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池に足を踏み入れる前に、アダマスを振り返る。
残る四人は、船首の欄干で見守るように立っていた。ぼんやりと輪郭を捉えた左目が、ぎゅっとカルラらしき影に焦点を合わせようとする。
嵐は、抗うように目を逸らした。
いつから。
何をきっかけに、カルラを心が捉えないように切り離すようになったのだろう、と思って、思い出す。
──好き。
その単語が、きっかけだったのかもしれない。
──シュナがヒューを好きなことだって、悪いことじゃない。
アレンの言葉が、嵐の頭に響く。
好き。
好き。
好きって、なんだろう。わからない。
──ヒューをシュナに渡してよかったんですか? あれはあなたのでしょう?
天恵、夜雨を送ったあとの甲板で言ったカルラの言葉まで、深いところから戻って来る。
嵐は答えた。
飛雨はわたしのものじゃない。飛雨は、飛雨のものだから。したいことをしてほしい。
そう、答えた。
何も知らなかった傲慢な自分が。
飛雨に自由などなかったことを知らぬ愚かな自分が。
カルラが「あなたは? 誰のものですか?」と尋ねる声を聞きながら、嵐はカルラの視線を振り切った。
わたしは飛雨のものだ。
わたしが、それを望んでいるのだ。
「嵐」
呼ばれ、飛雨の隣に並ぶ。
「大丈夫か」
「うん。戻ってこれてすごく嬉しい」
まっすぐに伝えると、飛雨は嬉しそうに目を細めた。
「だな。早く全部終わせよう」
全部。
その言葉が共犯じみていて、嵐の表情は綻んだ。
昔と同じ匂いをした、昔と違う整地されていない道を歩く。祈りのを池を囲むようにあった、青い屋根の家々。その前には、池から引いた水で作られた小さな祈りの池あった。家を出るときには膝を折って、祈る。天恵、と小さく。彼らは時折その池の上にうっすらと姿を現して応えてくれるが、そうでないときのほうが多かった。それでも、リシマの民はそれを当然のように行う。遠い存在に向かって、親愛を伝える。
懐かしかった。
「そういえば、どう?」
「降らせてはいるんだが……どう思う?」
「すぐ気づくと思うよ」
嵐の軽い口ぶりに、飛雨は吹き出す。
「だろうな。由晴だもんな」
「水輝ちゃんのこと大好きだし」
「〝緑雨〟がリシマに向かっていたら、わかるよな」
「そうそう」
由晴が生きているとわかってすぐ、嵐が飛雨にした《《頼みごと》》は、雨を降らすことだった。
──雨を、降らせてほしい。水輝ちゃんの好きだった雨を降らせて、由晴くんをリシマに呼び出したい。
そう伝えると、飛雨は一言「いいよ」と頷いてくれた。
由晴に仲間がいて、赤船を名乗れるほどのことができているのなら──追いかけるのは無理だろう。向こうから来てもらうしかない。そう考えているのは、嵐だけではなかったらしかった。
飛雨は、慎重に雨を呼んだ。
東西南北の上空に、ぱらりと緑に澄んだ木漏れ日のような雨を降らす。アダマスが移動する先に、少しずつ範囲を狭めながら、由晴を呼び続けた。自室に戻ったときも、甲板で踊ったときも、一人でキッチンに行くときも。
シュナが〝忌避の子〟の力を完全にコントロールできているのが幸いしたのだろう。アダマスの誰にも、気づかれることはなかった。
由晴ならばすぐに気づくだろう。
水輝の好きだった雨の存在に。
呼んでいる飛雨の声に。
「言わなくてよかったのか?」
飛雨が試す口ぶりで言う。
嵐は頭に刺さる「誰か」の視線を無視するように頷いた。
「だって言ったら絶対止められるよ」
「……まあ、止めるだろうな」
「アダマスにいるなら、大丈夫。リストと、シュナがいれば絶対に誰も傷つかないし。アレンもね」
同意するように「確かに」と笑う飛雨は、アダマスが一番安全で──今からしようとしていることがどれほど危ないのかを覚悟しているようだった。いや、覚悟させたのだ。
嵐は手を握り込み、薄っすらと漂う虚しさに蓋をする。
「カルラには、本当に言わなくていいのか?」
もう一度確認をされ、嵐は無表情で頷いた。
「大丈夫」
準備はできている。
「わたしと飛雨だけで、大丈夫」
「そうか」
祈りの池に近づく。
鏡のような水面に、青空が映り込む。
天が、そこに広がっている。
「──〝木の目流し〟」
飛雨の声がぼわりと辺り一帯に響いた。
十年前のように、穏やかに、慈しまれるような、大きな腕の中にいる安心感をまとわせる。
祈りの池に、浅い春の芽吹きの雨がやってくる。




