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その光景は、一生忘れられないだろう。
カルラはそう思った。
花を掻き分けて進む飛雨が、シュナの名前を呼んだとき、彼の覚悟を知った。重く、強く、深い覚悟を。
嵐が望むのなら、彼女に穏やかな時間を与えたいと思った自分の軽さを突きつけられたようだった。
彼女の望みはすべて叶えたい。
そのためならば、忌み嫌った父のようにリシマの民に手をかけることも厭わなかった。吐き気すらしなかった。それが自分に埋まる左目の仕業だとしても、気にもならない。
けれど、彼は違う。
必死に彼女を追いかけ、藻掻いて、力付くで引っ張り上げる。
左目は、彼女の見ているものを、ずっと映していた。
飛雨とよく似た男が彼女を連れて行くのも、彼女が泣きながら「うれしい」と言っていたことも、深く沈みながらも、飛雨の声が届いたことも。
二人が子どものように「ごめん」を繰り返し、二人にしかわからない時間の重さの中で抱きしめ合い、幸福と悲しみと愛情を渡しあったことも、すべて見ていた。
カルラは落ちていた黒眼鏡を拾う。
祈りの池の上で浮かぶシュナを見ながらそれをかければ、鮮やかだった景色が薄暗く変わった。
飛雨の声を聞き、すぐにシュナを船から連れ出して、数分。
花はシュナの存在を察知し、逃げるように消えた。それはもう鮮やかなほどに。なぜ呼ばれたのかを理解したシュナが、いつもは極限まで抑えている〝忌避の子〟の力を振り絞ると、溢れる花は収束していき、池の水さえもべコリと凹む。それでも、シュナは手加減をしなかった。細い針穴に糸を通すように、一点に強く祈ると、円状に池が割れた。
二人の姿を見たカルラは、空を見上げ、愛おしげに風を呼んだ。
「──〝恵風〟」
それは恵み。
健やかに育まれることを願う、春に吹く風。
その包むような穏やかな恵みの風は、二人を包み、優しく持ち上げた。
池の水が大きく揺れ、柔らかに波打つ。
嵐に安息を与えようとしていたそれは諦めきれないように一雫だけ手を伸ばしたが、リストが呼んだらしい〝神解け〟の小さな雷によってバチッと消された。
風に包んだ三人を、アダマスに戻す。
丁寧に、どこまでも優しく。
アレンが三人をまとめて抱きしめているのが見え、ほっと肩の力が抜けた。
カルラはしばらく、その場に立っていた。
どんな顔をして戻ろうか。
どんな顔であれば、心配させないか。
右の灰色の瞳は勝手に視点を絞り、アダマスの甲板でリストに叱られながらぎゅうぎゅうと抱きしめられる嵐の綻んだ顔を捉える。
女々しい。
馬鹿馬鹿しい。
なのに、視線を外そうとしても、外せない。
カルラは自分の灰色の瞳の下を、そっとなぞった。
彼女が〝雲の天恵〟であるということを知った瞬間、心の中に浅ましい歓喜が広がった。彼女と自分の繋がりが確かにあったことに愉悦に浸る自分を、アレンが追い越して飛び降りてくれたのだ。
あの船に、どんな顔で戻ればいいのだろう。
リシマの民を殺したというのに。
「……嵐」
呼んでいた。
彼女の名前を。彼にしか許されていない音で。
「嵐」
もう一度呟いたカルラは、ようやく理解した。
これが「愛する」という意味なのだと。
いつかの夜に、彼女は「わたしを愛しそう?」と尋ねてきたことがあった。あまりに無垢に。それに平気で「愛していますよ」と答えたことが、あまりにも遠い昔のように思える。
その答えにも、この間の「わたしを愛さないでほしい」と言った彼女に「大丈夫ですよ」と答えたときも、そういえば彼女の顔に同じ色が混じっていた。
〝わかっていない〟
そういう、瞳を交換することを深く理解した眼差しだった。
確かに、なにもわかっていなかった。
自分が追い込んだ者を愛するなど、どれだけ愚かなことだろう。
彼女は彼に恋をしているのに──二人から故郷も未来も奪ったのに──すべての元凶である自分が愛するなど、許されるわけがない。
あの二人は、ただでさえ過酷な運命のもとにいる。
彼だけが唯一呼ぶ彼女の音を、二度と呼んではいけない。それでも、
「……嵐」
カルラは最後に一度だけ呼び、飲み込んだ。
気持ちの整理をつけたように顔を上げれば、ふと、嵐がちらりとこちらを見た。
彼女の美しい蜂蜜色の〝瞬きの瞳〟ではなく、灰色の瞳がじっと。
互いに顔を見ているのがわかった瞬間の、胸を突く感動を、カルラは静かに抑え込む。
彼女の唇が動く。
──カルラ。
早く戻って、と。
「……あなたがそれを望むのなら」
風を呼ぶ。
彼女にもらった瞳で、彼女のもとへ。
願いは一つしか持てないことは知っている。
ならば、昔の誓いと変わらず、彼女と彼を生かすために生きていく。
けれど、
最後に一度だけ言葉にしよう。
その後は、一生口にはしない。
そう強く思えば、胸はもう、痛まなかった。




