56
「飛雨」
嵐は握った手を離しながら、一度目を伏せた。
「ん?」
次に目を開けたときには、飛雨の顔をしっかりとその目に映す。そして、ほんの少し笑む。
「あったかいもの、飲みたい」
「……ナザミ酒を温めてくる」
「はちみつ、ある?」
「あるよ」
指先で髪を梳き、とんとんと頭を撫で、飛雨が静かに立ち上がる。
「……カルラ、少し頼む」
嵐はようやく、背中にその気配を感じた。
カルラのソファからかすかに軋む音がして、眠たげな声が返ってくる。
「はあい」
寝ていたようなその声に、飛雨はなんとも言えないようなため息を吐いた。
「全員分作ってくる。待てるか?」
「うん」
「もう少し寝といてもいいからな」
「うん」
なるべくいつものように返事をする嵐を穏やかに見て、飛雨は静かに降りていった。その黒い髪が見えなくなるまで見送り、目を閉じる。
一階の窓を全て開けているのだろう、甲板でアレンとシュナとリストが、何やら話している声が聞こえてきた。
楽しげな声にほっとしていると、しばらくして、ナザミ酒を煮飛ばしている甘い香り二階に届いてきた。身体の緊張がほぐれていき、頭の中が片付いていく。
青嵐の姿さえ見えないように、真っ白く消し飛ばす。何も見えない。何も無い。どれほど広がっているのかわからない白い箱の中に、ただ自分を溶かす。記憶を少しずつあやふやにしていく。囚われない距離まで、ゆっくりとゆっくりと形を削っていく。
そして残るものだけを支えにする。
嵐は笑っていた。
目を開け、じっと自分の手を見つめる。
結局、残るのは同じだった。今も、あの洞窟の中にいた七つの自分と同じ──
飛雨を生かすために、生きていく。
「ラン」
カルラが、控えめに嵐を止めた。
嵐は目を開くと、緩慢な動きで起き上がる。
カルラの「船長の椅子」を覗き込むと、寝転がっていたカルラと目が合う。
「言ったでしょう。あなたの感情が高ぶると視覚が繋がる、と」
「何が見えたの?」
「手です。あなたの手」
嵐は小さく笑いながら、ショールを返した。
やはりカルラには「今見えているもの」しか見えないらしい。記憶を覗けるのは、嵐だけなのだろう。
「カルラ」
「はい」
「〝常闇の瞳〟が、何かわかった」
カルラが驚いたように身を起こし、ちらりと階段を見た。
「昨日、それを春風から聞いたんですね?」
「うん」
「それで様子が──」
「カルラだけに教えるから、誰にも言わないで」
嵐は短く遮り、カルラを見つめる。
そうして春風に聞いたことを端的に伝え、頼んだのだった。
わたしが死なないように、助けてほしい、と。
わたしのことを、愛さないでほしい、と。
「もう起きて平気なのか?」
一階におりると、飛雨がキッチンから嵐を見た。
「うん。大丈夫」
「嘘つくな」
「つけるもん」
「ふ」
優しい笑い声を聞きながら、嵐は自分の椅子に座った。
風のない午後。
広々とした生活感溢れる操舵室に、燦々と日差しが入り込む。
シュナが育てる緑が光を飲むように葉を伸ばし、ナザミ酒のアルコールが飛ぶ香りが埃の間を縫うように満ちていく。開け放たれた窓の外で、雲がアダマスと同じ位置で泳ぎ、甲板の三人は嵐が降りてきたことに気づきながらも、こちらに来ないまま楽しそうに舞っている。
テーブルに頬杖をついて目を閉じると、じわりと右目の〝瞬きの瞳〟が霞むのを感じた。
まぶたに何かを映すように、広がっていく。
春風の前に、誰かが膝をついている。
ああ、自分だ、と嵐は頭の片隅でそれを理解した。
彼は、じっと見ている。視線はわずかも動かない。見守るように切実に、焦りを抑えるように辛抱強く手を握り込む。
呼ばれて動く足。
手を取られて、唇が触れた瞬間にわずかに走る雑音。
声を重ねた瞬間の、尊いものの片鱗に触れたよう動揺。
梟の翼が大きく動いて去っていく直前に呼ばれた自分の名前が、聞いたことのない美しい響きに聞こえる。
暖かく穏やかな風が吹く。何かが満ちる。不安と心配と、そして深い愛のような何かが。
嵐はゆっくりと目を開けた。
二階を見て、繋がった視覚と記憶を断ち切るように目をそらす。
最後に流れ込んできた、倒れた少女を悲しげに抱き上げる感情を、見なかったふりをする。
「嵐」
呼ばれて、嵐はキッチンへ走った。
頭の中には、白く片付いた部屋が静かに広がっている。




