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「浅海さんの瞳を返す。降りてこい」
空に浮いていた嵐は、無表情に飛雨を見て、息を吐いた。身体からふっと力が抜ける。
「ごめん」
「……いいから、降りてこい」
「調整できてると思ってたんだけどな」
そう言いながら、嵐はふわふわと降りた。
使っている〝神渡し〟で、飛雨も一緒に包む。
まだ降り注ぐ雨〝木の目流し〟が、風の外でキラキラと塵のように輝き、飛雨の濡れそぼった前髪の隙間から見える黒の瞳は優しく細くなる。
「まあまあ、だな。あれ以上はコントロールできなくなるからやめとけ」
「……なんでわかるの?」
「嵐のことならわかる」
当然のように言う。
「だから許しただろ」
約束を破ることを。
アダマス以外に、〝嵐の子〟であることが知られないように──すべての天恵を呼びかけられることを、知られないように──
「いちばん大切な約束を守るつもりがあるのなら、俺はそれでいいよ。他の天恵なら……青嵐じゃないのなら、俺の声で止められる」
ぽんぽん、と嵐の頭を叩いた飛雨は、空を見上げた。
赤く包まれた船を。
「それからな、嵐」
うん、と返事をする前に、飛雨は笑みを浮かべていた表情をゆっくりと怜悧なものに変えた。
「それは俺がやる──〝繁吹雨〟」
「!」
「言っただろ。嵐のことが知れ渡ったときには、俺はこの国に雨を降らせ続けるよ、って」
嵐が呼んだ雷鼓のさらに上から、ザアッと雨が降り出す。
雷雲も赤雪も、激しい雨によって綺麗にかき消されていった。ちらちらと欠片となって淡く消えていくさまは美しくもあり、酷くもある。
嵐は思わず重いため息を吐いた。
「やっぱり怒ってる……」
「いいや」
きっぱりと飛雨が言う。
「俺は嵐に甘いから、結局は許す。でも、俺にも許せないことはあるんだよ。わかるだろう。嵐と同じだよ」
ゴッと雨が更に激しくなる。
船は沈没するように、よろよろと池の対岸に落ちた。ズ、と鈍い音が響く。
船が大破する音ではないそれに、飛雨は考えるように対岸の木々の向こうを見た。
「由晴がいるな」
「……他の天恵を呼ぶのも……気をつける」
「そうしろ。嵐に人殺しはさせない。するなら俺がする」
「頑固」
ぼそっと嵐が言えば、飛雨は上等と言わんばかりに、手のひらに乗せていた腕輪をそっと掲げた。
腕輪が──浅海の青い瞳だけが、ふわりと浮く。
「頑固でもなんでもいい。俺は、嵐を生かすためにここにいる」
それは、自分の「飛雨を生かすために生きていく」という想いと寸分違わない。
嵐の瞳が切なげに瞬く。喜ぶ心を抑え、浮いた青い瞳が徐々に光を放つ姿に集中すると、嵐の脳裏にあたたかな記憶が浮かんだ。
「……ねえ、飛雨」
「ん?」
「このまま見送るの?」
「ああ……そのつもりだが」
まさか、と書いた瞳が自分を映している。
「うん。ちょっと派手に送らない?」
「……本気か」
「今ならできると思うんだけどな」
嵐は持っていたままの剣をちらりと見下ろし、池の上に刺さるように立つ飛雨の剣を見た。
嵐の笑みに諦めたように笑った飛雨は、剣を引き抜くと背中を向けた。
背中合わせに剣を構える二人の上に、浅海の瞳がさらに高く浮かんだ。
「……由晴をおびき寄せるため、だな」
後ろから聞こえた声に、嵐は「何でもお見通しだね」と答える。
「中々船から降りてこないのはなんでだろう」
「嵐が先に動いたせいじゃないのか?」
「上からわたしたちの姿までは見えないと思うけどね──準備は?」
「ああ。そっちこそ覚えてるのか?」
「飛雨のお父さんとお母さんの儀式だもん。いっつも見てたし、覚えてるよ」
「いくぞ」
飛雨の掛け声で〝木の目流し〟が止まり、〝神渡し〟も消える。二人がゆっくりと池に剣を刺したその刹那、ふー、と風が吹き抜けた。
風ではなく、歌声。
嵐と飛雨の言葉のない真っすぐ伸びる一息の旋律が、池のゆらぎをぴんと止めた。
天恵の外殻のように澄んだ膜の上に、音が満ちる。
映り込んでいた空が、ゆったりとかき混ぜられるように景色を変えた。青空から日が暮れる紫を帯びた色へ──剣先からじわりと紺碧が滲み出る。
夜空の中に、星が強く瞬いた。
天への祈りの息が尽きた瞬間、二人は剣を同時に引き抜き、踏み込み、鋭く横に払った。
共鳴するように、頭上の浅海の瞳が強く発光する。
と、二人の頭上を流星が散っていった。
浅海の瞳が光の粒となり、還っていったのだ。
薙ぐような神聖な風が、リシマの中心から島の隅々に行き渡る。
祈りの池から、夜空が消えた。
そこには雲一つない青空が広がっている。




