第七話
「お兄さん、どうしてこんな所にいるの?」
突然の声に、僕はふと我に帰った。妙に高くて子供っぽい、実体を持ったような声が聞こえたような気がする。
「こっちこっち」
ふと見ると、水平になった海の上を、狐を象ったようなお面を被り、白と藍色の甚兵衛を着て、右手には風車を持った男の子が、ひっそりと立っていた。
「お兄さん、生きてるんでしょ。こっちに来たらだめだよ」
男の子は当然のように僕に左手を差し伸べてきて、早く帰らないと、と僕に右手を出すように促した。
「……いや、僕は戻れない。僕はもう、死にたい」
僕は拒む。もう今さら、もといた場所に戻る気にはなれなかった。
「バカなこと言っちゃいけないよ。こっちは逃げてくるような場所じゃない。しっかりとお兄さんは自分の現実に向き合って、それからじゃないとこっちも受け入れられないよ。お兄さんだって、本当にこれでいいなんて思ってないでしょ?」
それは、その通りなのかもしれなかった。これは最悪の選択だと思う。それを自ら望んでやろうとしていたわけだけれど、突き詰めたら迷い始めるから、考えないようにしていただけなのは確かだった。
「僕は……ひどい奴なんだ。ひどいことばかりして。こんな奴に」
「生きる資格なんかないって言うんなら、ぶっ殺すよ?」
あまりにも醒めた声だったから、僕は思わず怯んだ。
「ほら、死ぬのはやっぱり怖い。そんな薄っぺらい覚悟しか持ってない人が来ていいような場所じゃないんだから。ほら、戻るよ」
僕は男の子に連れられるようにして、濃い霧の中を進んだ。霧は既に辺りに遠慮なく立ち込めて、もう前も後ろも分からなかった。ここが海なのかさえも、怪しくなってくる。僕は、本当に異世界に取り込まれてしまったのかもしれなかった。
そう思った途端、今さら怖くなった。
突然、戻りたいと本気で思った。
「お兄さん、戻ったら何がしたい?」
男の子の声が、唯一僕を正気に繋いでいた。この子がいなければ、僕はとっくに発狂していただろう。
「そうだな……。謝りたいかな」
「そっか。じゃあしっかりと謝ってこなきゃ。それだけを今は考えなよ」
謝りたい。そう思った途端に、いろんな顔が頭の中に浮かんだ。親や友達や、ミサキ。僕はやっぱり逃げ出そうとしていたんだと悟った。謝ることも向き合うこともせずに、一人で逃げ出すのは卑怯だと、今はそう思うことが出来た。
「お兄さんは自分がひどい奴だって言ったけど、みんなそんなもんだよ。でも、みんなそこからどうしたらいいかって悩んでる。逃げ出す人もいるし、向き合う人もいる。お兄さんは向き合うことに決めたんだから、最後まで向き合いなよ」
難しい話はこれでおしまいっ、と男の子は初めて子供らしい口調で話を終わらせた。どうにも、自分よりも小さな子供に説教されてしまったことは、気恥ずかしい。死者は子供でも、いろんなことが分かっているのだろうか、などとよく分からないことを僕は考えていた。それくらいの余裕を持てるくらいには、どうやら回復したらしい。
死のうだなんて、さっきまでの僕は、やっぱりどうかしていたんだろう。そう決めることにした。
「ここでお別れだね」
はっきりとした色を持って、大地が目の前に現れた。霧が濃いせいで、この向こうに何があるのかは分からないけれど。
男の子が手を放す。
「このまま進めば、きっと戻れるよ。僕はこれから行かなきゃいけないところがあるから、ここでお別れ」
男の子の声は、少し寂しそうだった。
「ありがとう。本当に」
「ううん。気にしないでよ。あと、最後に重要なことを言うから。ここから先は、絶対に振り返っちゃだめだからね。前を向いて、前だけを向いて進むんだ。何があっても絶対に振り向かないで。絶対だよ。絶対だからね」
妙に念を押してくる。僕はその勢いに気圧されて、意味もなく何度も頷いてしまった。
「それじゃあ、さよなら」
男の子は僕の背中を押すと、一緒に来ることなく、その場に留まった。
僕は前へと進む。
言われた通り、振り返ることなく。
三歩くらい、歩いた時だった。その声は突然、後ろから響いた。
「ミサキのこと、よろしくな」
男の子の声だった。僕は息を呑んで、一瞬振り向きそうになった。
「振り向くな! ――そのままだ。そのまま聞け。」
僕にはそれが、泣き叫んでいるように聞こえた。
僕は前へと進む。
「紅茶、ありがとう。すっごく美味かった」
進む。
「毎年、来てくれて、ありがとう。お前ら、大きくなったよな。お前達は、ずっとずっと、これからもずっと、生きてくれ。生き抜いてくれ」
進む。
「幸せになれよ。いつか本当に幸せになって、どうだっ、て俺に自慢しに来いよっ」
僕は走り始めた。前だけを見て、全力で走る。涙が頬を伝った。
「ミサキを泣かせるなよっ。絶対だからなっ」
声が遠のく。僕は嗚咽を我慢しながら、転びそうになりながら、それでも走った。
「じゃあなっ! 頑張れよっ! じゃあなっ!」
◆
ツカサがいないと聞いて大騒ぎをしたのは勿論ミサキで、最初は軽く考えていた町の人々も、本当に見つからないと気付き始めて慌てだした。
町の老人は口々に言った。これは本当に、海から来た悪霊に持って行かれてしまったのかもしれないと。縁起でもないと諭す人々も、その顔はどこか不安そうだった。実際、この町では夏にそのまま行方不明になる人がいたという記録がちらほらとある。そのことが尚さら、人々を不安にさせた。
ミサキは半狂乱になって探したという。
それを聞いた時、僕は本当に申し訳なかったと、素直にそう感じた。
「ツカサっ! ここにいるのっ!?」
勢い良く開け放たれたドアの先には、ミサキが立っていた。その後ろに、中学の時の同級生が何人か続いている。
僕は小さく、湿った床の上で体を濡らしながら、震える息を連続させていた。
「しっかりして! ツカサ!」
温かい感触が、した。肩を掴むミサキの手が、突然いとおしく思えた。
僕の中で、小さく何かがはち切れて、その直後に嘘みたいな涙が溢れ出した。嗚咽も止まらない。目の前が海の中で目を開いた時みたいに、どこまでも滲む。
「ツカサ……?」
僕は、ミサキを力いっぱい抱き締めた。泣き声が止まらないことも気にせずに。
ミサキは暫く呆けた顔をしていたけれど、その後で僕を優しく抱き返してくれた。