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祈りの池に、包みこむような穏やかな雨が降る。
──木の目流し。
春の新芽を洗うような祝福の長雨が、天から祈りの池に向かって降ってくる。ゆらゆらと視界を遮る雨の前で足を止めた嵐は、腕輪を飛雨に渡し、その背中を見送った。
飛雨が祈る。
池の淵で、膝を折る。
まるで挨拶をするような短い時間の後、立ち上がった飛雨は、そっと足を踏み入れた。
うわん、と水が揺れる。
浅い縁から、ゆっくりゆっくりと割って入っていく飛雨の身体は、澄み切った池に絡め取られるように沈んでいった。景色を弾く雨が、喜ぶように光り輝きながら歌い、踊る。
池の中心に辿り着くと、飛雨の頭が、とぷんと消えた。
静寂の後、水面が揺らめき、大輪の花が咲くように池が割れる。
ぐぐ、と押し上げられる中心に、《《何か》》がいた。
舞っている。飛沫が。空高く。
重く、深く、まるで人ではないように、荘厳に舞う《《何か》》が微かに見える。
「飛雨」
嵐は堪らず呼ぶが、声が届くことはない。
今、彼はこのリシマのものなのだ。飛雨の両腕に纏わりつく雨とも水ともわからぬ銀の歓喜とともに、飛雨は全てから解き放たれたように全身で舞う。身も心も委ねたように、自由に誇り高く。
その姿は、この地で生まれたものだけが呼ばれる「リシマの民」そのものだった。
もし、見つからなかったら。
そんな思いが嵐を揺らす。
もし、飛雨の両親がお社の血縁じゃなければ──飛雨は舞うことも知らず、アレンのようにどこかを流れるようにして生きていけたのかもしれない。
──それでも。
青嵐が囁く。
──それでも、雨の子は見つかる。シトリアに見つからずとも、襲われたリシマでのお前の危機を感じ取り、駆けつける。春風が言ったように、いずれリシマは滅び、あの子はお前を殺しに来ただろう。
「……」
息継ぎなく舞い踊る霞んだ景色を、嵐は目に焼き付ける。
十年前に呼んでも来なかったのは、飛雨が嵐を殺さぬためだ。
青嵐は誰も殺さない。
誰も傷つけない。
なぜなら知っているからだ。
──返り血で己を穢してはならぬ。
そう、飛雨が強くを持っていることを。
《《どれほど飛雨を愛しているのだろう》》。
青嵐は──そして
「!」
嵐がハッとして顔を上げる。
そして、強い想いを走らせる。強く。強く。あの夢の中のように、強く。
「──カルラ。何もしないで。後でちゃんと叱られるから、そこにいてリストとシュナを守って。お願い」
そう言って、突如現れた船を睨む。
船底が、赤く錆びている。
赤い旗まで掲げているその姿は、どうしてか本当の赤船よりも醜く嵐の目に映った。
嵐は祈りの池に躊躇いなく足を踏み出し、呟く。
「──〝神渡し〟」
天からではなく、嵐の身体の内側から風が吹く。ふわりと浮くと、そのまま身を低くして駆け出した。凄まじいスピードで池の上を走る。雨粒は風に弾かれ、白い尾は後ろへとぐんと靡く。腰に携えた剣に触れながら、さらに叫ぶ。
「──〝雷鼓〟!」
剣を抜き、振る。その先から、吹き出すような黒い雲が、赤船もどきの上に走っていった。雷が轟く音だけが頭上に不機嫌に吠える。
嵐はぐっと身を縮めると、水面を蹴り上げ、飛んだ。
その刹那、飛雨と目があう。
呆れたように──許すように──愛おしむように──困ったように、瞳が悲しげに微笑む。
どっ、と胸を掴まれた感覚を、嵐は目を閉じて塗りつぶした。
青嵐は呼ばない。
暴走もしない。
そのために、必要な天恵を先に呼ぶしかない。
誰に見られようとも、そうするしかない。強大すぎる力を目の当たりにした者を屠る必要があるのなら、やる。それが嵐の覚悟だった。たとえ飛雨の信頼を裏切ろうとも、赤船の中身をすべて殺す。
更に声を張る。
「──〝赤雪〟!」
剣の先から、今度は赤い雪が花びらのように迸る。彼らが切りつけた者たちの恨みを届けるように、赤い雪を船の周囲にボトボトと降らせ、視界を塞ぐ。意思を持ったように船を丸く取り囲んだやわらかな赤に、嵐の右目が強く瞬く。
「まだ。もっと。鮮やかに」
呟けば、雪は血のように鮮やかに──そしてゆっくりとどす黒く染まった。
ふ、と笑う。
「嵐」
嵐が、ピタリと止まる。
「それ以上は駄目だ」




