夜空に願いを 前編
1
窓から差しこむ白い日差しが、飴色の壁に反射して、やわらかな光となってリビングを満たしている。木の良い香りに包まれた室内には、塵一つ落ちていない。ここの住人が毎日丹念に掃除しているからだ。フローリングも、顔が映るほど磨き上げられている。
カーテンが風に揺れ、その向こうから、カッコウの鳴き声が聞こえてくる。「んっんーぅ、んっんーぅ」そのリズムに合わせて、ちょっと音階のずれた鼻歌が陽気に流れていた。
そんな、穏やかな空気に満たされたリビングに、不意に「カチャッ」と音が跳ねた。
ピチカの犬耳が、音を拾ってピクンと震える。
「グーグー、どこいくの?」
ダイニングテーブルでパンケーキを食べていたピチカは、フォークを動かす手を止めて振り返り――――廊下へと出ようとした彼を呼び止めた。
「っ!?」
グーグーと呼ばれた、等身大のブロッコリーのような容姿の彼は、ドアノブを握ったままギクリと硬直した。彼に顔と呼べる物がないため、その表情を読み取ることはできないが、焦っていることは一目でわかった。
しかし、どうしてグーグーは焦っているのだろう?
「んぅ?」
ピチカは不思議そうにコテンと小首をかしげる。
その拍子に、銀色のボブカットが揺れ、シャララと涼やかな音を奏でた。
「……!、……!」
グーグーは振り返ると、短めの手足をパタパタと動かしはじめた。これがグーグー流のコミュニケーション方法である。それによると、『ちょっと所用があるので、これから外出します』ということだった。
途端、ピチカの眉間に数ミリの皺が寄った。
べつに出掛けるのはいい。だけどグーグーは大切なことを忘れている。それはとてもいけないことだ。ピチカは頬をぷくっと膨らませると、
「グーグー、めっ!」
すこし強めに叱った。
「っ!?」するとグーグーは仰天し、透明な筒に押し込められたかのように気をつけの姿勢をとった。ピチカは瞳を細めると、弟に言い聞かせるお姉ちゃんのような口調で言った。
「出かける前、『いってきます』がおやくそく! グーグー、わすれちゃ、だめ」
ピチカが許せなかったのはそこだった。
家から出る人は「いってきます」を言うこと。家に居る人は「いってらっしゃい」を言うこと。この家のルールブックに新たに追加された項目である。もちろん大好きな”黒髪の彼”の影響だ。
『いいかいピチカ。これを自然に言いあえる家族は、もれなく円満になれるっていう魔法の言葉なんだよ』
お日様のような笑顔で、彼はそう教えてくれた。言葉と共に、自分の頭をクシュクシュと撫でてくれた手の感触を思い出して、ピチカは頬を薄桃色に染めて、ポーっとなってしまった。
しかしすぐにハッと我に返ったピチカは、プルプルと首を振ると、ドアの前で所在なさげにしているグーグーに、ちんまりとした指をピシッと立てた。
「ちゃんと、いってきます言うの! おやくそく!」
グーグーは申し訳ありません、と深々と頭を下げると、手旗信号のようなジェスチャーで「いってきます」を表現した。
それを見たピチカは、うむうむ、と納得し、
「ん、いってらっしゃい」
腰から伸びるフサフサの尻尾を、見送るように一度振った。
それで満足したピチカはテーブルに向き直り、ふたたびパンケーキを食べる作業に戻った。雲のようにフワフワのパンケーキを、一口大にカットして、その上に、生クリームとブルーベリーソースとラズベリーを絶妙のバランスで乗せ、崩れないようにそーっと舌の上へと運ぶ。
「ん~っ」
包み込むようなクリームの甘さ。その奥からブルーベリーの酸味がパッと広がる。そしてその全てを、パンケーキの香ばしさが引き立ててくれる。ラズベリーのプチプチという食感も噛んでいて楽しい。
口の中から脳へと広がる甘美な電流に、ピチカはきゅっと目を閉じ、足をパタパタさせた。尻尾も幸せバロメーターを示すように大きく揺れる。
ピチカはフォークをペンに持ち替えると、忘れないうちにメモを取った。いまの組み合わせはステキ。花丸3つ。
