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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
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 リシマに船を下ろすために下降すると、徐々に空気が濃密に、それでいて澄んでいくのがわかった。

 むっとした緑の匂いに混じる花の香りや、水の音。島の中心にある祈りの池から流れ込む清廉な空気が、迎え入れるようにゆっくりと波打つ。

 アダマスの船体は、池から少し離れた大木の近くに下ろし、数センチ浮いたまま静止した。


 (ラン)飛雨(ひう)は、カルラの風に運ばれ、リシマの地を踏んだ。

 その瞬間の、ふかっとした足の感覚。

 一面に生い茂る草が、嵐の膝を撫でる。


 生き返っている。


 そう感じられたことに、嵐の何かが揺れる。

 カルラの風「神渡(かみわた)し」が、最後に嵐を励まし、消えた。


「木の根があるから気をつけろよ」

「うん」

「相変わらず、何もいないな」


 空を見る飛雨が言う。

 生き物という生き物の気配はせず、葉が風に揺れる微かな音しかしなかった。


「懐かしいね」

「ああ」


 昔から、リシマに動物はいない。渡り鳥すら近寄らないのだ。

 この島に住むのは、リシマの民のみ。

 その静けさが、懐かしい。

 昔はあちこちで人の話し声が聞こえていたが、家から離れた森の中は、いつもこうだった。その中で、飛雨が森を歩く音を楽しみに待ち、隠れる。ふふふ、と笑ってしまうと、耳のいい飛雨はすぐに嵐を見つけ出した。

 そういえば、ここを離れてから飛雨が「よく聞こえている」様子はない。


 じっと見上げれば、飛雨はいつもよりも穏やかな顔で嵐を見下ろした。


「どうした?」


 その目は、嵐を不思議な気持ちにさせる。

 飛雨の心が、このリシマに戻ってこれたことを喜んでいる様に見えた。

 ただ無邪気に──解き放たれたように──思い出の中に身を置くように、どこまでも伸びやかに。

 

 ああ、と嵐は思う。


 ああ、飛雨はあの姿を知らないのだ。

 リストが捨て置かれたとき、リシマはひどい状態だった。あの黒ずんだ、怨念の染み付いような湿った大地が、去ろうとする嵐の足を掴むようにぬかるんだ。何を踏んだのだろう、と考えたくもなかった。誰かの骨を、何かの朽ちたものを、踏んで、振り返らずに助けもせずに、故郷をあとにした。

 

 十年前、飛雨はシュナを助けたが、シュナもまた飛雨を助けていたのだ。



「……なんでもない」


 嵐の答えに、飛雨は目元を和らげ、二人は開けた場所から祈りの池を見つめた。


 昔はその上にお(やしろ)の舞台がせり出していたが、今はその面影は一つもない。

 それでも、不思議なことに未開の地のような雑然とはした空気はなかった。まるで、今からでもリシマの民がどこからか現れるのを待っているように、島は彼らのための敷地を守っている。


 たとえ何も残っていなくとも。


 お(やしろ)がない光景が、嵐の胸を突く。

 鳥居を持つ、両手を伸ばしたような瓦屋根の立派な建物だった。一日の大半を飛雨についてまわって過ごした嵐の思い出のほとんどを占める大切な場所は、もうない。


 飛雨の横顔を見た嵐は、手を繋ごうとして、やめた。

 腕輪が共鳴し、脈打つように帰郷に喜び震えはじめる。


 嵐は落ち着かせるように腕輪を袖の上から撫でると、先に歩き出した。飛雨がついてくる気配がないことに気づき、振り返る。


「飛雨、行こう」

「ああ……」


 ふ、と笑う口元を隠す飛雨は、首を傾げる嵐にあまりにも素直に口にした。


「あのままここで育っていたら、と思っていたものを見られた気がして、な」

「あのまま」

「そう。ここで、嵐と」


 あのまま、十年。

 きっと水輝(みずき)由晴(ゆはる)は夫婦になっていて、舞台で祝いの舞を飛雨が踊るのを見守る。空にかかる虹を見つめる嵐の左目は、黒瑪瑙の片割れだったのだろう。そんなことを想像した嵐も、飛雨を見て笑う。


「本当だ。あのままここで生きてきた飛雨がいる」

「な」

「うん」


 本当は、違うことをふたりとも知っている。

 表情が違い、着ているものが違い、心が違う。

 剣が、感じたことのないほど重い。

 それでも、緑豊かで澄んだ水が流れるこのリシマにいるというだけで、夢のような心地だった。


「行こうか」


 そう言いながら差し出された手を、嵐は取らずに首を横に振る。

 もう繋げない。

 もう、無邪気に手を取ってはいけない。


 飛雨は不思議そうにしていたが、すぐに手をおろし、どこか諦めたように笑った。


「──わかってるよ」


 そう言い残し、(ラン)を追い抜く。

 

 飛雨も知っているのだ。

 嵐が、いつかカルラを心底愛すことを。



 心を超えて愛し合うということを。


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