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シュナとリストと並んでリシマを眺めていた飛雨は、振り返ると優しく目を細めた。
そのふとした仕草が、
揺れる髪の先までが、
なぜか嵐の心にやわらかに触れる。
常闇の瞳が微かに瞬く。
飛雨が抑えてきた感情もまた、天に昇っていったのだろう。互いに笑い合うその表情は、それを理解し合っていた。
もう濁った感情はない。
最初から持っていた願いが、ただただ純度を増した──そんな、抑圧した感情を手放した清々しいものだった。
リシマの風が、二人の間を駆け抜ける。
飛雨がリストに目配せをし、二人はシュナから離れた。
すれ違いざまに、リストが嵐を見る。
「ちゃんと叱られなよ」
嵐が頷くと、リストは許すように笑って通り過ぎた。
アダマスに戻ってすぐ、無事を確かめるように嵐を抱き寄せたリストから「ああいう身勝手はやめて」ときつく──切実に言われたことも、「二度目があったら四季を全部呼んで止めるから」と脅されたことも、忘れていない。その手が、少し震えていたことも。
「……リスト、ありがとう」
嵐の声に、リストは少しだけ振り向いた。
「さっきも聞いた。ランは僕の妹みたいなもんだし、面倒くらいみてあげるよ」
呆れたようなその言葉に、飛雨の肩が揺れる。リストはそんな飛雨を睨み上げると「そっちもだけど?」と飛雨の背中をバシッと叩いた。
二人がカルラとアレンのもとへ行く姿を少しだけ見送り、意を決したようにそっとシュナの隣に並ぶ。
欄干を掴んでリシマを見つめるシュナは、小さな声で尋ねてきた。
「ランちゃん、怪我はない?」
「……うん、ないよ」
「ごめんね」
シュナの声が涙ぐみ、嵐は慌てて彼女の横顔を見た。
祈りの池を見つめながら、シュナが俯く。痛みに耐えるように、その優しい顔が悲しそうに歪んだ。
「ごめんね。無理やり連れ戻した。見えてたんだ。ランちゃんが自分から池に沈もうとしたところ。嬉しそうだった。幸せそうだった。あんな顔、見たことない」
「……」
「ランちゃんが望んだことだって、わかった。だからカルラさんだって動かなかったんだって。でも」
シュナはとうとう突っ伏して、肩を震わせた。嗚咽が聞こえ、嵐は焦ったように首を横に振る。
あの時、激しい光が池の中から見えたとき、飛雨がシュナを呼び、それを聞いたカルラがシュナを連れてきたのだとわかった。彼女の忌避の力を使ったからこそ、今嵐はここに立てている。
シュナは二人の頼みを受け入れただけだ、と言おうとしたとき、シュナはしゃくりあげながら言った。
「あ、あたし、ランちゃんがいなくなるのが嫌だったの。誰かを失ったことがない。それがすごく怖い。最低だと思う。ランちゃんやヒューに、言える言葉じゃないのに……大好きな人がいなくなるのが嫌だったから、あたし、無理やり連れ戻した。ランちゃんの気持ちなんてどうでも良かったの。あたしが、帰ってきてほしかった」
ああ、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
嵐は胸が詰まった。
身勝手だ、とリストに言われた意味が、ようやくはっきりと届く。シュナがずっとここで、どんな気持ちでそれを見ていたのかなんて考えてもいなかった。ただ自分が楽になりたかった。
嵐はシュナのそばにぴったりと寄り添って、触れていいのか躊躇いながら、頭を優しくくっつける。
「シュナ、ごめんね」
「……ランちゃん、怪我してない? あたしのせいで、どこか痛くない?」
「痛くないよ。シュナのおかげだよ」
「ほんとう?」
「うん。怖い思いさせてごめんね。連れ戻してくれて、ありがとう。シュナは平気? どこか調子悪かったり……」
シュナに、ぎゅっと抱きしめられる。
「……あたしにとっても、ランちゃんは本当に大切なんだからね。初めて会ったときから、ずっと、そうなんだからね」
「わたしも、だよ」
そう言うと、シュナは涙に濡れた顔をちらりと上げた。きれいな人だ、と嵐は思う。彼女はなんて、きれいな人なんだろう。
「かわいいなあ、もう」
そう言って、笑った。
嵐は自分からぎゅうっとしがみつく。
「……慰めてくれるの?」
「ううん。だいすきってしてる」
「えー……嬉しいなあ」
ぐす、と涙を押し込めたシュナがさらに抱きしめ返してくる。
「お返し!」
彼女の柔らかさに、記憶がふと戻ってくる。
水輝の姿が、痛みのない懐かしさで心に溢れる。
大好きだった。今も、これからもずっと。
そう思うと、瞼の裏の水輝が嬉しそうに笑った気がした。
「シュナ、本当にありがとう」
シュナは力が抜けたように、嵐の肩に顔を埋めた。
「……うん、あたしも、もう〝ごめん〟は言わないね。帰ってきてくれて、ありがとう」
その言葉も、体温も、優しさも、あたたかかった。