さて、次はどんな配合にしよう。
どこか眠たげな印象の瞳に、普段にはない強い光を宿らせ、ピチカはテーブルにならぶジャムの瓶を睨み、「んう~」とうなった。これはただのオヤツではない。研究なのである。
目的はただ一つ。今度”彼”が来たときに、最高の組み合わせを披露して、褒めてもらうのだ。そして、いっぱいクシュクシュしてもらうのだ。
その事を思うと俄然やる気がみなぎってきたピチカは、ピスッと小鼻を鳴らすと、次の瓶へと手を伸ばした。
作業に没頭するピチカの傍ら。
いまだリビングにいたグーグーは、あからさまに「バレずに済んでよかったー」といわんばかりに、額(?)に浮いた汗を拭う仕草をすると、抜き足差し足といった風に出て行った。そんな怪しげなグーグーの様子に、「ふぉぉ……!?」カスタードにバナナペーストとイチゴという組み合わせに戦慄を覚え、尻尾をブワッと膨らませていたピチカが、気づくことはなかった。
――同時刻、別所。
(くぁ……)
サイトウは、喉まで出かかった欠伸を奥歯で噛み砕くと、熱いコーヒーで嚥下した。
すこし神経質そうな顔にのったメガネをずらし、目じりに浮かんだ涙を拭う。
(寝不足がこんなに辛いだなんて。いつまでも若いとは言ってられないな)
十代の頃は徹夜など何とも思わなかったが――――今では、カフェインの力を借りないと意識を保っていることさえ危うい。ヒタヒタと忍び寄ってくる『老化』の二文字を意識してしまい、サイトウはげんなりした。そういえば筋肉痛も二日後にくるようになったし、白髪も増えてきた。やだなぁ、こうやってジワジワ歳をとっていくのって。
ふぅ、と漏れた溜息が、カップの内に広がる黒い水面をわずかに揺らした。
サルラの町。
西の商業区。
その一角に、「工房サイトウ」はある。
黒い木材が多用された趣のある店構えは、店主であるサイトウが、古い酒屋をイメージしてデザインしたものだ。独立開業から数年、おかげさまで、この店の売り上げはいまだに右肩上がり中。むこう10年は安泰だと、町の商人たちは評している。
シンプルな造りの店内。
壁に設置された強化ガラスケースの棚には、さまざまな鉱石や貴金属などの素材が展示されている。工房と言うよりは、どこか博物館のような静謐な雰囲気が漂っている。看板を見ずに店に入れば、ここがいったい何の店なのか混乱することだろう。
剣や鎧などの現物が置いていないのは、この店の主力商品が「設計図」だからである。展示されている物すべては、客に実物の素材を触らせて、『完成後のイメージをしやすくするため』のものだ。
サイトウには不思議な特技があり、人の頭に手をかざすだけで、その者がイメージしている物体を正確に読み取る事ができるのだ。この特技を活かして、「客のニーズに100%応えられる設計技術者」と売り出し、大きな成功を収めたのである。
……もちろん、それを裏打ちするだけの技術を習得するために、人生をやり直すぐらいの苦労があったわけだが。
サイトウはカウンターに座り、ズレたメガネの位置を中指で直すと、向かいにいる客の様子を静かに眺めた。
少年の客だ。
自分と同じ黒髪。瞳の色も黒。
どちらもこの世界では珍しい。生粋の日本人を表す色だ。
背丈は170cmほど。薄手のパーカーに包まれた体は、一見すると細身に思える。だが、その半そでから伸びる腕は、プロボクサーのように筋張っており、貧弱という言葉からはほど遠い。この少年が、毎日、それこそプロボクサーのように体を鍛え続けている結果だ。筋力トレーニングはいわずもがな、射撃訓練、そして野生動物のハンティングを、ほぼ丸一日ぶっ通しで続けている。
自分の知る限り、彼がそれを休んだ日は一日として無い。サイトウとしては、いつか彼が体を壊すんじゃないかと気が気でない。だがそれを言っても、シンゴは困ったように笑うだけだった。彼はおとなしい外見をしているが、驚くぐらい頑固者だったりする。
少年の名はオガミ・シンゴ。
サイトウと同じ、地球出身の日本人だ。
