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この世界から私が消えたとき

待ってて。今からそっちに行くから。



ふうと








あぁ、いつからこんなになったんだろう。

普通の小学校に行って普通の中学校に行って、普通に高校を出て。

大学時代に出会った友人と結婚した。

子供は1人。それなりに幸せだった。

なのに、どうして?

ねぇ。誰か教えてよ。

どうして、私だけがこんな目に遭うの?

返してよ。

私の幸せだった生活を。

返してよ、私のふうとを。




あれからだ。

歯車が少しづつ、少しづつ狂っていった。

「ただいま」

もう5年生になった息子の声が、玄関とつながっているリビングと台所に響いてくる。

いつも、この声を待っていた。

「おかえり」

台所から声をかける。

「うん。今日カレー?」

リビングに息子、風豊ふうとの姿が見える。

「あたり」

私のお母さんから直伝のカレーは風豊のお気に入りだ。

「やった!」

幼さの残る顔は、いとおしい。

思わず笑ってしまう。

自分の子供がこんなにもいとおしいと、親になって初めて気がついた。

風豊が生まれたばかりの頃は、寝不足になるし世話をしないといけないしで精神的に疲れ切っていた。

でも、たまに見せるあの笑顔が育児に疲れ切った私に元気をくれた。

こんなに言ったら大げさだって言われるかも知れないけど、私の生きる意味だった。


プルルルルル プルルルルル プルr

「もしもし」

「お、お姉ちゃん」

妹の声がする。もう、35くらいだろうか。

私と1歳しか違わない妹は結婚はせず、実家で親の世話をしている。

「どうしたの、こんな昼間に」

いや、時間の問題では無い。

妹と電話をするなんてここ1・2年ほどはしていないはずだ。

「お母さんが倒れてて、救急車、よ、よんだんだけど」

よく聞くと、妹の声はとても震えていた。

久しぶりに聞く妹の声に気をとられて、妹を思うことを忘れていた。

やはり、姉として私は頼りない。

そう思うのはこれで何回目だろうか。

「いま、病院で運ばれてて」

混乱しているのだろうか。

いつものような冷静な妹らしくない。

「どこの病院?」

「市の病院」

「分かった、今から行くから」

「うん。ねえお姉ちゃん。お母さんが、死んじゃったらどうしよう」

「大丈夫、だいじょうぶだから」

こういうとき、私の無力さを痛感する。

お姉ちゃんなのになにもしてあげられない。

誰にもかけられるような、薄い言葉しか持っていない。

妹はそんな薄っぺらい言葉しか聞くことができない。

安心、させてあげられない。

「ごめんね」

「っえ?」

「すぐいく」

妹の返事を気かずに受話器を置く。

「風豊」

「うん?」

手早く台所を片付ける。

「いまから、お母さんと病院いこ」

「なんで?」

ふとリビングを見ると、首を斜めに傾けてこちらを見ている風豊がいた。

「おばあちゃんが、倒れちゃったの」

そういうと、風豊は無言でうなずいた。

「だから、お見舞いに行こう?」

「うん」

風豊は今までやっていた宿題をとじて、袋に入れた。





「お姉ちゃん」

妹はしゃくり上げた。

「おかあさんは?」

妹は首を横に振って、手で顔を覆った。

長い髪の毛がたれて彼女の顔も手もすべてを隠す。

その瞬間、手にふっと力が入った。

「死んじゃった」

「え」

全身から力が抜ける。

小さく、言葉が出た。

ほんの数秒前まで握っていた風豊の小さな手がずり落ちてしまいそうになる。

風豊がつかんでいなかったらこの小さく温かい手を、落としてしまったかも知れない。

体から力が抜けたせいか、考えるという日常が今の私には存在しなかった。

感情はなかなか、せり上がってこない。

そのかわり、やけに冷めた感情が首をもたげる。


お母さんは、死んだ。

だったら、なんだ。


どうしてこんなに冷静でいられるのだろう。

自分でも自分がおかしかった。

私ってこんなに冷めた人間だったっけ。

「おねえちゃん、もう、どうしたら良いか分かんないよ」

妹の言葉はとっさに理解できなかった。

「私、どうしたらいいの?」

妹の言うことはもっともだった。

私の生きる意味が風豊だというならば、妹の生きる意味はお母さんだった。

お母さんは、ひいきをしなかった。

妹のことをかわいがれば、私のこともかわいがり、妹のことをしかれば、私のことも同じようにしかった。

だけど、お母さんを今まで支えてきたのは妹だった。

実家に帰ることなんて一年に2・3回ほどである。

でも、それは致し方のないことだった。

