その一
結論から言うと僕は死ぬことができなかった。自殺できなかった。失敗だった。
いや、自殺には成功したのだが、命を失くすこと、棄てることには失敗したという意味だ。残念ながらそれは許されなかったのだ。この世界に来てから僕に語り続けているハートのサングラスを掛けたモグラが言うには
「お前さんは自分を棄てた。いらないから、要らなくなったから棄てた。だったら俺が拾っても誰も文句は言えないはずだぜ。捨てる神ありゃ拾う神ありってお前ら人間は言ってたろうよ。つまり、俺様が拾う神ってことだ。おう、少年。少しは崇めろよ」
と言うので、僕はそれに従うことにした。目が覚めたときには小さな檻――虎を二頭ほど飼うときのゲージの中にいたのだが、それが檻だと分かるまでには少し時間を要した。そこは以前他の誰かが使用していたような内装――つまり人間の部屋の様相だった上に、その趣味嗜好が女子独特の芳しさ――つまり女の子の部屋そのものだった。
だから初め、ここは僕の頭の中のお花畑かと思ったが、それは頬の吹き出物を潰した時に出る血液で否定された。夢でも現実でもない、この異世界が僕の現実だと受け入れるまでにはそんなに時間はかからなかった。もはや、自分に対する価値観を見いだせず、肯定する気力さえなかったから。だから、きっとこれは生と死の狭間で、地獄へ行く前の品定めだろうと考えた。そう思うと、自然と納得してしまったのだ。死に値する命でもないと言われているような気がして。
それにしても、清潔感と可愛らしさが残されたこの空間はどうも落ち着かなかった。落ち着ける場所がなかった。この部屋の住人を探そうと、檻の向こうを見回すも、そこには丸机と椅子が二つあり、その他照明器具や家具からは生活感が感じられるだけだった。人間の生活感だ。
檻の向こう側に用意された椅子にはモグラと他に人が座っていて、それが女の子だった。ここからでは主に露わになった足が見えた。髪の長い女の子で、肌もきれいに白を放っている。奴隷のように淫らな扱いをされているわけでもなく、かといって人間世界のように過保護によってピカピカにされているわけでもない。白のワンピースは純白ではあったがシワが斑にあり、何より少し覗いたその顔に表情がないこと、手足に枷のあることが普通ではないことを物語っていた。
自分にも同じ枷が付けられているあたり、同じような境遇かと推測してみたが、すぐに気力をなくした。俯いて音のない呼吸を小さく行った。いったい何があったのかなど心配するだけ僕なんかじゃ野暮だし、自殺するような僕に心配できるようなことではないだろうよ。
モグラはコーヒーの入ったカップを手に僕の元に来て、檻に付いている小さな扉を開けた。檻の穴はちょうど物をやり取りするのに適しており、出入りには適していない。どうやら食事等の物品は外部からここを通して送られるらしい。
「温まっているから少しは旨いはずだが、砂糖とミルクはやらねぇ。高いからな。ブラックで我慢してくれや。――人間がこの部屋に来るのはお前で四人目だな。住んでいるのは二人目だが。まあ、だから、どう扱っていいのかも大体心得て来た頃だから安心せい。そうだな、少し混乱しているようだからお茶のついでに話をしてやろう」
地べたに座っている僕からは向こう側の机の上にある物が何かは分からなったが、香りから紅茶だろうと思った。ならば付け合わせはスコーンだろうか。それともビスケットだろうか。どちらにしても地面に湯気と共に置かれたモグラに差し出されたコーヒーを素直に飲めるほど、僕は素直ではなかったし、もしそうであったら自殺なんてしていなかっただろう。もう少し人間世界で頑張っていたはずだ。警戒心をより強めた僕をよそにモグラはしゃべり出す。
「ここはまあ、俺がいるから何となくわかるだろうがモグラの世界だ。ま、ざっくり言うと人間に棲みかを奪われた俺らの居場所ってことさ。なに、お前らが同情する必要はない。お前らの急速な進化に順応できなかった俺らが悪いのさ。それでもこうやって生きていられんだから、文句は言っても恨みはしない。上手くすみ分けられたってところだな。おっと、話が逸れた。まあ、モグラってのは見ての通り頭が小さいんで、それに比例して脳みそもちゃっちいんよ。だから俺らが文明を築くのは少しばかり無理があった。だからと言ってそれを易々と成し遂げる人間を地中から見るのももう飽きたし、正直俺らは辛抱ならなかったんだ。そんなある日、俺らにも契機が訪れたのさ。それが拾うこと。人が火を得たように俺らは人間が棄てたものを手に入れる力を得たってわけだ」
だから自ら棄てた僕の命をこいつが拾ったって言うのか。馬鹿々々しい。
「ここまで言っておいて悪いが、その方法まで教えるつもりはない。そのつもりはないが、俺はお前らを育てるつもりはある。やはり、人間そのものっていうのは貴重だからな。俺がこうして二人も手にできたのはラッキーだったと言える。いや、これでも俺は勤勉なんだぜ? 人間のことはきちんと勉強したのさ。だから俺はお前らを無下には扱わない。家族のように接するとも。本当だぜ? あ、てめぇ信用してねぇな? まあ、モグラを信じろって言う方が無理な話なんだろうが、スプラがその証拠だって言えば少しは信じてくれるだろう?」
スプラ。僕よりも先にこのモグラといた――奴に言わせれば飼われていたあの少女がスプラと呼ばれていることを僕は今、初めて知った。確かにその容姿から推察できることは多いが、僕も同様に扱われるとは限らない。愛とは総じて偏屈によって分配されるものだと散々に学んで叩き込まれてきた。少ない僕の経験だ。
モグラはカップを傾けると、また勝手に話を進めた。
「そういや、おまえさんの名前聞いてなかったな。スプラは名前も棄てたらしくてな、だから俺様が付けたんだが……お前は覚えているか?」
名前。自分の名前。僕の名前か――。
「――マコト。ああ、僕の名前は確かマコトだ。えっと漢字は……」
「ああ、いい。呼び方が分かればそれでいいさ。じゃ、マコトお前には早速だが働いてもらうぜ。その働きぶりによっては、すぐにそこから出られる。俺を殺そうとしない限りは、だがな」
がはははと高笑いするこいつは俺をペットだと言った。だがその割には家族のように接するとも言った。こんな言葉を聞いていると僕はなぜかこいつをそんなに悪い奴じゃないのかもしれないと思い始めてしまった。一方で、働くという言葉が引っ掛かるのは事実。一体どんな仕事をさせられるのだろうか。死に損なった拒否権のない僕が憂うことではないのかもしれないが。
***