「……」
シンゴは真剣な面持ちで、カウンターに置かれた木箱を、穴が開くほど見つめていた。
1m四方の箱の中には、小指の爪ほどのクリスタルが、紙一枚挟むことができないぐらいに、ぎっしりと詰まっている。ややあって、シンゴはニトログリセリンでも扱うような慎重さで、クリスタルの一つを摘み上げた。手の中でクリスタルがちゃんと機能していることを確認したシンゴは、感嘆の息を漏らした。
「注文どおりにできてたかな?」とサイトウ。
「それはもう!」と、興奮気味にシンゴは顔を上げた。「まさにこういう、蛍みたいに光るのをが欲しかったんです! これで明日に間に合います! サイトウさんに任せて本当に良かったです!」
「それは良かった」
子供のようにはしゃぐシンゴを見て、サイトウは何ともいえない充足感を得ていた。
正直、楽な仕事ではなかった。
約一週間という期日で、あの数のクリスタルを用意するのは、どう見積もっても無理があった。普通ならキッパリと断るところだが、しかしシンゴの頼みとあっては無碍に出来なかった。『それにあの怖い人たっての頼みでもあったわけだし』。おかげで、三日合わせて睡眠時間は2時間を切っている。だがその苦労の甲斐あって、年上の男としての体面は保たれたようだ。
自分でも不思議なのだが、シンゴには自分の事を「頼れる兄」のように思ってほしいという願望があった。だから今だって、腿をおもいっきり抓って、無理などしていないと強がっていたりしている。
サイトウはもう一口コーヒーをすすると、柔和に瞳を細めた。
「上手くといくといいね、シンゴ君」
するとシンゴは、同姓すらもドキリとさせるような、透き通った微笑を返した。
「はい!」
2
作戦当日の朝。
午前9時、5分前。
頭上には作戦の成功を予感させるような、そんな気持ちの良い青空が広がっていた。
シンゴは相棒であるボナンザ――走竜と呼ばれる二足歩行タイプの大型トカゲ――の背に乗ったまま、小高い丘の上から、眼下に広がる森を見つめていた。
五月の中旬。俳句で言うところの「山笑う」季節を迎えた森は、伸び伸びと枝葉を広げ、色鮮やかな緑を楽しませてくれる。新緑の香りが、丘を吹き上げる風に乗って運ばれてくる。深く息を吸い込むと、古い細胞がろ過されていくような、そんな清涼感を覚えた。
(そろそろか……)
チラリと腕時計を確認。
短針が9時を指すのと同時に、木々の隙間から、細い煙が立ち上るのが見えた。色は黄色。あれは狼煙で、予定通りピチカが家を出たことを表している。相変わらず規則正しい生活をしているようだ。
今日ピチカは、ここからちょっと離れた別の森で、知り合いの「でっかいフクロウさん」と会う予定になっている。そのフクロウが何者なのかは知らないが、ピチカの話を聞く限りでは、悪い猛禽類ではなさそうだ。いつも山のように積まれた木の実でピチカを歓待してくれて、おまけに天気の良い日は、空中散歩に連れて行ってくれるそうだ。
ふと脳裏に、大きなフクロウの背に乗って、風にあおられながらキャッキャとはしゃぐピチカを想像して…………思わず鼻血を吹きそうになった。
「クルル?」
手で口を覆い、プルプルと肩を震わせているシンゴを見て、ボナンザは首をかしげた。
しばらく丘から森を見下ろしていると。
やがて、森の切れ目からピチカが姿をあらわした。
陽光を受けてキラキラと輝く銀髪。手で包み込めそうなほど小さな顔には、くりくりとよく動く大きな瞳。離れた所からでも、ピチカが神秘的なオーラを持った美少女であることが分かる。それは決して贔屓目などではない。
頭にはトレードマークの三角の犬耳。腰からは豊かな毛で覆われた尻尾。どちらも髪と同じ銀色。それらは作り物ではなく、正真正銘、体の一部である。
