[はじめに痛みがあった……]
はじめに痛みがあった。それから響きが。光と闇、それに暖かさと寒さがあった。響きは確かに何かを意味していたが、何を意味しているのかは分からなかった。それは言語であったが、それは言語ではなかった。それは女性の声だった、暖かい音楽だった。あるときは聞こえ、別の時は聞こえない。それが聞こえる時は、ただその声に耳を傾けるだけでよかった。それだけで世界の窓から幸福な風が吹き抜けた。だがそれは何も意味しなかった。心地よい、ただそれだけだった。光と闇はこの声の世界に別の秩序を導入した。光は好奇心をかきたて、闇は精神の停止を要求した。光と闇の緩慢なリズム。すべてが子の上で生起し、沈んでゆく。それは世界の法則だった。またあるときは寒さがあった。その前ではあらゆる暖かさは影をひそめ、世界には吹雪が、嵐が吹き荒れた。それはあらゆる意味で世界の破壊者だった。とはいえそれが世界に訪れることは殆ど無かった。暖かさは所与だった。世界は光と闇、それに声の響きから構成されていた。世界は完全だった。
だが、光と闇が数十回交代を行った頃から、この世界はほころびだした。まず倦怠が世界を覆った。光と闇のリズムも声の響きもこの倦怠の前には無力だった。世界の破壊者だった寒さだけがこれを解消する術を持っているように思われた。とはいえ寒さはまた別の種類の不幸だった。それに世界は寒さを呼び寄せる術をまだ持っていなかった。次に意味が訪れた。それは声の響きに別の次元を与えた。声はもはや純粋な響きではなくなった。それは明確なひとつの悪意を持って世界に接した。それは世界のいたるところに穴をあけた。穴からは死者の呪うような声が浸み出してきた。こうしてわずかに残っていた声の響きの心地よさは完全に失われた。世界のいたるところで悪意に満ちた声を聞かなくてはならなくなった。声が存在しない時もあったが、その時の世界は代わりに倦怠や寒さに満ちていた。
こうして幸福な世界は消滅し、悪意と倦怠の嵐の中で言語を学ばなくてはならなくなった。それが世界を再生させる唯一の方法だった。じっさい、それは倦怠を遠ざける方法であると同時に世界の穴を埋める行為でもあった。言語によって死者たちを呪い返す、そうすることで世界のほころびは修復されるのだった。とはいえそれは一時的なものにすぎなかった。というのは、次から次へと新しい言葉が世界に侵入してくるからだ。それらに対抗するためには常に言語を学び続ける必要があった。
だが言語を学ぶにつれ、世界は複雑な様相を帯びてゆき、はじめとは似ても似つかぬ形態をとった。そこにははじめにあったようなリズムや心地よさが存在する余地はもはやなかった。世界にできる穴をいくら埋めても、世界の完全性はつかの間も回復しなかった。こうして自分自身もまた終わりのない呪いの言葉をばらまく死者になったのだった。それが全ての人に課せられた運命だった。