事が出来る。我が妹にしては、というと悔しいが確かにコイツは俺には無い知識をたくさん持っている。そのせいで今のように見下されているのだが。
「俺は日本人だから良いんだよーっだ。ちゃんと働いてるんだし、文句無いだろ?」
「わっ、まだそんな古くさい考えなの? 生きてる化石じゃん! そんな人がよくあの仕事出来てるよねぇ」
「それは関係な――」
反論しようとしたその瞬間。
「昔々あるところで起きたとある物語。その中に貴方をご招待しましょう……」
そんな声が聞こえたかと思いきや、キラキラとした神秘的な音楽がテレビから流れてきた。
「おとぎの国に偉大な冒険、トビラを開ければそこは夢が現実になる場所。Once Upon å Time絶賛稼働中!」
画面の中では大きな金の懐中時計を首にぶら下げた二足歩行の白ウサギが、真っ白な中を右往左往していた。
Once Upon å Time……日本が国を挙げて作り上げた超弩級アミューズメントパーク。ゲストはそれぞれの世界でいわゆる『おとぎ話』を実体験できる仕組みとなっている。
ただ登場人物になりきるのではなく、既存のストーリーにゲストが交ざる事から少し違った展開が用意され、それを登場人物たちと共に解決するのが目的で、それが面白さとなっている。
規模の大きさ故、完成して五年が経つのに最終ステージへ行けた者は未だ一人もいない。
「どう? 自分が働いてる所がCMで流れる気分は?」
奈美が羨ましそうな声を上げる。
「なんでお兄ちゃんみたいな人が、あそこで働けるわけ!?」
想像力が要求される仕事だからな、俺には打ってつけだろ?」
胸を張って返す俺を奈美は一瞥して。
「確かに昔から、妄・想・力・だ・け・は! あったもんね!」
妄想力という部分を強調してそっぽを向いてるところを見ると、相当気に食わないのだろう。その時、軽やかな鈴の音が短く鳴った。
「あ、メール……」
奈美がジーパンのポケットから水色の携帯を取り出す。
画面を眺めること二十秒。
パタンという携帯の閉じる音がして。
「ねぇ〜、一つ教えて欲しいんだけどぉ?」
何とも甘ったるい猫撫で声が耳の中に侵入してきた。
「何だよそんな声出して……」
そう返すと、奈美は俺の目の前にしゃがみ込んで上目遣いをしてきた。
……怪しい、こういう時の奈美は絶対に裏がある。
それにしてもさっきの態度からのこの急変ぶり、役者になれるんじゃないか?
「お兄ちゃんOnce Upon å Timeでプログラマーしてるでしょ?」
アメリカ人といっても通用しそうな滑らかな発音で施設名を呼ぶ彼女に、どうしても冷や汗が出て来るのは気のせいだろうか。
「お、おう」
「てことは、その中の世界について知ってるでしょ?」
「まぁ、多少はな」
その答えを期待していたのか、奈美は二マーっと笑みを浮かべ。
「じゃあラストステージに行ける鍵を教え――」
「それは無理だ」
言葉が終わらないうちにそう返す。
「え〜、良いじゃんちょっとくらい!」
それに対して彼女はほっぺを膨らませ、応戦してくる。
「あのな、何回も言ってるけどあの中の事は働いてる人間もあまり知らされないの!」
そう、全てが謎に包まれているゲーム。どうしたらクリアなのか、クリアしたらどうなるのか、そもそも最終ステージそのものが存在するのか、それを知っているのは世界で一人。開発者の安藤博士のみ。
「なんだ、使えないの。明日、友希に誘われたから何か分かればって思ったのに〜」
奈美ががっかりしたように溜め息をつく。なるほど、さっきのメールは遊びに行くお誘いか。
「俺はプログラマーだから基本的な事しか分からないけど、管理者たちなら分かると思うよ」
「管理者?」
「各物語を管理している特殊プログラムキャラクターだよ。まぁ、それも見つけられればだけどな」
「それじゃあ、その管理者ってのを見つけたらラストステージに行けるってわけ?」
その言葉の中に希望の光が込められているように感じられる。よっぽどクリアしてやりたいんだろうな。
「いるかどうかは知らないけどな。俺もまだ見た事ないし」
「なにそれ、ホントに管理者なんているの?」
空気を抜かれた風船のように奈美の声がしぼんでいく。
「Once Upon å Timeはホントに未だ謎が多いんだよ。唯一公表されているヒントは『見守るものに辿り着け』だけだからな」
「んー、今の話からするに見守るものってつまり管理者っぽいから、管理者は存在しているって事? でも、まずそこに至る事ができないなら意味ないじゃん」
「管理者っていうのが分かってるだけ、大きなヒントになるだろ?」
「そうだけどさぁ……」
不服そうな声を上げながらも、尖らせたくちびるに人差し指をあてる奈美。
彼女のようにこの日本が誇るアミューズメント施設を攻略したいという者は少なくない。
むしろ、インターネットの世界には攻略サイトや、考察サイトが溢れ返っている事から考えても世間的に大きな注目を浴びている事は間違いないだろう。
ただネット社会の不運というか、運営側の戦略なのかは分からないがそういったサイトに載せられている情報は真実と偽りが入り乱れている。それもどういうわけか、とても巧妙に組み込まれているのだ。それがOnce Upon å Timeの攻略に良くも悪くも多大な影響をもたらしている事は明らかで、そのどれもが真実味を帯びているように思えるのだから困ったものだ。
「……むぅ、アタシが一番にクリアしたら一気に有名になれるのに!」
そんなことをブツブツ呟きながら、奈美はリビングを出て行ってしまった。おそらく自分の部屋にでも戻ったのだろう。
てか、有名になるのが動機って……。
「そんな動機だけじゃ、安藤博士の最高傑作を攻略する事は出来ないと思うぞ」
後ろでドアの閉じる音がなると同時に、深緑の森の中に放り込まれたような不思議な気分になる。さっきまで奈美がいて賑やかだったこの部屋は、まるで日が落ちた砂漠のようで、無味簡素な部屋がより一層引き立たせられる。
仕事に取りかかろう、明日のシステムチェックリストの項目確認をしなくちゃいけない。
壁に掛けられた時計に目をやると既に日付は変わっていた――。
そうして迎えるのは九月八日。
運命の歯車は軋みながらも動き始める。
最高の知能のネジが緩み、平穏が不穏へと変わるその日。
おとぎの世界は、隠された真実を魅せ始めた……。