それを証拠に――――以前、犬耳の内側に生えている綿のような白い毛を、興味本位で触ったことがあった。するとピチカは「ぴああー」と、普段では絶対聞かないような甲高い悲鳴を上げて、部屋の隅まで走って逃げ、そのままクローゼットの奥へと引っ込んでしまった。ちょっとだけ覗いた隙間から「ピチカの耳こしょばすダメ! ぜったいダメッ! シンゴ反省する! めっ、めっ!!」と、叱られてしまった。その時のピチカは、暗がりでも分かるほど顔を赤くしていた。耳の内側はとても敏感な箇所らしい。
以後、頭を撫でる時に指が触れないよう気をつけている。
それはさておき。
桃色に染まりかけた思考回路を、ふたたび現実へと引き戻した。
ピチカは真っ白なワンピース姿で、家人である大蛇のもたげた鎌首の後ろに、コアラよろしくしがみついていた。なんだか絵本から飛び出してきたようなメルヘンチックな様子に、思わずシンゴはフフッと声を漏らしてしまった。
と、その時。
「ん?」
大蛇の頭にアゴを乗せていたピチカが、不意に顔を巡らし、犬耳をピクピクと動かす素振りを見せた。あっ、やばいっ! シンゴは顔を強張らせ、慌ててボナンザに伏せるよう命じた。ピチカからここまで50m以上離れている。しかし油断はできない。ピチカは犬並みに耳が良いのだ。
もし、いまここでピチカに気付かれでもしたら、作戦が全部パアになってしまう。
緊張の10秒。
どろりと時間の進みが遅くなる。
幸い気付かれることはなく、ピチカは大蛇に背負われたまま、木々の向こうへと消えていった。ホッと、胸に溜まった息を吐く。完全に見えなくなるのを待ってから、シンゴも移動を開始した。
丘を下り、森の中へと足を踏み入れる。
ここは「北の森」。
国が直接管理している場所で、許可のない者は立ち入りを禁じられている。もし無許可で入ろうものなら、さきほどの大蛇や等身大のブロッコリーが手荒く歓迎してくれる。不埒な違法伐採業者が、ボロ雑巾にされてサルラの憲兵に連行されていくのを、何度か見たことがある。
彼らは「妖精」という存在で、この森、というよりはピチカ専属の守護獣である。もちろんシンゴは許可されているので、森に入っても何ら問題ない。
適度に整備された、遊歩道のような野道を歩く。
ふとすると、現実世界の公園を歩いているように錯覚してしまう。それほど快適だった。木を剪定したり、歩きやすく道をならしているのも、すべて妖精たちだ。彼らはピチカが遊びやすくするために森を整備している。誰かに頼まれたわけではなく、自発的に、しかもローテーションを組んで本格的にやっているそうだ。
妖精たちが、ここまでピチカを慕うのには理由がある。
ピチカは、なぜかは知らないが、人の域をはるかに超えた魔力を持っている。一度だけピチカの魔法を見たことがあるが、あれは、自然災害と呼ぶに相応しい代物だった。
ピチカが杖を軽く一振りすると、天空から、一条の真っ赤な稲妻が落ちた。
その一撃は凄まじく、地層に縦穴を穿ち、ぶあつい岩盤の下にある水脈まで到達した。現在そこは、サルラの農耕を支える水源のひとつになっている。多くの人員が何十日もかけて掘る穴を、遊び感覚で作ったのだ。
そんな強大な力を持っているピチカだが、普段からぽんやりマイペースに生きているため、魔法を使うことはほとんどない。おかげで魔力は溜まる一方で、その小さな体にプールしきれない魔力が、湧き水のように外へと溢れ出る。それに引き寄せられるように妖精たちは集まっていたのだ。
すこし言い方は悪くなるが、妖精たちがかいがいしくピチカを世話しているのは、その魔力が目当てだと――――そう思っていた。
だが今回の一件で、その認識が完全に間違いだったと知った。
シンゴは、自分の未熟さを改めて思い知らされた。
そんなことにも気付けないなんて、僕はまだまだ、男として半人前だ。
しばらく移動すると、やがてピチカのログハウスが見えてきた。
パイン材をふんだんに使用された、飴色の外壁が美しい二階建て。
屋根から伸びるレンガの煙突が、黄色い煙をもくもくと吐きだしている。
ログハウスの前で、150cmほどのブロッコリーが、体とはアンバランスな短い手をパタパタと振って出迎えてくれた。彼の名はグーグー。今回の作戦の立案者である。
