第三話:EVIL
久しぶりに夢を見た。遠い遠い、昔の夢だった。
それは、ある日の夕景。
私は部屋に入り込むそよ風に頬を撫でられながら、暖かい陽がさすベランダで話し合う父さんと母さんを見ていた。
この二人、特に父さんは私の生き方を肯定してくれていた。母さんにはやりすぎだと叱られることもあったが。
そばにあった柔らかいベッドに腰かける。いつもこのベッドで、誕生日に買ってもらったバットを抱いて寝ていたっけ。
「那由多…けっこう問題起こしてるらしいけど、大丈夫かしら…」
「はははっ。いいんだよあれで。子供は元気な方がいい。なんたって俺に似てるからな。きっと大物になるぞ~」
「はぁ…確かに似てるわね。でも、あなたと同じ道を行くように強制はしないでよね?」
「"無数の可能性を持ってる子"なんだから…」
夕陽で目が焼けたのか?熱くなった目頭を指で拭う。
そして、久しぶりに父さんの横顔を見て、ふと思った。
こんなにもやつれていたっけ…?
妄想なのか記憶なのか曖昧だが、そういえば確かに、行方不明になる日の直前あたりの父さんはいつもより元気がなかったかもしれない。
目を合わせて話してくれなかったし、ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。
以前、食事を届けに父さんの部屋に入ろうとしたが、穏やかに、しかし断固として拒否され、追い返されたのを思い出した。
やはり、デモの前日だったから、相当追い込まれていたのだろうか…?
わからない。とりあえずもう一度まぶたを閉じ、目頭をつまむ。
再び視界を開くと場面は入れ替わり、今度は校庭にやってきた。
地平線に沈みゆく光を鈍く反射する鉄棒。そのそばに、幼いころのルセカが立っていた。
そよ風に黒い髪をなびかせて、沈みゆく陽光がその滑らかでさらりとした毛束を照らしている。
「ナユタちゃんってさ、思ったこと何でも言っちゃうよね」
十歳くらいの時、一匹狼を気取っていた私に彼女がかけた初めての言葉だ。
最初は何だコイツ、喧嘩売ってるのか?と思ってむっとした。が…
「羨ましいなぁ…」
「え?」
「…うぅん、何でもないの」
よくわからない子だなと思った。馬鹿にするでもなく、喧嘩を売りに来るでもなく、ただ羨ましいと一言残して、彼女はどこかへ去っていったのだ。
忘れたいのに、忘れられない。
彼女の記憶をいくら抜こうとしても、それは泉のように無限に湧き上がって心を溺れさせる。
それもそのはずだ。何せルセカは、私に"助けられたから"仲良くしてくれたのではない。
荒っぽくてキレやすく、両親以外の誰からも毛嫌いされていた私に、分け隔てなく接してくれたのだ。
不思議な人もいるものだと思っていた。私の思想を話しても、真剣な表情で頷いて聞いてくれるのだから。
そういえばその後、何か言われたような気がする。
何か、大切なこと…
思い出そうと努力しながら、小さな後ろ姿がさらに小さくなっていくのをただ見つめていると、今度は後ろから肩を強く掴まれる感覚があった。
恐る恐る振り向く―。
そこには、私と同じくらいの背丈になり、涙と怒りが滲んだ瞳で見つめてくる彼女の姿があった。
―ああ、あの時こんな目をしていたのか。
「こんなこと…する人だなんて…思ってなかった………」
「…この、人殺し」
嫌だ嫌だ嫌だ、やめてくれ…!もう過去は消し去ったんだ。…そうだよ、オレは人殺しだ!悪魔だ!生まれ変わったんだ…
―――何をしたら許されるんだろう。
「―ダァァァッ!」
目が覚めた。悪魔が悪夢を見るなんておかしな話だが、ようやく地獄から抜け出せた。
酒と煙草の匂いが漂う中で、ふかふかのベッドに寝転がっていた。恐らく、バーの裏部屋、つまりメイリーンの住処で手当てを受けていたらしい。
そして、その部屋の主はヒールをコツコツと鳴らしながら裏部屋に入ってきた。
「それだけ大声出せるなら元気そうね。ほんと無茶するんだから…」
「お嬢!いやぁさすがだねぇ!生還記念にお腹ちょっと触らせて…イデッ!」
