4.これは悪夢で
昨日の放課後に借りた傘を返そうと朝早くに家を出た――なんてことはなく、どんよりと曇る空の下でいつも通りにお兄ちゃんと手を繋ぎながら歩いていると、これまたいつも通りにお兄ちゃんを狙う女狐の森田彩音が姿を現した。
「おはよう!今日も二人仲良しだね」
「森田さん、おはよう!」
「……おはようございます」
私もいつものように不機嫌オーラを出した営業スマイルであいさつを返す。
仲良しなのは事実なのは認めよう。手を離すのはお兄ちゃんが人に見られるのが恥ずかしいからいいだろう。
……だが。なんでいつもいつも偶然を装った風に出て来るのっ!!
そして平然とした顔でお兄ちゃんにあいさつをして……丸っきりストーカーじゃんっ。絶対に待ち伏せしてる――!
純心なお兄ちゃんはそんなこと疑いもしないだろうからいいけど、この女狐はお兄ちゃんにまとわり着く害虫でしかない。
こんなに毎日毎日毎日顔を合わせるなんて、偶然じゃなくて必然としか思えないってば。
なのに当人は、
「あはは。偶然だね、村井君!」
「そうだね。ほんと、偶然だね」
なんて言ってのほほんとしてるし!
お兄ちゃんは鈍くて気付かないし。
こんなストーキング行為をする女狐からお兄ちゃんを守るのは、妹の義務であり私のお兄ちゃんへの愛だ。これは必要なことであり害あるものの区別が出来ないお兄ちゃんを守るのは当然なことなんだ。
偶然じゃなくて朝からスタンバってるのが見え見えな彩音の行為は私にとってはただ有害で百害あって一利無しなのだ。
「今日も一降りきそうだね」
「うん。今日も洪水確率が高いし、気を付けた方がいいかもね」
お兄ちゃんと彩音が隣立って歩く。
私はあえてお兄ちゃんの隣ではなく、後ろを歩く。そうした方が彩音の不審な行為が見抜けるからだ。
「――あ。千那ちゃん、今日は傘持ってるね。よかった」
「……あ、はい」
違うよ!いつもちゃんと持ってるよ!
昨日はたまたま忘れただけだし、いつもはちゃんとばっちり鞄の中に携帯してるんだから!
「あぁ、これは借り物みたいなんだ。千那はお気に入りの傘があるから、大丈夫なんだよ」
お兄ちゃんはお兄ちゃんで優しく説明して教えてあげてるし!
なんかやる背ない!
イライラする!今からでも殴ってやりたい!
なんでもいいから八つ当たりしたいきぶんだよ――!
「そっか。じゃあ折り畳みなんだ。それなら安心だね」
お前にだけは言われたくないよ!
いつもヘラヘラして!
言っとくけど、私と彩音は敵同士なんだからね!?
目に力を入れて視線を送る。
それに対して苦笑しながらもお兄ちゃんと会話を続ける彩音。
あー……今すぐにでもカッターで首元カッ切ってやりたい!!
私のドス黒い感情は彩音の出現によりウジ虫のように涌いて出た。
放課後、私は実行委員として学校に残ることとなり、集合場所である空き教室に早く来て待機していた。
各クラスの実行委員が集まっての説明会。
それが集まる理由。
私はお兄ちゃんに一時でも会えない苦痛に耐えながらここに来ている。
……今お兄ちゃんは何してるのだろうか。彩音に何かされてないだろうか。告白はされてないよね?あっちも私の気持ちに気付いているはずだし、何かしらアクションがあってもおかしくはない。
ない、はずなんだけど……。
「……心配だよ。お兄ちゃん」
「なんだお前。お兄ちゃんとかぶつぶつ言って、キモいな」
呟いた時だった。上から失礼な台詞が降ってきたのは。
例のうざいガキだった。
なんでこいつがここに……!
私は身構えた。
「ここに居るってことは、お前もか」
「……もって、あんたも実行委員?」
「そうだよ。文句あっか?」
あるよ!文句ありまくりだよ!
なんでよりによってこいつと一緒なのっ!?ありえないありえないありえないありえないーっ!!
吐き気がする。全身の鳥肌が立って警戒体勢となる。
「ならここでいいや」
そう言って私の隣に座る。
「――っ」
なんでそこなの!何がしたいのさ!
お兄ちゃん成分が足りてない今、この状況は甚だ疑問で不快である。
「……なんで隣に座るの。まだ他に席はあるでしょ」
「あ?別にいいじゃねぇか」
私が嫌なんだ!
「特に指定はないし、それに同学年が固まってた方が欠席取りやすいだろが」
そんなことすこぶるどうでもいい!
それより、早くこいつから離れたかった。
「なんだ、これ」
「……昨日の傘、まだ返してなかった。だから返す」
ぶっきらぼうに言ってやる。
「はあ?傘?オレはお前になんて貸して――そっか。さんきゅ」
意味わからない発言をして、何かに気付いた様子で傘を受けとる。
「その様子だと、濡れないで帰れたみたいだな」
「……お陰様で」
皮肉の一つでも言ってやりたかったが、生憎私のボキャブラリーは豊富ではない。
「……あとね、」
「んあん」
「お前お前ってうっさいのよ!私のことは村井千那って名前がちゃんとあるんだから!」
言いたかった。言ってやりたかった。
そんな気持ちが流行り、大声を出してしまった。
「あぁ、わかった。じゃあこれからはお前のことは村井千那と呼んでやろう。それでいいだろう?だからもうちと声を落とせ。お前のせいで注目されてる」
「――んなっ」
周りを見る。すると、いつの間に来て居たのか、教室に居た人達は全員こっちを珍しい動物を観察するかのように見ていた。
――くそっ、くそっ
暴言を心で吐き捨てる。
こんなはずじゃなかったのに……お兄ちゃんとの学校生活が、甘いトキメキ青春メモリーが……こんな所で躓くはずじゃなかったのに!
恥ずかしさと憎悪と嫌悪が胸の内で暴れ回り、黒い感情が渦巻いて後悔が浮き出る。
お兄ちゃんとの甘い学校生活は、嘘のようにあっと言う間に崩れ去ってゆくのを、肌で感じて吐き気と掻き毟りたい衝動に駆られた。