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呼ぶ声が聞こえた。
名前を呼ぶ声が。
嵐の視界は狭まっていたが、ぼんやりとしたその中には花束が溢れていて、幸せで幸せで、このまま眠れるのならすべて忘れてしまってもいいとさえ思えた。
あの人はどこだろう。
〝常闇の瞳〟を持って生まれてきた彼らの「願い」の姿は、もう見えない。
けれど、ゆっくりとゆっくりと、気遣いながら底の方へ導いてくれているのはわかった。方向感覚はなくなり、沈んでいるのか浮いているのかもわからない。ふわふわと漂っていると、まるで空気もない宇宙へと向かうような心地になるけど、不安にも恐怖にも飲まれないように、花束が常に包んでくれている。それは優しさで、愛だった。
どうしてここにいるんだっけ。
そんなことを思う。
今までどこにいたんだっけ。
嵐の瞳は光を徐々に失い、〝瞬きの瞳〟の輝きも落ち着いていく。
誰かが叫ぶ声も聞こえる気がするが、向こう側にいるようにはっきりと聞こえない。
穏やかな眠気がそっと瞼に触れる。
ああ、なんて眠いんだろう。
「──……!」
遠くから叫ぶ声がかすかに聞こえる。
「……!」
まどろむ意識が持ち上がる。
必死に呼ぶ声が切実で、どこかがざわつく。
心というものは深く眠りについたはずなのに、どうしてこんなにもこの声に手を伸ばしたくなるのだろう。
「嵐!!」
ぴくりと嵐の指が動く。
次に瞬間には、目を開けていた。
狭まっていたはずの視界が、なぜかはっきりと見えた。太陽のように明るい円の向こうに誰かがいる。身を乗り出してこちらを見ている。
だめだよ、と口を動かすが、声にも言葉にもならなかった。
その顔を見た途端、口は震え、涙が溢れてしまったからだった。
「……」
「嵐、行くな!」
かろうじて首を横に振ると、飛雨は躊躇うことなく落ちてきた。
嵐は目を見開き、身を包む花々を押しのけて前に出る。
早く向こうに戻さなくては。そう思う彼女の意思を汲むように、花たちが嵐の背中を押した。
手を伸ばし、帰って、と言おうとするが、その手は容易く掴まれ、引かれ、大きな腕の中に抱きすくめられた。
十年前の洞窟を思い出す。頭の中の感情がすべて出てきたように、嵐は泣き出した。幼い頃に夢から覚めたときのように、飛雨にしがみつく。
「……ごめん。ごめんね、ごめん」
「違う」
「言えなかった。ごめん」
花びらが嵐と飛雨の間に入り込み、二人を優しく引き離す。それでも飛雨が手を離さないのを見た嵐は、眉を下げて笑った。
「飛雨、お願い、このままここで眠らせてほしい。向こうへ戻って」
「嫌だ」
飛雨はきつく手を握ったまま、言う。花びらが二人の腕に絡まり、指に伸び、解こうとしても、飛雨はじっと嵐を見ていた。その黒い瞳の奥で、強い光が瞬く。嵐がその気配を察知した瞬間、ごめん、と飛雨は呟いた。悲しそうに笑いながら。
「俺の勝手で連れ戻す。ごめんな」
カッと視界が明るくなっていくと同時に、花が逃げるように消えていく。二人を離そうとしていたそれも掻き消え、嵐の身体は軽く浮き、もう一度飛雨がしっかりと抱きとめた。
「……なんで」
嵐の声が震える。
驚きや困惑よりも、隠しきれない喜びが強く滲んでいるそれに、飛雨は嬉しそうに笑った。揺れる。かすかな肩が。心臓の鼓動が。何を悩んでいたのか、何を恐れていたのか、何を逃げ出そうとしたのか──すべてを溶かしてしまう体温に、嵐は震える手で背中に手を回した。
「なんで?」
どうしてここまで来てくれたのか。
どうして許してくれるのか。
わかっている。
すべて瞳がそうしているのだ。
それを、飛雨も知ったのに。
「言ったろ」
飛雨が身体をそっと離し、嵐の顔を両手で包む。
「一人で落ちるな、って」
天恵、夜雨を追ってアダマスを飛び降りた時──その飛雨の言葉を思い出すと、嵐の顔は子どものようにくしゃりと歪んだ。
「嵐も言ったはずだ。〝次からも、一緒に〟って。だから迎えに来た」
「……」
「ごめん、嘘」
「……う、そ?」
「俺が一緒にいたいんだ。ごめん」
ごめんなあ、と飛雨が昔のように笑う。
嵐がたまらなくなって顔を隠すように俯けば、頬から手を離し、またそっと身体を包んだ。今までのあやすようなものとは違う、ただただ優しく抱きすくめる。
「飛雨」
「ん」
「……わたしは飛雨を、いつか殺しちゃうかもしれない、って、聞いた」
「そうか」
「……そうかって……それだけ?」
「今まであちこち飛び降りといてよく言うよ」
軽く返され、真剣に白状したつもりだった嵐はふにゃりと身体から力を抜いた。
「そっか……」
「そうだよ。今までだってじゅうぶん危なっかしかったぞ。今もだ」
「ふ、ふふ。そっか。うん、そうだね」
「──ごめんな、嵐」
飛雨の言葉を、嵐は黙って受け取った。
変わりに、ぎゅっと抱きしめ返す。
もしかしたら、飛雨には伝わってしまったのかもしれない。
嵐が飛雨を殺してしまう、という仄かな嘘の理由を。
その、意味を。
「それでも、生きている限りは一緒にいたい」
飛雨の言葉に、嵐は自分も同じ気持ちだったことを知った。
ああ、この人が大切だ。
光が強くなっていく。
頭上に、水面が迫っている。




