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海送り -sea saw-  作者: est
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第六話


 異変に気付いたのは果たして誰だったろう。

 僕はエイジがこっちへ向かって泳いできているとばかり思っていた。誰かが何かがおかしいと呟くまで、僕は笑顔を浮かべていたりなんかもしていた。

 僕はそのことに気付いた。背筋に怖気が走るのを感じた。

 エイジが溺れていた。

 ……やばい。

 僕はことの重大さを瞬時に理解していたはずだった。誰か、大人に助けを呼ばなくてはいけない。そのことを頭の中では分かっていたはずだった。

 でも、その時の僕に出来たことといえば、呆然と海の彼方を見つめることだけだった。

 助けを、呼ばなくては。

 そうだ、誰かを呼んでこなくては。エイジが、エイジが溺れてしまう。

 エイジが死んでしまう……。

 死んでしまう。

 ……やばい。

 やばい!!

 僕は叫んだ。

 誰か助けてっ!!

 僕の声は震えていて、正しく言葉を紡ぐことさえ出来なかった。それでもやっとの思いで叫んだ声に、触発されたように他のみんなも助けを呼び始めた。誰か助けて、と泣き叫ぶ子供達の声が、海に渦巻いた。

 誰も来ないことに舌打ちをした友達が、助けを呼んでくる、と浜辺に僕とミサキを残して他のみんなを連れて道路へと向かった。

 僕は相変わらず、めくれあがった声で助けて、助けてと繰り返していた。それはミサキも同じだった。早くしないとエイジが……

 エイジが、

 ……エイジ?

 その光景を、僕は見てしまった。ミサキだって見てしまっただろう。

 遠く、取り返しのつかない距離を空けた海の向こう。

 海に沈んでいく、エイジの右腕。

 大人達がやってきた時はもう全てが手遅れだった。

 浜辺にどかどかと大人達が乗り込んできた時、僕とミサキは力なくへたり込んで、意味もない言葉を連呼させながら、泣き叫んでいたという。

 その辺りの記憶ははっきりとしていない。青くて黒い海を前に、泣き叫んだことは覚えている。そこからどうやって家に帰ったのか、それはまるで分からない。


 ──気付いた時、僕は家のベッドの中にいた。

 瞬間、僕は悟った。

 夢だ。怖い夢だ。そうだ、そんなバカな話があるわけない。

 安心しきった顔で、二階の僕の部屋から一階に降りた時、僕を待っていたのは神妙な面持ちの両親だった。

 父親が、降りてきた僕に告げた。

 台風がやって来て海が大荒れだ、と。エイジの捜索が打ち切られたらしい、と。


  ◆


 汗だくになりながら、目を覚ます。

 僕は町役場の、護人用に用意された部屋の中で、一人肩を揺らしながら息をしていた。

 気持ちが、とても悪い……。

 僕は口を押さえながらトイレへと駆け込んだ。


 一気に吐き出すことが出来ても、それは単に食べたものを吐き出すだけのことで、もしも僕が抱えている何もかもを吐き出すことが出来れば、とても楽なのに、と少し思う。

 それはそう簡単に許されることではなかったようで、僕の中には片付けることの出来ないわだかまりが残った。それは、決して消えないものに思えた。

 僕は気持ち悪い汗を滴らせながら、ゆっくりと町役場の窓を開ける。

 護人の仕事をしながら僕の中に浮かんだ一つの案を、決行することにした。そうすれば楽になれるかもと、期待していたのかもしれない。

 逃げ。逃げだと思う。

 窓からこっそりと抜け出して、僕は夜の町を妖怪のように徘徊した。


 夜の海は、恐怖の一言に尽きる。

 地平線と水平線の境界が分からない。そのことが、とてつもない恐怖として僕には映った。波の音も、激しく身震いをさせてくるばかりで、僕に安らかなものを与えてくれることはなかった。エイジの命を奪った、憎らしいはずの海。僕はあの日以来、海に入ることが怖くて出来なくなってしまっていた。海は僕からもあらゆるものを奪ってきた。

 そんな怖い海も、僕には今、とてつもなく愛しいものに思えていた。目の前のそれが怖いものであることが、ただひたすらに嬉しかった。


 ――こいつなら、きっと。


 僕は浜辺を下り始めると、押し寄せる波を手で掬ってみた。

 ねっとりと纏わりつくように、指と指の間から肘へと雫が抜ける。妙に冷たく思えた海の水も、その頃には体温と同じだった。

 僕は、その時、意を決した。

 こいつなら、きっと、僕を殺してくれるだろう。

 海へと進む。

 ざぶざぶと音を立てながら僕は海へと向かって歩き続けた。不思議と、恐怖はなかった。ただ、安らかな思いでいっぱいだった。

 進みながら、僕はいろんなことを吐き出してしまえる思いがした。

 荒れ狂う海に向かっていくエイジを、止めることが出来なかったこと。それ以前に、あの頃から僕がエイジに密かに抱いていた、嫉妬と羨望。

 ミサキを犯そうとしたこと。こんなにもミサキが大好きだというのに、彼女を悲しませることしか出来ないような自分。独り善がりの醜い塊。

 僕はこれから、一体どれくらいのものを失って、どれくらいのものを奪い続けるのか。それを考えた時、僕は生きていくことが虚しくなった。誰にも何も与えられず、与えられたものは失い続け、そして他人からは奪い続ける。そんな自分は死んでしまえばいいと、心からそう思えた自分が、最後まで悲しかった。

 海の水は、腰まで浸かり始めていた。


  ◆


 その時だった。

 僕は無数の人影が、海から浜辺に向かって登っていくのを感じた。それはぼんやりとした影で、視界の端にちらつくような、そんな不透明な像を象っていた。

 辺りに霧が立ち込める。明らかに異形の世界だった。

 でも僕は、きっとここはあちら側の入り口だと妙に安心した気持ちで、その場にいた。海の水はもう、胸の辺りまで達している。この時、僕は海に全く波がなくなっているということに、やっと気付いた。

 僕は確信した。これで、向こう側へ逝ける。

 僕は笑っていたと思う。




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