隣に突っ立ってるクロトにおはようの腹パンを決めてやった。
「ハニーにならいくらでも触らせてやるけどテメェはダメに決まってんだろ。それより、アイツはどうなったんだ?」
腹を抑えて呻いていたクソ医者が急に立ち上がって、意気揚々と話し始めた。
「お嬢の一撃で動かなくなったから、その隙に俺が麻酔をブスッとお注射してやったのよ!原液で使ったから死んだなありゃ!」
「お前そんな危なっかしいもんどこに入れて持ち歩いてんだよ。ていうか、手術の時もそれ使ったんじゃねぇだろうな…」
クロトはオレの言葉など気にも留めず、デカい口を開けて唾を飛ばしながらガハガハ笑っている。こんなヤツのクセに結構活躍するから、余計に腹立たしい。
そして、オレは最も気になっていたことについて質問する。
「お姉さんは?」
すると、"ここにいるよ"と言葉を発するのも面倒くさいとばかりに、煙草を吹かす音が聞こえてきた。
「よかった~。まだ残っててくれたんだ。オレのこと心配してくれてたの?」
彼女はもう一度煙草を口元に近づけた後、今度はさらに大きく、まるでため息をつくように煙を吐いた。
「…私が用あるのはこっち」
煙草を持つ手で指し示したのは、小汚いデブだった。
「お、俺ェ?」
「おいクソ医者ァ…テメェお姉さんとヤる約束でもしてんじゃぁねぇだろうなぁ…?」
「違う違う!ドラッグ・ドリンク百缶に懸けて違います!…でも、よくよく見たらすんごい格好だよね。コートが汚れてるからギリギリ見えてないけど…あとで"検診"させてほしいな…」
クロトの気色悪い解剖癖発言など気にも留めず、お姉さんは寄りかかっている壁から背を離し、事情を話し始めた。
「…ここにピルを売ってくれる医者がよく出入りしてるって聞いたから、買いに来た。たぶん、彼がそうなんでしょ?」
「なのに、こんな騒動に巻き込まれたから、事が収まってから話しかけることにした。ただそれだけ」
「ピ、ピルってお姉さん、何の…」
「避妊薬」
淡々と放たれたその言葉は、怪物を弾き飛ばした時よりも大きな衝撃を全身に走らせた。
「なんでそんなもの…」
「私、地下の娼館で働いてる。明日に特別な仕事があるのに切らしてたから、安くて信用できるって噂の彼に会いに来た」
娼館だと?
オレからすれば、そんなところで働く意味がわからなかった。
「それ、好きでやってるのか?」
少しうつむいた後、彼女は続けた。
「…まあ、楽しくはないよ。でも待遇は悪くないし、どのみち辞めたくても辞めさせてくれないだろうし」
「辞めさせてくれないってどうゆうことだよ」
彼女は煙草を口に近づける手を止め、半ばためらいつつも話を続けた。
「私んとこの"ボス"は、私みたいな能無したちを監禁して、体で稼がせてる」
「でもお姉さんは出歩いていいの?」
「…なんか気に入られてるんだよね。あそこに連れ込まれてから四、五年経つのに、まだ頭がイかれてないからとかで」
「まぁ、自分の運命を受け入れただけなんだけどね。皆はそれができないみたい」
眉一つ動かさず、吐息混じりの低く穏やかな声色も変わらない。
しかし、その言葉は今までのどの言葉よりも冷たく、哀しみに満ちているように感じた。
オレが言葉を探している間に、今度はメイリーンが口を開いた。
「もしかして、"LET IT DIE"で働いてる?」
「…そう。よく知ってるね。まあ地下では有名な方か」
「な、何だよそれ…地下ぁ?」
「ここの客から聞いたことがある。まあ簡単に言えば、ある組織が経営支配してる娼館だね。その組織っていうのが、最近地下街の権力闘争で台頭してきた…」
Nirvana。
「その組織ってのはいいんだけど地下街って何だよ。地下に街があるってか?」
「お嬢知らないの?お嬢こそ地下で仕事してそうなのにね~。下層のここよりさらに内陸の方にあるんだよ」
「今まで臨海地域に住んでたからな…こっちに来たのも割と最近だし」
売女、ギャング、恐らくドラッグも…ただでさえ下層にも悪が蔓延っているというのに、地下はどうなっているのだろう?