風豊が大きくなり、夫の仕事も忙しく帰りも遅くなり、家族の時間が減っていった。

「彩」

妹の名前をいつもより少しだけ力を込めて呼んでみる。

そうすると、少しの間があったあと、顔を上げた。いつもより頬が赤く、目も赤い。髪の毛も乱れている。

「彩は、前を向いていいんだよ」

私は思う。

「お母さんのことを引きずっていたって、お母さんは生き返らないでしょ?」

妹は小さくうなずく。

「お母さんのことは忘れなくて良い。けど、これから先、お母さんのことだけを考えて生きていく必要は無いよ」

妹の大きな目が揺れる。

「でも」

「彩の人生は、彩のものでしょ?」

妹は再び顔を下げる。

「だから、彩の好きなこと。していいんだよ」

って、勝手な持論。

私の人生を他の誰にも邪魔されないように生きるための。

妹にも、お母さんに縛られずに生きて欲しいから。

って、これも勝手な考えか。

「適当なこと言わないでよ」

いつもよりも、幾分も低い声で、震えた声で妹は言う。

「お姉ちゃんに私のことなんて分かんないよ」

知ってる。

分かんないことくらい、とっくに知ってる。

誰だって、親だって子供だって。自分以外の誰かの考えを、感情を知ることは出来ない。

知ろうとする努力自体、無駄なのかも知れない。

「お姉ちゃんは、大学でて結婚して、家、出てっちゃったもんね」

そう。私は家を出た。でもそれは家が嫌いだから、ではなかった。

「最初は私がお母さんの世話をするしかなかったからやってただけだった。でも、お母さんの愛情は私だけにあった。お姉ちゃんが居なくなって、私だけを見てくれた」

あぁ重い、と思う。

自分には重すぎる。今まで2人分だったものをこれから1人で背負って行けなんて言われるのは、無理に等しい。

きっと私が家に残っていたら、必ず家を出た。結婚なんてしなくとも、何かしらの言い訳をつけて。

そのことを自分で分かっていたのかも知れない。

だから、妹が家を出る前に家を出た。

重すぎる愛情が自分1人に向かないように家を出た。

「嬉しかったの」

妹の見えない顔から、黒いしずくが床へと落ちる。

「私はもう、お母さんが居なきゃダメなの」

髪の毛が揺れる。

きれいだった。

私よりも遙かにきれいだった。

暗い空気が揺れる中、黒く染まった妹が誰かを思って涙を流す。

私はそんなこと、絶対にしない。

絶対に出来ない。

だって、私が誰かを思って泣いたことなんて、一度も無いのだから。

そしてきっとこれから先も、一度も無い。

断言できる。

なぜなら私は人にそうされるのが嫌だから。

今まで好きだったその人を、嫌ってしまうくらいに嫌だから。

自分のことを干渉さえることが、昔から死ぬほど嫌だった。

干渉してる人が、自分のことをきれいな人間だと思っていることを知っているから。

自分をきれいな人間だと言うために人のことを利用する、汚い人間のいいわけだと思うから。

どうしても、そう感じてしまうから。

同時にそれは、私が誰のことも思えない悲しい人間だと言っているようなものだ。

それでもいい。

きれいな人間だと言い張るよりも、悲しい人間だと思われた方がよっぽどましだ。

「お姉ちゃんには分からないよ」

「うん」

分からない。

教えて欲しいとも思わない。

そう思ってしまうのは私が素直じゃないからだろうか。頑固だからなのだろうか。

「お母さんが死んだんだよ、お姉ちゃんは何にも感じないの」

そんなわけはない。

今の今まで育ててもらっていたようなものなのだ。

「おばちゃん」

今まで黙っていた風豊が口を開いた。

「お母さんは、悲しんでるよ」

「そんなこと、何で分かるの」

いつもは優しく話しかけている風豊にも、妹は冷たく当たった。

しかしそれに風豊はひるまない。

私の手をキュッと握って妹を見据えた。

「お母さんは優しい人だよ。おばあちゃんのこと大好きだもん」

「風豊」

いつもは私の呼びかけに返事の1つでもするのに、それにも応じずに続ける。

「おばちゃんは、変だよ」

「なにが」

「だって、おばあちゃんが死んじゃったんでしょ?何でお母さんが悪くなってるの?おばあちゃんが死んじゃって悪くなる人なんていないよ」

「なにもしらないでしょ」

「知ってるよ。お母さんはいつもおばあちゃんと電話してるもん。僕が学校に行ってるときもお話してるんもん。おばあちゃんのこと大好きだもん」

風豊の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

それでも涙をこぼさないように、目に力を込めながら。

なんて心強いんだろう。今まで私が守っているとばかり思っていた。いつから?風富。私はあなたをちゃんと見れていなかった?

