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その動きは、美しくすらあった。
大きな背中にはショールはかかっておらず、無機質な身体からは無の慈愛が迸る。
カルラは更に深く由晴を抱きしめるように左手を背中に回すと、由晴のみぞおちにある右手を更にぐっと深く差し込んだ。
「!」
由晴がびくんと動く。
それでも、嵐はじっとカルラの後ろ姿を見つめていた。
「……彼女に手を出すのも、彼に手を出すのも──私が許しません」
カルラが囁く。
「力を抜け。受け入れろ」
「あ──ごう、う」
由晴が〝豪雨〟を呼ぼうとした瞬間だった。
パリッと。
何かが割れる音が、空気を止めた。
全員が一点を見つめる。
祈りの池の上──飛雨とアレンの足元にひびが走るのを見たカルラは、すかさず叫んだ。
「〝神渡し〟!」
「!」
その言葉に目を剥いた由晴は、震える手でカルラの黒眼鏡に指をかけた。カツン、と落ちると同時に、飛雨とアレンが二人のそばへ着地する。
カルラの瞳を見た由晴の瞳はわなわなと震え、引きった声を漏した。
お前が、と、そう呟いた声が聞こえた。
お前が、嵐の瞳を、と。
カルラは由晴を冷たく見下ろし、構う暇はないとばかりに池を見る。
祈りの池が、ぐぐぐ、と丸く膨らみ始めたのだ。
膨らむ。
ゆっくりと池から透明な半円が出てくる。
その大きな気配に、息を詰めて見守るしかできない中、最初に口を開いたのはカルラだった。
「アレン」
カルラが左目の瞬く瞳でアレンを見る。
「船に戻します。あの二人を」
「──守ればいい?」
「お願いします」
風が、再びアレンを優しく巻き上げる。半円の更に上へ飛ばすが、彼の焦りが伝わってくるほどに速い。
アレンが通過するその頂上では、さらにひびが広がる。
ゆっくりと、パキパキと音を立てながら。
巨大な天恵──その半円の外殻の中には水がゆったりと動いていたが、ところどころに白い濁りが浮かび始めた。雲だ。今、ここで、生まれようとしている。嵐は集中し、その中心の淡い光を見て、理解した。この場を離脱しようと身じろいだカルラを手で制す。
「動かないで。大丈夫だから」
「……ラン?」
尋ねるカルラを、嵐は池を見るように促した。
外殻の上部が花びらのように変化する。
内側から溢れるように崩れはじめるそれは、新緑の若葉のようだった。それを見た途端、由晴の瞳の色が鮮やかな色に戻り、涙が浮かぶ。
──ああ、来てくれたのだ。
嵐も、崩れ行く外殻を見つめながら思う。
落ちた若葉は、ひらひらとリシマの全体へ行き渡るように優しく舞い、光となって消えていった。
その一枚が、由晴の頬に届いて、撫でる。
大粒の涙が伝う。
外殻がすべて崩れたそこに、梟がいた。
その濁りのない目が、じっと由晴を見つめている。ふっくらとした大きな体の羽には、名前を示すような若葉色が柔らか揺れていた。
風の天恵、緑風。
水輝の〝瞬きの瞳〟と同じ、木漏れ日のような光に包まれたそれのそばには、一人の女性が立っていた。優しい眼差しで微笑む彼女が、淡く白く、光る。
「……みずき」
由晴の声が泣いている。
嵐は、幻影を凪いだ瞳で見つめた。
懐かしさが胸を突き破りそうになる。由晴と同じように泣いてしまいたい。けれど、嵐は知っていた。
幻影は、水輝ではない。
同じ形をした他のものであることを。
いつ気づいのか、覚えていない。ただ、それは予感というものに近かった気がする。
嵐が知っている者と会えたことはないが、いつの間にか理解していたのだ。
幻影は、リシマの民である、と。
いや、リシマの民が──
「……みずき……水輝……!」
由晴はカルラを突き飛ばし、足がもつれたように走り出した。
ナイフが腹に刺さったまま走る後姿は哀れであり、そしてなぜか愛おしくもあった。
由晴の喜びが、穢れをすべて消す。
足元の血すら花びらに見えるほどに。
嵐はまた知る。
天恵と、リシマの民というものを。
嵐の隣には、青嵐がじっと立って由晴を見送っている。