今まで見てきた腐った世界は、まだほんの一面だったのか?
地下街…そこには無数の悪が息をひそめ、日々弱者を痛めつけているに違いない。
「要はなんやかんやあって、無理やりギャングに性奴隷させられてるってことか?」
「え?…ん、まあそうだけど、でも…」
「んじゃあそこのギャングブッ殺すかぁ!」
周りにいた三人とも、"何言ってんだコイツ"とでも言いたげに、冷めた視線を送ってきた。
「なんだよ皆して。いつもみたいにちゃちゃっと殺るだけじゃん」
「死ぬよ?」
メイリーンが言った。
「地下街では常日頃闘争が起こってて、下層の小悪党とはレベルが違う。ギャング組織の幹部は人間離れした強さを持ってるらしいし…」
「バカ言え。オレより強いヤツがいるワケねーじゃん。それに、お姉さんをいいように使ってるクソ野郎がいるだなんて知ったら、そいつらを放っておくわけにはいかねぇよなぁ!?」
レインコートの女は依然ぼーっと見つめてくるが、残りの二人は呆れたように首を振り、ため息をついた。
「お嬢がこうなると、もう誰も止められないんだよなぁ…」
「今回ばかりは無理やりにでも止めるべきなんだけどね。私は他人の人生に介入できるほど偉くもなければ強くもないし、興味もない」
オレの無茶ぶりをなんだかんだ言って否定しない。これは二人も協力してくれるっていう合図だ。
まーた煙草を吸おうとしていたお姉さんの手を掴み取る。
「なっ、悪い話じゃないでしょ?オレはお姉さんを助けたい、お姉さんは自由になりたい。ね?」
お姉さんは赤黒い瞳をぐるりと回して下を向き、小さな声で言った。
「…はぁ、好きにすれば」
「っしゃぁ!そうと決まればさっそく作戦会議だ!―ッ⁉」
飛びあがった瞬間、腰に激痛が走った。
「もう深夜一時だよ?今日は帰った帰った」
「い、いやぁちょっと、さっきの衝撃で動けねぇなぁ…ハニーんちに泊まってくか…」
「はぁ?絶対ろくでもないことしてくるじゃん。私に触ろうとしたら普通に撃つからね」
「わ、わかったって…じゃあせめて、ちょっとだけ雑談しようぜ。ほら、お姉さんも」
お姉さんはようやく煙草を吸う手を止めて、未だ暗い瞳をこちらに…ではなく、クロトの方に向けて言った。
「…金はあるから、売ってほしい」
「いいよいいよお金なんて~。その代わりと言ってはなんだけど…」
「いいからさっさと行ってこいッ!」
「ごめんなさいごめんなさい!じゃあ診療所から取ってくるから!ちょっと待ってて!」
クロトのケツを蹴り飛ばすと、彼はオレから逃げるようにして外の暗がりの中へ駆け出して行った。
「ゆっくりでいいぞ~クソ医者ぁ~。その間にお姉さんとお話しすっから」
クソ医者が出て行って、ようやく落ち着いた。そして、この場が楽園に変わった。
美女しかいない。
ずっとこの空間にいたい。が、安堵と疲労困憊により強烈な睡魔が襲ってきて、眠りの世界に連れて行かれそうになる。
本当は今すぐにでも地下に行ってお姉さんを救いたいのに、もう限界だ…
でも、意識が消えるその前に、せめて…
「お姉さんの名前、教えて…」
視界は真っ暗になってしまったが、朦朧とした意識の中でも、彼女の声だけは何とか聞き取れた。
「…………レイン」
* Nayuta → Mailine *
ナユタが眠り、薬を渡し終えるとクロトとレインも去っていき、ようやく静寂が訪れた。
色々な生い立ちを持つ人たちと話したくてやってる仕事だが、賑やかなのが多すぎるとさすがに疲れる。
ナユタ―私と八も年が離れてるというのに初対面で口説いてきた猿女。
正直言って、頭がおかしい。
まあ、下層の人間に揉まれて育ってきたらああなってもおかしくはないが、あの性格は恐らく、彼女が生まれ持ったものも関係しているのだろう。
ああいうのは上層の人間には受け入れられないだろうが、私みたいな暇を持て余した腫れ物にとってはいい暇つぶしの相手だ。
しかし、今日は彼女に加えてDr.クロトとドラッグに侵された狂人と、やかましいのが大量だったから、たまにはひとり穏やかな時間も悪くないと思えた。
グラスを全て洗い、酒瓶もきれいに拭いて今日の仕事は終わり。裏部屋に戻り、ナユタが眠るベッドの端に座って至福の一服。
そういえば、彼女は作戦会議するとか言ってそのまま眠ってしまったが、本気でNirvanaとやりあうつもりなのだろうか?
