5.あふれる焦燥感
学校と言うものがこれほど嫌と思えたのは初めてだ。
お兄ちゃんとの接触は色薄くなり、代わりに他人との交流が増える毎日。
嫉妬、羨望、不安、切望、怒り、心配、色んな感情が芽生え渦巻いてゆく。
家だけではお兄ちゃんとの色好い生活は送れない。
朝には女狐の彩音が現れ、学校では休憩時間か放課後しかお兄ちゃんには会えない。おまけに実行委員に選ばれて、無駄に時間を費やすことになって、もう散々な毎日になっている。
取り分けて不愉快なのは同じ実行委員の羽野索の存在だった。
こいつと会って以来、お兄ちゃんに会いに行ける機会がめっきり減って、お兄ちゃんをあの女狐から守れる時間が無くなっていった。
これは由々しき事態なのだ。早々に考え直さなければ、いつに経ってもお兄ちゃんと結ばれて彩音も消えてすっきりさっぱりゴールインでハッピーエンド――では終わらない。
いったいどこで間違えたらこんな不可解で不愉快な結果になるのだろうか。
私は普通にお兄ちゃんが大好きでお兄ちゃんと結ばれたいだけなのに。
抱えた自分の腕に爪を立てて力を込める。
「……っ」
歯を食い縛り、歯軋りする勢いで血の味を噛み締める。
どうにも自分は運が無いようだ。
だがどうしても悔いが残る。
お兄ちゃんに会いたい、甘えたい。お兄ちゃんとの大切な日々が、思い出が……段々と雲隠れして無くなってしまうようで……怖かった。
泣いてる私を優しく頭を撫でてあやしてくれたお兄ちゃん。私の甘えに照れて、でもちゃんと答えてくれた優しいお兄ちゃん。
敵対して関係が歪だった頃からお兄ちゃんを見てきた、知っていた。
だからこそ、自分以外の誰かに取られるのが嫌で嫌で堪らなくて……私だけのお兄ちゃんと言う自己満足と自分勝手な独占欲が心を支配して、どうしても我が儘になってしまう。
お兄ちゃん。お兄ちゃん、私のお兄ちゃん。
血は繋がっていて、それでも好きで、愛していて……お兄ちゃんと言う枠としても、一人の妹として大好きで、一人の女としても大好きで、もう離れたくない、喧嘩ばかりの日々からようやく脱してこれから素直になって行けると思って……なのに、こうもうまく行かないなんて……すごく辛いし苦しいよ……お兄ちゃん。
終始お兄ちゃんのことばかり考えてしまう私だけど、お兄ちゃんは私のことを考えていてくれてるだろうか……?
もしそうなら、私はすごく嬉しいのに。
同じクラスで、席も近くの森田彩音が忌々しくも羨ましくて……もう、わけがわからないよ。
放課後、雨が降る窓の外を見ながら黄昏ていると、声が後ろからした。
「いたのか、村井千那」
「……あんたか」
「あんたではない。俺は羽野索と言う立派な名前がある。村井千那もそうだろう」
「……私は」
千那。それは親が付けてくれた、大切な名前。
千のように大きく、美しくやすらかに育つように……そんな意味が込められている。
那の意味的には確か違うけれど、ゆとりとかたっぷりあるとか、大きな心の中にたくさんの詰め物をする、みたいな意味があるのかな?なんて思う。それが清らかな子になってほしい感じになって……みたいな。
そしてお兄ちゃんも千と言う同じ名が入ってる。それが嬉しくて、愛おしい。
「……羽野はなんか悩みが無さそうでいいね」
「あるぞ」
雨と言う鬱になる対象がある中、気まぐれにポツッと言った言葉だった。
それを否定したのは本人である羽野索だった。
「俺にだって、悩みはある。それも……大事な」
いつもとは違う態度で暗い声を出す。
なんか調子が狂う。
いつも突っ掛かって来て、その度に軽い口喧嘩のようなものをして……だけど、今はなんか違った。
どこか紳士的な、そう。ビニルの白い傘を借りた時とそっくりな態度で……。
「村井千那、お前はここで何をしている?」
「……見てわからない」
「わからないから訊いているのだが」
ぶっきらぼうにそう言うと、呆れたような声が返ってきた。
呆れたいのはこっちだし、溜め息だって吐きたい。毎度よく私の邪魔しに来るな、と。
「……お兄ちゃんに会えないのを嘆いているの」
「あぁ、そういえば村井千那には兄がいたな。確か千勢だったか」
「そうだよ。どっかの誰かさんのせいで最近なかなか会う機会が出来ないんだ」
「その誰かとは、実に意地が悪いようだな」
あんただよ!皮肉混じりに言ったのに、なんでわからないの!
と言うか、なんでこんな話をこんなうざい奴にしてるんだろ。
もう、これとなく不愉快極まりない。
「もういいでしょ。早くどっか行って」
「?どうした。機嫌が悪いようだが、俺が何かしたか?」
「したよ!もう最初から最後まで邪魔で!鬱陶ししくて!これ以上なく大っ嫌いだよ!!」
心当たりがないみたいに言わないで!
これでも私は傷付いてるんだ!
「……そうか。それはすまなかった。なら俺はこの場を今すぐ去ろう」
寂しそうな声音だった。
だが一番寂しいのは私だ、お前ではない。
「だけどこれだけは覚えてくれ」
教室を出る間際、顔だけ振り返り言った。
「俺は村井千那のことは、嫌いではない」
と。
それだけ言い残し、出て行った。
私はやり場のない、よくわからない感情に苛立って机を叩いた。
その時の手の赤い痣の痛みは、心にじわじわと染みのように滲んで蝕んだ。