第1話 俺の人生とは
キキーッ!!
都内某所。昼下がりの暑い中でのとある交差点。俺──優雅が横断歩道を渡っていたとき、急なブレーキ音が左耳から聞こえてきた。振り返ると、目と鼻の先までトラックが迫っていた。視界に入るものはすべて──街行く人も、道路を走る車も──見える限りの世界が、まるでフィギュアで作られた世界であるかのように静止していたのだ。
あ、終わった。俺はこの時、すべてを悟った気がした。
そして──。
ドォォォンンン!!!
凄まじい衝撃に備え、俺は反射的に両手で顔を覆った。
──だが、いつまで経っても痛みは来ない。
恐る恐る目を開けると、トラックのフロントガラスが俺の鼻先に触れる数センチ手前で、ひしゃげたまま止まっていた。
「……動いて、ない?」
飛び散ったガラスの破片が空中で静止し、周囲の喧騒も消え失せている。
唯一動いているのは、俺の鼓動と、俺の体だけ。
そして、視界の端にスマートフォンの通知のような「文字」が浮かび上がった。
『条件達成:固有スキル 冥界拒絶者を解放します』
──────────────────
次に俺の鼓膜を叩いたのは、アスファルトを削る音ではなく、低く一定のリズムを刻むファンの回転音だった。
部屋を照らしているのは太陽の光じゃない。遮光カーテンの隙間から漏れる薄明かりと、デスクに並んだ三枚のモニターから放たれる青白い光だ。
そこは、音楽と文化のまち、メリジューヌ。
魔法さえもが情緒豊かな楽譜として紡がれる美しい国。だが、この部屋で一人モニターに向き合う俺──ユウガにとって、街の情緒なんてものはどうでもいいことだった。
「……ここ、ベースが少し重いな」
俺は独り言をつぶやき、手慣れた動作でトラックパッドをなぞる。
静まり返った室内。トラックパッドを指が滑る音に混じり、カチッ、コツッ……と、俺の爪が重なり合う繊細な音が規則的なリズムとなって響く。
モニターには、この国独自の魔導合成ソフトの波形が複雑に重なり合っていた。
爪先の乾いた音を響かせながら波形を切り取り、滑らかにフェードをかける。キーボードを叩く指先に、トラックの前で顔を覆ったあの時の震えはもうない。
「よし、これでいい」
ヘッドフォンを装着し、再生ボタンを押す。スピーカーから流れる重厚なビートが、部屋の空気を震わせた。
今の俺にとっての世界は、モニターの中に広がる無限の音階と、指先から生み出されるメロディ。それだけが、この街で俺が呼吸するための唯一の座標だった。
「んー、休憩すっかぁ」
くるりと振り向くと、小型の冷蔵庫が「ブゥゥーン」と音を立てていた。その正面には、俺が描いた「まん丸お目々」が貼ってある。冷蔵庫の振動に合わせて、それが嬉しそうにプルプルと震えていた。
「……相変わらずいい顔してんな、ぴの」
なんだか自分の作品を褒められたような気がして、思わず口角が上がる。
扉を開けると、真っ白な冷気がなだれ落ち、俺の足首を心地よく冷やした。中から取り出したのは、キンキンに冷えた赤い紅茶のビンだ。
「ひー、ちべたぁい……けど、これこれ」
ビンをデスクに置き、金属製の缶切りを縁に引っ掛ける。
「んっ、……よし、そこだ」
テコの原理でぐっと力を込めると、ギチ、ギチッ……という重厚な封印の感触。最後の一押しで、シュポォォッ!という勢いのある音とともに圧力が解放された。
透き通ったガラスのコップに、ルビーのように輝く赤い液体を注ぐ。
一口、その喉越しを求めて喉を鳴らした。
「んー、やっぱこれっすなぁ」
茶葉の開き具合や色の濃さを見て、そんな「物語の構成」にまつわる感想を抱いてしまうのは、この街の住人としての性なのか、それとも俺自身のこだわりなのか。
数ある茶葉の中でも、俺はこの『ノーズシャドウ』という銘柄にだけは目がなかった。
淹れ方一つで、ある時は歴史ある古書のように重厚な深みを見せ、ある時は研ぎ澄まされた刃のように鋭く鼻腔を抜ける。この茶葉を自分だけのバランスで整え上げる時間は、白紙のキャンバスに色を重ねていく感覚に近い。
最後の一滴までその赤い雫を味わい尽くそうと、コップを口に運び、一気に喉へ流し込んだ。
その時だった。
「あらー、大人の感覚で紅茶ですかー? 私にもぜひ一口お恵みをー」
窓から慣れた声がした瞬間、俺の口の中の余韻が一気に鈍くなった気がした。顔も瞬時に引き攣ったように強張る。
名前は言われなくてもわかるこの可愛い声。そしてハーブアロマの匂い。こいつ...!!
「あのー。ユナさん? 窓から来るなって言ったよね?」
振り返れば、窓枠にひょいと腰掛けたユナが、悪びれる様子もなくニコニコと笑っていた。彼女の周りから漂うハーブの香りが、俺が心血を注いだ『ノーズシャドウ』の繊細な香りを遠慮なしに蹂虙していく。
「固いこと言わないでくださいよー。あ、それ大好きなやつですよね? 瓶の封印を開ける『ギチギチ音』が聞こえたから、つい」
「……あんなに苦労して開けたのに。なぁユナ、俺、今から一気に泣いてもいいか?」
「えー、泣くほどですかー? 私という可愛いゲストが来たんですよ、むしろ嬉し泣きしてくださいよー」
「嬉し泣きどころか、絶望の涙で紅茶がしょっぱくなりそうだわ」
俺は手に持ったコップを宝物のように抱え込み、必死の抵抗を試みる。
「もう、一口だけだよ? 本当に、一滴でも過ぎたら窓から放り出すからな」
「やったー! さすがユウガさん、器が海より深いー! あ、ついでに氷多めでお願いしまーす。ロック、ロックで」
「……誰か、俺に静寂という名の魔法をかけてくれ」
俺は深い、深いため息をつきながら、冷蔵庫の「ぴの」と目が合った。心なしか、あいつも「災難だな」と哀れみの眼差しを向けてきている気がした。
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