ボナンザから降りたシンゴは、グーグーに近づくと、グッと握手した。
「そっちの準備は? みな配置についてる?」
グーグーはピッと敬礼し、次いで、手話のような動きでシンゴに何やら伝えた。シンゴは眉一つ動かさず、しかし内心では首をかしげていた。うん、全然わからない。グーグーが最後にビシッと親指を立てたことから、たぶん準備は整っているのだろう。きっと。
ピチカが戻ってくるのは昼過ぎの2時。時計は午前10時前。この4時間で、すべてを終わらせないといけない。
それは決して楽な行程ではない。
だが、僕たちは必ずやり遂げてみせる。
「では、これより作戦を開始する」
知らず、声に力がこもった。
話は10日前にさかのぼる。
その日もシンゴは、日課であるハンティングを終え、夕食前に軽く汗を流そうとホテルに戻っていた。
「――ん?」
すると自室のドアの前に、珍しいお客さんが来ているのを発見した。グーグーだった。しかしどうも様子がおかしい。いつもならピチカを連れてくるのに、今日はそのピチカが見当たらないのだ。
「こんにちはグーグー。今日は一人?」
そう尋ねると、グーグーはこくんと首肯。その際、緑のアフロがバサッと音を立てた。
珍しいこともあるもんだ。個人的な用事なのだろうか?
このまま立ち話もなんなので、シンゴは不思議に思いつつも、彼を部屋へと招き入れた。
ちなみに「ギャーッ、でかいブロッコリーが廊下にいるー」と騒ぎにならないのは、彼ら妖精が、人の認識から隠れる障壁みたいなのを使っているからだ。それのおかげで普通の人には見えないらしい。ではなぜシンゴには見えるのかと言うと、テレビのチャンネルを合わせるように、任意の人間にピントを合わせて認識させることもできるそうなのだ。便利なものだ。
決して不純な目的ではなくシンゴはいつかグーグーにその男の夢が詰まった素敵な技術をこっそり教えてもらいたいと思っている決してお風呂的な目的ではなく。
「さ、どうぞ。入って」
先にグーグーを部屋に通し、後に続いたシンゴは、とりあえずアサルトリュックサックを壁のフックにかけた。背中が軽くなってホッとする。
そしてなにげなく振り返ったシンゴは「うわあっ!?」驚きの声を上げた。
足元でグーグーが四つん這いになっていたのだ。
危うく緑のアフロヘアーを踏みかけて、シンゴは後ろに跳び退った。
え、なに、急に。
シンゴは狼狽し、目を瞬かせた。
ベッドの下に小銭が滑り込んで困っている風に見えなくもないが、すぐに違うとわかった。どうやらグーグーは、シンゴに何かお願いをしているようなのだ。それも、年貢の引き下げを嘆願する水飲み百姓みたいな悲愴な様子で。
つまり簡単に言うと。
土下座だ。
「ちょ、どうしたっていうんだよ一体!?」
なぜかよくわからない罪悪感に駆られたシンゴは、慌ててグーグーを引き立たせた。
「とにかくまず落ち着いて。そんなことしなくても、ちゃんと話は聞くから。ね?」
そう言うと、グーグーはありがとうごぜぇますと聞こえてきそうなほど深いお辞儀をし、おもむろに話を始めた。始めたのはいいんだけど……。
シンゴは失念していた。
グーグーの会話は、独特なジェスチャーで行なわれるため、ピチカの通訳無しでは理解できないのだ。案の定、1mmも分からない。それでも何とかニュアンスだけでもと思い、グーグーのジェスチャーにあわせて、心の声でアフレコしてみたのだが、『陽気なコックが一輪車で遊んでいたら、通りがかったアルパカに半殺しにされた』、という何とも奇想天外なものになってしまった。
グーグーも、目の前にいる黒髪のマヌケがちっとも理解していないことに気付き、がっくりと肩を落とした。なんかごめんね。しかし、ふだん温厚な彼が、ここまで必死に何かを伝えようとしているのはただ事ではない。
「もし急ぎの用だったら、今からピチカの家に行って通訳してもらう? 僕はべつにそれで構わないけど――――うわっ!?」
