57
アダマスがリシマへ航路を変更して二日。
最短距離を進んでいるらしいカルラは、それでも焦っている様子など一切見せず、落ち着いたように過ごしていた。
何も変わらない。
ハンモックで本を読むリストも、航海日誌を書くシュナも、昼寝をするアレンも、二階にいるカルラも。
ただ、いつもはキッチンにいる飛雨が、朝から甲板にじっと立っていた。嵐はその様子を、丸テーブルに頬杖をつきながら横目に見る。
もうそろそろ見えてくる頃だ。
リシマ。
十年前に、カルラが焼いて弔った島。
風がごうごうと煽る中、火の粉が空を飛んだ。まるで儚い命のように、ちらちらと天へ手を伸ばしていた。
詫びるカルラの声。手を繋ぐ飛雨の手。
それから二年後に見たリシマは、陰鬱な呪いが地に染み付いたような、おどろおどろしく黒く焦げた姿になっていた。憂うこともできないほどに、嵐の記憶の中の故郷は跡形もなく消え去っていたのだ。
リストを救出し、離れていく船の中、嵐はそれを目に入れなかった。
恐ろしかったのではない。
あんな姿を記憶に焼き付けることが、申し訳なかった。
「──嵐!」
はっきりと呼ばれ、嵐は反射的に立ち上がった。
駆けるように操舵室を出て、甲板の飛雨のもとへ向かう。白い三つ編みが後ろへなびき──飛雨の顔を見て知る。
「!」
飛雨の手が伸び、嵐の頭を乱暴に撫でた。その手から、飛雨の喜びが流れてくる。嵐の心までもが明るく浮くほどの、喜びだった。
緑豊かな島が、見えたのだ。
特徴的な歯車のような島。
その中心にある大きな池や、糸のような細い水路もはっきりと見える。
家々はないが、あの森が、木々が、草花が、息を吹き返したように芽吹いているのが一目でわかった。そこにはもう誰もいないとわかっていても、懐かしい光景が嵐の心を確かに打つ。
片付いた心の中に鐘の音が響くように、じわじわと広がっていく。
表情が緩み、嬉しそうに瞳は瞬いた。
「……飛雨」
「よかったな!」
「……うん!」
飛雨までもが嬉しそうに笑い、嵐も大きく頷く。
飛雨が左腕を広げると同時に、嵐は飛雨の首元に飛びついた。昔にそうしていたように自然に。ぎゅうっとしがみついて、ほっとする何かを手にして我に返り、おりる。
「……はしゃいじゃった」
「ふ。俺は嵐を抱えて今すぐ落ちたいくらいだよ」
「……本気?」
「ああ、本気だ」
飛雨が笑う。
陰りのない笑みに、嵐は胸がやわらかく熱くなるのを感じた。今まで感じたことのないそれに、思わず視線をリシマへと向け、そっと道の感情を抑える。
隣の飛雨は、欄干に手をつくと、島をじっと見つめていた。
近づく。
ゆっくりと下降する。
思う。ああ、天恵が落ちてくるときは、こんなふうに世界を見つめながら落ちてくるのだろうか、と。
「ついたの?」
操舵室から出てきたリストが、隣に並ぶ。
嵐が頷くと、その表情に驚いたように目を見張り、そしてリシマを見てまた驚いた。
「──きれい」
「うん」
「あの時と、ぜんぜん違う……」
感動しているように、それでいて罪を背負うように、リストは切なく目を細める。
嵐はその肩を抱き寄せ、飛雨は腕を回して頭を撫でた。
「ちょっと、子供扱いしてる?」
「してる」
「してないよ」
二人の答えに、リストは苦笑して、また「本当に、きれい」と呟いた。
後ろから、アレンが「知らなかった」と生命力溢れる緑を見下ろしながら噛み締めるように言う。
「ここが、リシマ」
「ええ。空気が違うところですよね」
カルラも、複雑な感情を抑えながら頷く。まるで自分が踏み入れてはならない場所を見つめるように、手を握った。
嵐の瞼に、一瞬だけ血溜まりに満たされたリシマを歩く靴が浮かぶ。
けれど、その記憶はすぐに彼によって丁寧に片付けられた。
嵐はカルラの背を叩こうとして、やめる。
強く手を握って、おろした。
「……」
飛雨が、ばしっとカルラの頭を叩く。
「辛気臭い顔すんな」
「ふ! ありがとうございます」
笑い出すカルラは「こうやって撫でるんですよ?」と言いながら、お手本のように飛雨の頭を撫で初めたが、当然のようにすぐさま払われる。
「ヒューは優しいですね。ねえ、シュナ」
「そうだね!」
にこにこと嬉しそうに笑っていたシュナは、何かを探すようにリシマを見つめた。
「ランちゃん、綺麗なところだね。ランちゃんの持つ空気がいっぱいだ」
「……わたし?」
「うん。強くて優しい空気!」
思わずシュナにきゅっと抱きつくと、彼女は笑いながら抱きしめ返して「おかえり、だね」と言ってくれるのだった。




