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もし。
十年前のあの時、一人だったら。
嵐は、血に濡れた外套を着ている自分を容易に想像できた。
由晴が、この十年、何を拠り所に生きてきたのかはわからない。
けれど、どこかで狂ってしまったのだろう。
孤独の中で毒が徐々に蓄積して、蝕んで、身体から出たいと叫びだしたのだ。船を持ち、天恵や人も襲い、止まらなくなった。何も考えず、行き当たりばったりで毒を吐き出し続けた結果が、これだ。
きっと、聞こえなくなったのだ。
リシマの声が。
──返り血で己を穢してはならぬ。
教えが。
あの日々が。
「……」
嵐は隣を見る。
美しい真っ白い佇まいの青嵐も、嵐を見る。
その瞳は、自分と同じ蜂蜜色の瞳だった。
心のなかで問いかける。
──わたしはあなたなの?
瞳が見つめ返してくる。
──わたしが、おまえだよ。
嵐は小さく笑った。
それだけで、理解できた気がした。
カルラの語った〝太陽の恋人である雲の天恵〟の意味も、〝遠見の瞳〟が遠くまで見渡せる理由も。
太陽はシトリアの王で、雲の天恵は、〝嵐の子〟だったのだろう。二人が愛し合い、子孫が生まれ、遠いリシマをひと目見たいと求める灰色の〝遠見の瞳〟が時折出現するようになった。ずっと昔の〝嵐の子〟の生命の証であるそれが、今、嵐の左目に宿っている。
愚かなことをした。
けれど、なぜだろう。何度あの瞬間に戻ったとしても、きっと同じことをしたと思う。
飛雨を助けてほしかった。
自分のすべてを渡しても良かった。
哀れで幼くとも、すべてを知った今、あんなことをしなければ、と思っていても、それでもきっとしてしまうのだ。
青嵐が静かに答える。
──そういうものだ。
嵐の口元に、諦めた笑みが浮かぶ。
そういうものの果てに、誰かが傷ついて、捩れて、戻れなくなったあとは、ただ正気を保つことしかできない。それがどんな方法だろうと、やらなければ身体も心も思考も弾けてしまう。けれど、屈して折れて吐き出してしまえば、もう二度と引き返せない。
由晴のように。
嵐は青嵐から視線を外し、由晴の背中を見つめた。
天恵、緑風の前で呆然と立ち尽くす由晴の視線は、大きな梟ではなく、そばに立つ幻影に向いている。
水輝の形をした、白く淡く光る幻影──彼女を見ることができるのは嵐と由晴だけだ。
天恵の中から出てくる幻影。
それがなんなのか、嵐は知らなかった。
こうして知っている者が幻影として出てきて初めて、理解する。
リシマの民は、幻影の姿を借りていた存在なのだと。
嵐の頭の隅に白い雲が浮かぶ。
雲の間から、地上──リシマを見下ろしている。ああ、なんて美しいところなのだろう。あの地に立ってみたい。そうして天恵は落ちていく。空から降りてくる祝福は、リシマの中心の池に降り立つと、幻影の姿で舞い踊りはじめる。彼らは次々と降ってきて、リシマから離れず、生きていく。いずれ自分たちが何だったのかを忘れ、誰かを愛し、人の形しか維持できなくなろうとも、その地を愛し、その地で生まれた分身を慈しんだ。瞳が瞬き、故郷を思って祈る。祈りの池で、彼らに再会するために。
その景色の中に、青嵐が立つ。
隣に立っているのは、自分だった。
「水輝……?」
ハッとする。
由晴が水輝の名前を震えながら口にする。
対する幻影の表情は、どこまでも優しい。
「……みず、き……」
嵐は、由晴の恐怖が手に取るように理解できた。
愛しい人にあんな目で見られたら──ただ、微笑まれたら。何も言わずに、責められずに、慰められずに、ただただ微笑まれたら。自分が殺してしまった飛雨に、もしそんな顔をされたら。そう思うだけで、絶望的な気持ちが襲ってくる。
耐えられない。
嵐がそう思ったと同時に、由晴は腹に刺さったナイフを抜き、首に当てた。
最後に「一人で逃げてごめん」と言い、それを滑らせる。
血が吹き出しても、その場を濡らしても、緑風も幻影も赤く染まることはなかった。彼らにかかる直前に、存在そのものを否定されるように消えたのだ。
恐ろしいほどの、無慈悲な慈悲だった。
徐々に由晴の血が塵のように消えていき、やがて淡桃の光が彼の身体を包み始める。
嵐は、そっと声をかけた。
「──命なき者の瞳を、お返しします」