下層の生活に不満を抱いた一部の野蛮な人間が、上層に通じる穴を開けて強盗を行ったりしていくうちに、長い年月をかけて形成されたのが地下街だと聞く。
地下街は完全に無法地帯で、その統治の実権を得て小世界の帝王になろうというギャングの闘争が絶えないらしい。とても私一人で行けたところではない。
その馬鹿馬鹿しい権力争いで今、最も頂点に近づいていると噂されているのがNirvanaだ。
他組織と比べて小規模だが、少数精鋭の異常な戦闘力を持った幹部が集結しているとの噂だ。
ナユタは確かに人間離れした強さを持っているが、地下のギャング、それも上澄みの連中に一人で太刀打ちできるとは思えない。
ここの常連にも弱小ギャングのメンバーが数人いるが、誰もがひどくあの組織を恐れている。LET IT DIEのことも彼らから聞いた話だった。
一部の娼婦たちは外に出ることも許されないそうで、文字通り、金稼ぎの道具として扱われているらしい。
だが、レインはまったくその通りというわけではないようだ。ボスに好かれていると言っていたが、何か事情があるのだろうか?無理に介入したら逆に迷惑になるかもしれない。
それでもナユタは止まらないだろう。私がどれだけ危険だと諭しても、レインにどんな背景があったとしても。
あれはそういう人間だ。だが、後先考えずに突っ走って彼女に死なれでもしたら、今度は私の計画に支障が出る。だから協力しないわけにはいかない。
むしろ、できるだけ恩を売った方がいい。まあ、彼女のことだから一回ヤらせてやれば何でも言うこと聞いてくれるだろうけど。
彼の無念を晴らすためなら、女と一回セックスするくらい安いものだ。
それはそうと、ナユタは地下の経験がないらしい。下層育ちのならず者の割には意外な話だ。そういう輩こそ地下都市にたむろしてそうなのに。
彼女が迷わないように、そして彼女が苦手な遠距離戦に対応するために、つてがある殺し屋に連絡してみるが、絶対喧嘩になりそうだな。
ナユタは自分より若かったり小さい子は好きじゃないし、エリネミはナユタみたいなうるさいの嫌いだろうし…
ま、それは私が気にしてやることでもないか。いつの間にかナユタに気を遣ってしまっていた。
私も、Dr.クロトも他の客たちも、自分勝手で横暴で、人も殺している奴なのに、なんだかんだ彼女を慕い、仲良くやっている。
きっと、この薄汚いアングラの地では、彼女のある意味では純粋無垢な心、清々しいほど欲に真っすぐな生き方が輝いて見えて、皆それに惹かれているのかもしれない。消えかけの電灯に群がる蛾のように。
―はぁ…何を言っているんだ私は。ポエマーか?
そういえばレインは明日来てくれるのかな?仕事があると言っていたから難しいだろうか。
もしまた会ったら、何の煙草吸ってるのかも聞いておかないとな…




