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浅海の声が、聞こえたような気がした。
星が弾けたように飛び散って還っていった青い瞳が、さようなら、と。
嵐は応える。
さようなら。
遅くなってごめんね。
もう何も聞こえない空を、飛雨と見送っていると、聞き覚えるのある足音が聞こえてきた。
二人は、ゆっくりと振り返る。
祈りの池の対岸に、男が立っていた。
薄い陽の色をボサボサに伸ばした、痩せた男が。
前髪の隙間から、淡桃の瞳が瞬く。郷愁と戸惑いと喜びが複雑に絡み合いながら、ちかちかと光る。息を詰めて心を抑えるよく知った表情が、嵐にははっきりと見えた。
「由晴くん」
呼びかけると、夢から醒めたように、由晴は徐々に顔を輝かせた。
やけに茶色く染まった外套の上から胸を押さえ、池に足を踏み出す。祈りの池はまだ張り詰めている。割れずに、由晴を二人の近くまで運ぶように、じっと三人を見ている。
「ひう…飛雨……飛雨、だな。飛雨」
「……由晴」
「どうして、お前。どうして」
ずっと言葉を繰り返す「どうして」という歓喜に満ちた声で、再会に心を弾ませたように駆けてきた由晴は、ふと飛雨の腕を叩こうとして、ピタリと止まった。
表情が凍りつく。
「……あの船は──なんだ?」
由晴の目に、今ようやくアダマスの姿が届いたらしい。
「なあ。なんだ? 上からは何が起きているのが全く見えなかったが……船が、落とされるまでは……」
由晴の声が、強張っていく。
「俺の船に赤い雪を降らせたのは」
「わたしだよ」
嵐が言うと、由晴は見下ろし、こくんと首を傾げた。
あの頃は綺麗に整えていたはずのさらさらの髪は、見る影もなく揺れる。
「ああ、お姫さん。大きくなったね。ところで──その目は何だ?」
由晴が嵐の左目に伸ばした人差し指を、飛雨が強く掴み、押し返す。
「触るな」
「……なんだよ、その灰色の目は」
「由晴」
「あの黒い旗はなんだ!!」
爆発するような怒声を聞いて、嵐は理解した。
彼は、自分が知っている者では、もうないのだということを。
同時に悟る。
彼は水輝を深く愛しているのだ、と。
「知っているでしょう。あれはアダマス。わたしたちの船だよ」
「ア、ダ、マス……」
「由晴」
ぐ、と飛雨が嵐を背中に隠した途端、由晴が飛雨に掴みかかった。
「お前たちがあのシトリアの手足になってるって、本気で言ってるのか?!」
「そうだ」
「どうして生きているんだ!!」
短く肯定した飛雨を責め立てるように、叫ぶ。
その瞳は、すぐに嵐に向けられた。
「どうしてお前が生きている!!」
「やめろ、由晴」
「なぜ……〝嵐の子〟であるお前が、生き残ってるんだよ!! お前の力を使えば、あんなことには……お前がいたせいであんなことに!!」
頬を叩く乾いた音が響く。
飛雨は由晴を黙らせるように、平手を見舞ったのだ。冷静になって話せ、と言わんばかりに、冷たく見下ろす。
「やめろ」
由晴の腕を取り、短く窘めた。
「違うだろ」
「……は」
ひくりと口の端が上がるような卑下た笑みが震える。
「……おい、おいおいおい、飛雨。お前さあ、可哀想だなあ……はははは! そうか、お前知らないのか。知らないよなあ、だって水輝がそいつが十歳になるまで二人を見守ってくれって、頼み込んでたもんなあ……!」
「何の話だ」
「可哀想なお前の話だよ!!」
「──やめて」
由晴は、知っている。
その予感に嵐は飛雨の背中から出ようとしたが、何かを察知した飛雨の腕に止められた。
由晴は、にやあっと道化のような笑みを浮かべる。
ああ、やったのだ。
彼が、人を殺し、天恵を殺していた。
それがわかるほどの、醜い笑みだった。
息が一瞬詰まったその隙を、由晴は見逃さない。
「お前はなあ! こいつに一生を捧げて監視するためにリシマに連れてこられたんだよ!」
飛雨の腕が、強張った。
由晴の笑みが更に深くなる。絶望に染まった愉悦が、飛雨をじっとりと見つめた。
優しく言い含めるように、甘く囁く。
「なあ……俺が教えてあげるよ、飛雨……お前はね、〝嵐の子〟への捧げ物なの。身も心も瞳も尽くす為に、本当の親がリシマに連れてきたんだよ。可哀想に……お前を泣きながら手放した親も、お前を慈しんで育てた親も、シトリアは両方奪っていったなあ……お前の、姉も──なのに、お前は自分の瞳をこいつに捧げるという役目さえ果たせず……まだ尽くしている。恐ろしいもんだね、〝常闇の瞳〟っていうのは。可哀想だね、お前は!」




