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飛雨は立ち尽くしていた。
その光景は異様だった。
嵐がじっと祈りの池を見ていたかと思うと、静止していたはずの池の中へ手を伸ばし──彼女を迎え入れるように水がとぷんと揺れたのだ。
その隙間から何かが出てくる。
花。
エトライで渡した、白と黄色の花束。
その小さな花びらがそこからざわりと出て、花はまたたく間に縁まで溢れた。
まるで、死に向かうようだった。
ただただ、花に埋め尽くされる中で、嵐は解き放たれた幸せに身を任せようとしている。
その姿が、呆然と立つ飛雨の目に焼き付く。
「……嵐」
呼ぶ。
「嵐」
何かが喉をせり上がるように、苦しさに喘ぐ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
なぜ、言ってくれなかったのか、と責める言葉がぶわりと消える。
飛雨の手が震える。
わかっている。
言えなかったのだ。
言わないことで、守ったのだ。
「嵐!」
飛雨が叫ぶように呼んでも、嵐は振り返らずに池へ飛び込んだ。
思わず身体が動く。思考は吹き飛び、感情だけが身体を動かしていた。眼の前に立ちはだかる黒い影が鏡のように割れ、花が溢れる池を必死にかき分けて進む。
十年前。
飛雨がリシマの様子を見て戻ったとき、嵐は木の上でその光景を見つめていた。
待たせとくんじゃなかった。そう後悔したのが、一つ目。
山の中の洞窟に隠れた一晩の間、飛雨は必死に嵐の耳を塞ぐように抱きしめていたが、良すぎる耳に天恵の断末魔が大音量で届いていたせいで震えてしまい、嵐にも聞かせてしまったことが、二つ目の後悔。
恐ろしさに耐えられず、翌朝山から降りて現実を見たのが、三つ目の後悔。
一週間後、嵐が先に洞窟を飛び出しながら瞳を取り出すのを止められなかったのが、最大の後悔だ。
彼女の瞳が。
いつか交換しようと約束していた瞳が、見知らぬ男の手にあるのを、ただ見ていた。
あの時わかった。
生きていくというのが、どういうことなのかを。
願いは一つだけしか持てない。
ならば──何をしても、自分の身体を切り離してでも、ただ嵐を生かす。
それが、自分の意志ではなかったとしたら。
由晴の言葉に、嘘の震えは一つもなかった。
〝常闇の瞳〟を持っている者は、〝嵐の子〟のための命だということも──水輝が嵐と自分を想い、黙っていたというのも──役目を果たせずにその思いを踏みにじったことも──嵐が人ではない〝雲の天恵〟だということも──本当なのだ。
もがくように走っているはずなのに、飛雨は花に堰き止められるようにうまく前に進めなかった。
苦しい。
潰されるように、苦しい。
白い尾のように結った三つ編みが消えた。
どっ、と心に恐怖が膨れ上がる。呼吸が苦しくなりながら、飛雨は更にもがきながら進む。
嵐が、人じゃない。
頭の中にその言葉が蘇る。
小さな頃、母親の作った白猫のぬいぐるみを持っていた嵐が。叔父に肩車をせがんだ嵐が。洞窟で震えていた嵐が。リシマから出るときに強く握った手も、リストを助け出したあの安堵した顔も、シュナに甘えていた姿も、渡した花束を、嬉しそうに持ったあの姿も。
人ではない、はずがない。
「嵐!」
なぜ躊躇ったのだろう。
一瞬でも、由晴の言葉を心の拠り所にしようとしてしまった。
──誰を、心から愛しているんだ? 教えろよ。俺がさ、取り返してやろうか? お姫さんの瞳をさあ。そいつを殺せば、そいつの瞳は消えて、お前の瞳を捧げられるぞ?
その言葉が甘く飛雨の心を掴んだ。痛いほどに、掴んだ。嵐が愛す男の顔が浮かび、その顔にある美しい蜂蜜色の瞳を取り上げる妄執が頭に広がって止まらなかった。
アレンが来ていなければ、ついて行っただろう、と飛雨は思う。
馬鹿だった。
なんて馬鹿だったのだろう。
嵐の顔を見ればわかったはずだというのに。
由晴は嘘は言っていないが、真実でもないことくらい、嵐の顔を見ればわかった。まだ隠していることがあるのだろう。きっと言えないようなことがある。そうして守ってくれている。そんなことくらい、今になってわかるのに。
瞳の交換は一度しかできない。
もう、できない。
飛雨は剣を引き抜くと、花を斬って前に進んだ。
その剣から雨が滴る。
花が水滴に遊ぶ。
飛雨は苦しむように歯を食いしばった。
わかっている。
ただ、嬉しかったのだ。
──次はお前の番だ。そうだろう?
そう言われたことが。ああようやく復讐の機会がやってきたのだと、心が弾んだのだ。
醜かった。
だというのに、由晴に死の安息すら与えられなかった。
カルラには及ばない。あの男の、ぶれない強さと深い愛情には。
それに引き換え、自分はなんて醜くて、みっともないのだろう。
──お前の瞳も特別なんだよ。〝嵐の子〟のために先に生まれてくるんだ。そうやって、監視するんだと。お前のその感情はねえ、心からのものじゃない。ただの宿命なの。しゅ、く、め、い。
もっと早く知りたかった。
もっと早く、彼女の瞳を受け入れたかった。
飛雨は力を振り絞るように剣を投げた。ざっと花が消えていく。
その隙間を縫って、小さな穴を見つけると、必死に手を伸ばす。
──今、選べ。ランか由晴か。
アレンが言う。
選ぶ必要などない。
いつだって、彼女のための自分だったのだ。それが誇りであり、願いであり、役目で──
「違う」
もっと独りよがりの感情だ。
一人にしないでくれ。
置いていかないでくれ。
頼むから。
そばにいてほしい。
ただ、近くに。
「嵐!!」
これが宿命という名の感情だろうと、構わなかった。
飛雨は花に埋もれる嵐の横顔を見た瞬間、叫んだ。
「──シュナ!!」