そう提案すると、グーグーは服にしがみついて、ダメダメと首(?)を振った。
「もしかしてピチカには内緒なの?」
こくん、とグーグー。
「そっかぁ。でもそうなると困ったなぁ」
さて、どうしたものだろう、と途方にくれるシンゴ。
夕焼けに染まる室内に、沈黙が下りる。
締め切ったガラス窓の向こうから、レストランへと向かう人たちの喧騒が聞こえてきた。
ややあって、「!?」グーグーは、閃いたと言わんばかりにポンッと手を打つと、緑のアフロに手を突っ込んでメモ帳を取り出し、サラサラとペンを走らせた。
(あそこって収納スペースだったんだ……)
などと軽い衝撃を受けている間に、何かを書き終えたグーグーは、ページを開いて見せてきた。そこには丁寧な書体で、カンニバル国の公用語が記されていた。なるほど、筆談なら意思の疎通も可能だ。
しかし。
表情を曇らせるシンゴに、グーグーは頭上に疑問符を浮かべた。
「……ごめん、じつは僕、字が読めないんだ」
羞恥に視線を逸らしながら、シンゴはそう告白した。
情けない話だが、言葉はいま勉強中なのである。シンゴ自身もけっこう頑張ってはいるのだが、いまだ基本的な文法も分かっていない。
再び視線を戻すと、時が止まっていた。
グーグーはメモ帳を開いたまま硬直していた。
たっぷりと5秒の間をおいて。
その手から、ポトリとメモ帳が落ちた。床を転がったペンが、乾いた音を立てる。
押せばそのまま砕け散りそうなほどショックを受けたグーグーを前に、シンゴは慌てて言葉を付け加えた。
「で、でも大丈夫ホテルのオーナーに頼めば字を読んでもらえるからだからそんなボイルされる直前みたいな悲壮な雰囲気出さないでよ頼むから!」
――その後。
フロントにいるオーナーに音読してもらって、ようやく目的が分かった。
10日後、ピチカは誕生日を迎える。
偶然、誕生日を祝うという習慣があることを知ったグーグーは、ピチカのために誕生日パーティーをしようと思いついた。やるからには、ピチカの思い出に残るような、そんなステキなパーティーにしたい。しかし妖精たちで知恵を出しあうも、人の文化に疎い彼らには、どうやればピチカが喜ぶのかが分からなかった。そこでシンゴに白羽の矢が立ったわけだ。
メモの最後には、力強い文字で、こうつづられていた。
『人は、親が我が子の誕生を祝うということを知りました。
しかしピチカには祝ってくれる親がいません。家族がいないのです。
ならばせめて傍にいる我らで、あの子の誕生日を祝ってあげたいのです。
あの子には、人の子と同じようにしてあげたいのです。
家族の代わりなどと、身の程を弁えないことは申しません。
ただ、生まれてきてくれてありがとうと、そう言ってあげたいのです。
しかし我らには、その術がわかりません。
シンゴ殿、何卒ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます』
鼻の奥がツンとした。
胸の底からこみ上げてきた熱い衝動に、シンゴは無性に叫び出したくなった。
オーナーも、静かに目尻をハンカチで押さえていた。
なんて、なんて健気な奴等なんだ! そこまでピチカのことを想っていたのか。シンゴは彼らのことを誤解していた。ガツンと頭を殴られたような、そんな気がした。
居ても立ってもいられなくなったシンゴは、オーナーに一礼すると、そのまま床を蹴るようにして走りだした。階段を駆け上り、自室に飛び込む。そして目頭を熱くさせたまま、部屋の中央にいたグーグーの両肩を掴んだ。
鼻先がグーグーに触れるほど顔を寄せ、シンゴは胸に溜まった気炎を吐き出すように、力強くこう言った。
「グーグー! 君たちの思いはちゃんと受け取ったぞ! 僕らで、ピチカに最高のお誕生日を迎えさせてあげよう!!」
「っ!!」
それを聞いたグーグーの体に、ブルリとさざ波が立った。
一瞬の沈黙をはさみ、感極まったシンゴとグーグーは、戦友のように抱き合った。
こうして、戦いは始まった。