留学生ロウ【C-AnotherEpisode.01】
マイクのスイッチをオフにする音が講堂に鳴り響き、講師は静かにドアを閉めて出ていった。
それまで聞こえていたシャープペンを紙に走らせる慎ましやかな音はシャットダウンされ、講堂は一気に賑やかな音に溢れる学生達の憩いの場となった。
「なぁ、蘭。さっきの現在形で未来を表すってのがよくわかんねーんだけど…じゃあこっちは何なわけ?」
「あー、そっちは合成未来じゃね?未来形に動詞の不定形を付けてってやつ」
「あーっ!!!わっかんねー!!!ロシア語なんか選択すんじゃなかった!!!」
大樹は喚きながら参考書を机に放り出し、頭をバリバリと掻き毟っている。
「お前はいいよなぁ…以外と勉強できるしこういうの得意そうだもんなぁ」
「以外とって何よ以外とって。大ちゃんは勉強する時間を筋トレに割いてんのが原因だと思うんだけど」
大樹はうるせー、と机に突っ伏し抜け殻のようになっていた。
そんないつもの光景を流しつつ蘭は次の受講のために参考書を片付け始めた。
ああ、そろそろ来るかな…そう思案して。
「お疲れーっす!!」
ほら来た。
2人の背後から数人の友人達が声をかけてくる。
友人の一人が蘭の背中にのしかかり、妙にニヤニヤした顔を近づけてきた。
この顔はもうアレしかないな、と蘭は確信する。
「シノさぁ、今週末空いてない?ついでに向島も」
「どうせ合コンだろ?パスパス。つか、俺バイト入れてるし」
「俺もパスだな。妹の面倒見ないとだし。あと”ついで”ってのが気に食わん」
即答で2人に断られ、友人は落胆した表情でに後ろ頭をポリポリと掻いている。
大学に入ってから合コンの誘いを断ること通算10回以上になるがこの連中は本当に懲りないものだと蘭は思った。
どうせ数合わせに決まってるし、仮に出会いがあったとしても今の蘭は恋愛などする気にはなれなかった。
「まいったなー…じゃあ、さぁ…”アイツ”誘ってみてくんねぇ?」
蘭は友人を見上げた。
いつもなら「付き合い悪いなー、じゃあ次頼むぜ!」なんて言ってすぐに去っていくのだがこのパターンは初めてである。
「アイツって誰だよ?」
友人は周囲をキョロキョロと見回すと小声で蘭に耳打ちしてきた。
「ほら、アイツだよ!例の”留学生”!女の子ってあーゆーミステリアス系好きじゃん?」
”例の留学生” 蘭はすぐにピンと来た。
同じ1年に中国からの留学生がいる。
艶やかな黒髪に珍しい金色の瞳を持つ神秘的な少年だ。
時々同じ講義に出ているのでちょっとだけ話したことがある。
しかし彼はあまり会話が得意でないようで話が続く事は殆どなかった。
周囲は彼を物珍しい目で見ており、女子に至ってはファンクラブなるものまで作っているようである。
彼に話しかける者の大抵が好奇心や野次馬精神で、蘭にもそういう気持ちが少しだけあったことは否定しない。
でも一番気になったのは彼が”いつもひとりぼっち”だった事だ。
蘭は窓際の端の席に目を向ける。
その席で”例の留学生”は今も独り、ノートの書き取りをしていた。
「なっ?頼むよ!お前たまに話してんじゃん?」
友人は蘭に向かって拝むように両手を合わせた。
「…自分で誘えよ。だいたい俺だってそんな仲良いってわけじゃないしさ」
「えっ…だ、だってさぁ…」
友人達は互いにちらちらと視線を合わせると再び蘭に耳打ちしてきた。
「アイツ話すとき超ガン見してくんの。マジ怖ぇんだよ。睨まれてる気がしてさー」
怖いと思う相手を女の子ウケのためだけに誘おうとか考えてるほうがどうかしてると蘭は内心呆れていた。
確かに何度か話したとき彼はこちらの目を真っ直ぐに見つめていた事を思い出す。
他の連中はどうか知らないけれど、蘭はその目に不思議と”信頼”を覚えていた。
きっとその目と同じように気持ちも真っ直ぐな人間なのだろう、と。
そんな彼に対して不誠実な事はしたくない。
「とにかく、俺はヤだよ。どうしても誘いたいならそれを試練だと思え!」
「うわっ!冷てー!! いいよもう…諦める、諦めますよー」
友人達は足りない面子をどうするか頭を抱えながら講堂を後にしていった。
蘭はひとつ溜め息を吐くとよだれを垂らして半分夢の中の大樹を揺さぶった。
「大ちゃーん、次移動だよ」
「ふがっ!?…お、おう」
「あれっ?おかしいな…」
用意したテキストの中に必要なCD-ROMが1枚足りないことに蘭は気付いた。
参考書なら大樹に頼んで見せてもらえもしたが、CD-ROMとなるとそうもいかない。
「大ちゃん、ちっと待ってて!」
まだ寝ぼけまなこの大樹をその場に残して蘭は窓際の席へと駆け寄る。
「ロウ、悪ぃ。英語Ⅱのロムあったら貸して! …あっ、てかお前も次英語?」
ロウと呼ばれた”例の留学生”は真っ直ぐに蘭の目を見つめた。
「いいよ、次、日本語だから…」
「そ、そっか、サンキュ!ってかお前十分日本語上手いよ?」
さっきの友人達とのやりとりのせいか蘭は妙に緊張してしまう。
手に変な汗かいてないかなんて気にしながらロウからロムを受け取る。
「あれ…?ロウ、その手…」
蘭はロウの華奢な手に似つかわしくないものを見つけた。
差し出されたその手にはマメのようなものがいくつかできていた。
ロウは蘭にロムを渡すと隠すでもなく自然に手を仕舞った。
「…弓、やってた、から」
「そ、そうなんだ。へー」
「らーん!もう時間ねーぞー!」
すっかり目が覚めた大樹の呼び声で会話は遮断された。
「あ、じゃあ次の休憩に返すよ。ありがと!!」
蘭は後ろ頭にロウの視線を感じながら大樹の元へと駆けていった。
少しだけもやもやしていた。
ロウ…嘘吐いた?
友人達が言っていたように彼は誰と話すときでもその目を真っ直ぐに見つめてくる。
だけど。
弓をやっていた、と口にしたその時ロウは目を反らした。
今まで何度か会話した中で初めての事だった。
実は逆上がり出来なくて密かに練習してますとか、体鍛えたくてこっそりダンベルやってますとか、本人にとってのちょっとした恥ずかしい理由なのかもしれない。
そう考えられなくはなかったが、その時の蘭は無性に気になっていた。
あのロウが、バレるような嘘吐いてまで隠したい事って何なのだろう。
それを蘭が知るのはもう少し先の話。