「どうして」

なんで風豊は知ってるんだろう。

私はそんなこと話したことなんて一度も無かったはずなのに。

「おばあちゃんが教えてくれた。風豊のお母さんは人を思いやれるいい人なんだよって」

私にはそんなことを言ってくれたことなんて一度も無いのに。

「ありがとう、風豊」

息子の頭をなでてみる。さらさらとしたきれいな髪の毛だった。妹の髪も、触ってみたらさらさらと気持ちの良いものかもしれない。ふと、そう思った。

「彩」

少し前に呼んだ名前をもう一度、今度は軽く呼んでみる。

「ごめん。でも、私はお母さんの居ない世界で生きる。彩は、お母さんが居なくなったらもう生きていけないような子に育てられたの?そんなの、お母さんがかわいそうだよ」

そう言って、私はもう一度風豊の手を握り直す。

もしかしたら、妹との縁は切れるかも知れない。

でも、お姉ちゃんである私に出来ることは妹にそうさとすことしか出来ない。

「ごめん」

そう言って私は歩き出した。

今日、何回言ったかな。

数えるほども言ってないはずなのに、何度も繰り返し行ってきた言葉のように感じる。

一度立ち止まる。

風豊が私の顔を見上げてきた。

けれど私は前だけを見つめていた。

前を向いて欲しかった。

「ばいばい」







お母さんが死んでから1か月が経った。

私の生活で変わったことといえば、妹が引っ越してきたことと風富が6年生になったこと。いや、私のことじゃないのかもしれない。

でも、それなりに前に進んでる。妹も、私も。

人が死んだんだと、一番感じたのは火葬の日だ。骨をはしでうつしている時。肉体がなくなったんだと。もう二度と、35年間感じていた人肌に触れることはできないのだと。

きつかった。

でも、私は前を向かなければならなかった。妹の不安定な情緒もあり、幼い風富に我慢をさせてはいけないという思いもあり。

姉として、母として私は強くあらねばならなかった。

母が死んだときに、すでに悟っていたことだ。でも、わたしも悲しむ時間を与えてほしかった。少しでもいいから、休んでって言ってほしかった。

うまくいってるように見えたから。




「おねえちゃん!」

玄関から妹の弾んだ声がした。

彼女はたまに、というか主に彼女が暇なときにうちに顔を出すようになった。

「ねぇ、ねぇ、ねぇ!」

元の無邪気な妹に戻りつつある。もうちゃんと、前を向けている。

「これ、行かない?今度の日曜」

妹が私の鼻先までチラシを押し付けた。

老眼にはなっていないけれど、そんなに近くてはさすがに見えない。

「なに?」

そう聞くと、妹はなぜか誇らしげに笑った。

「B級グルメ」

やきそば?

「行こう!」

「うん。いいけど」

「風豊も連れて、三人で」

嬉しそうに笑う妹に、私は勝てたためしがない。

インターホンが鳴る。

「はーい」

風豊が帰ってきたのだろうか。チラシを見たら、なんていうだろう。

『わー、すごい!』だろうか。

『おいしそう』だろうか。

それとも『びーきゅーぐるめってなに?』だろうか。

鍵を開けてから軽いドアを押すと、そこにいたのはやはり風豊だった。

いつものように、満面の笑みで立っていた。

「おかえり」

「ただいまっ!」

風豊は駆け足で上がっていった。

今日は彩が来たらからはしゃいでるのか、テンションが高い。

「彩ちゃんに挨拶してねー」

ランドセルに覆われた背中に向かって言う。

すると、風豊は振り向かずに返事をした。


夕ご飯、風豊を見て久しぶりだと思った。家に帰ってきたのはもう3時間ほども前なのに。

風豊はお腹がすいていないと味噌汁を残して早くに寝てしまった。今日ははしゃぎすぎて疲れたんだろう。


デコボコなのが人間なのかも知れない


                

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