第八話
使い古されて、誰もいないはずの公民館に、僕はいた。
墓地の近くにある、例の幽霊屋敷。
それだけでも僕が幽霊にさらわれたと噂されるには十分だった。それ以上に不気味だったのは、僕がいた場所というのが公民館内の浴場で、もう水も通ってないというのに、大きな浴槽の中には生温くなった水がどっぷりと入っていたということだった。
おまけにこの水が、妙に黒い。
子供達が聞けば鳥肌を立てさせるような怪談が、見事に成立してしまった。
僕は突然、神隠しになりかけた人間として町で有名になってしまった。状況を考えれば当然のことだと思う。怖すぎる。僕が発見された時のことを後から聞いただけでも、誰だって同じことを考えるだろう。
ところが肝心な僕はといえば、一体何故あそこにいたのか全く思い出せなかった。
本気で、神隠しに遭いそうだったのかもしれない。僕の背筋にだんだんと怖気が走ってきたが、考えないことにした。
町の人々の反応はまちまちで、気持ちが悪い腫れ物を扱うように僕に接する老人もいれば、神隠しに打ち勝ったと縁起物みたいにして僕を祭り上げる老人もいた。同級生くらいは、いい話題のタネとして僕を格好のいじられキャラにしたり、ミサキに泣きついたという噂を聞きつけて、超級に情けない男の代名詞を僕に授けたりしてきた。
父親からは、心配かけさせるなと一発怒鳴られただけで、それだけだった。母親なんてけろっとしている。
一番心配してたらしいミサキは、僕に散々バカバカと喚いた後で、ぐっすりと眠ってしまった。こればっかりは、とても胸が痛んだから、あとで一緒にお祭りに出掛けた時に、何かお詫びをしようと思う。
それにしても、僕はどうしてあんな所にいたのだろう。
思い出せない。
◆
浴衣姿で現れたミサキは妙に可愛くて、僕はやばいなあと内心で焦っていた。そんな僕の気を知ってか知らずか、ミサキは早く行こうと僕の手を取って歩き出す。
お祭りはかなりの盛況で、僕とミサキは人込みに思い切り揉みくちゃにされて、やっと落ち着けた頃にはお互いで2回戦目を交えた後の如くに疲れていた。
「もう、ダメかもしんない……」
ミサキが苦笑いをしながら言う。僕もそれに合わせて小さく笑った。
座れる場所を見つけて、僕達はそこへと移動する。
二人で、買ってきた焼きソバを食べる。買ってから食べられるような場所に着くまでに随分とかかってしまったから、もうかなり冷めてしまっていた。
「でも美味しいよね」
ミサキが笑っているから、それでいいような気がした。でも、正直言って僕には冷めた焼きソバが美味しいとは思えなかった。
食べ終わると、ミサキが僕の肩に頭を寄せてきた。
いわゆるまったりモードに突入したわけだけど、僕にはやらなければならないことがあった。意を決して、ミサキに話し掛ける。
「昨日は、ホントにごめん。どうかしてた」
僕は、頭を下げた。本気で謝りたかった。
「……いいよ。私が悪かったんだから」
「いや、原因はどうあれ、あれは本当に僕が悪かった。本当にごめん」
思い出し始めると、どんどん僕は自分が許せなくなってきた。歯を食いしばって、今はミサキに謝り続けることに徹しようと、拳を握る。
「……うん。分かった。もう二度としないでね。それを約束してくれるなら、いいよ。もう一回やったら、私、ツカサを捨てる」
「…………」
「これで、いい?」
「…………」
「……ホントは怖かったんだから。昨日……」
「……わかった。それで頼むよ」
釈然としないのは、仕方がないかもしれない。本当はどう言って欲しかったのかなんて僕には分からない。ただ、もう僕は二度とミサキを無理矢理に押し倒したりはしない、そういうホントに当たり前な約束が交わされたという結果はあった。
僕達二人の恋愛は、もうこれ以上に発展しないかもしれないし、僕が決定的なものを破ってしまったことで、お互いの距離はこれまで通りにはいかないかもしれない。逆もないことはないかもしれないけれど、それにはきっと凄く時間がかかると思う。
これで、いいんだ。
僕は、どのような結果になろうと、ミサキとこれからも付き合っていくことに決めた。最初はここで別れてしまおうと思っていたけれど、途中で逃げ出したら、それは卑怯な気がした。僕は僕なりの責任を果たすべきなんだろう。
妙にさっぱりとした自分に、僕は少し不思議な感じがした。
花火が上がった。
偶然だけれど、僕達の座っている場所からとてもよく見えた。
僕が間抜けな大口を開けて上を見ていると、ミサキが手を握ってきた。
「私も、もっとこれからは、ツカサに迷惑をかけないように、頑張るから」
「……うん」
「もっと一緒にいたい。お願いだから、ツカサまでいなくならないで」
「…………」
ミサキは寂しかったのかもしれない。自分の前から、当たり前と思っていた人が消えてしまうのが。エイジは、ミサキのお兄さんで。生まれた時から一緒にいた兄妹で。
先に、いなくなってしまって。
僕はエイジが死んだ後の、ミサキ一人には広すぎる部屋の中で、エイジの持ち物が悲しく持ち主の帰りを待っていたのを思い出した。
ミサキは毎晩ずっと、一人でその部屋で眠ることに苦しみ続けてきたのかもしれない。
今でもずっと、ミサキの部屋の中に生きているエイジの形見。それをずっと残しているミサキの気持ち。
それを僕は前に、事もあろうか、早く捨ててしまえばいいのにと思ったことがあった。
僕は、純粋に、エイジに嫉妬をしていたんだと、今はっきりと分かった。
そして、ミサキの中に、僕が越えられないと思っていた壁なんて、最初からなかったということにも。