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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
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飛雨(ひう)


 (ラン)は握った手を離しながら、一度目を伏せた。


「ん?」


 次に目を開けたときには、飛雨の顔をしっかりとその目に映す。そして、ほんの少し笑む。


「あったかいもの、飲みたい」

「……ナザミ酒を温めてくる」

「はちみつ、ある?」

「あるよ」


 指先で髪を梳き、とんとんと頭を撫で、飛雨が静かに立ち上がる。


「……カルラ、少し頼む」


 嵐はようやく、背中にその気配を感じた。

 カルラのソファからかすかに軋む音がして、眠たげな声が返ってくる。


「はあい」


 寝ていたようなその声に、飛雨はなんとも言えないようなため息を吐いた。


「全員分作ってくる。待てるか?」

「うん」

「もう少し寝といてもいいからな」

「うん」


 なるべくいつものように返事をする嵐を穏やかに見て、飛雨は静かに降りていった。その黒い髪が見えなくなるまで見送り、目を閉じる。


 一階の窓を全て開けているのだろう、甲板でアレンとシュナとリストが、何やら話している声が聞こえてきた。

 楽しげな声にほっとしていると、しばらくして、ナザミ酒を煮飛ばしている甘い香り二階に届いてきた。身体の緊張がほぐれていき、頭の中が片付いていく。


 青嵐の姿さえ見えないように、真っ白く消し飛ばす。何も見えない。何も無い。どれほど広がっているのかわからない白い箱の中に、ただ自分を溶かす。記憶を少しずつあやふやにしていく。囚われない距離まで、ゆっくりとゆっくりと形を削っていく。

 そして残るものだけを支えにする。


 嵐は笑っていた。

 目を開け、じっと自分の手を見つめる。

 結局、残るのは同じだった。今も、あの洞窟の中にいた七つの自分と同じ──



 飛雨を生かすために、生きていく。



「ラン」


 カルラが、控えめに嵐を止めた。

 嵐は目を開くと、緩慢な動きで起き上がる。

 カルラの「船長の椅子」を覗き込むと、寝転がっていたカルラと目が合う。


「言ったでしょう。あなたの感情が高ぶると視覚が繋がる、と」

「何が見えたの?」

「手です。あなたの手」


 嵐は小さく笑いながら、ショールを返した。

 やはりカルラには「今見えているもの」しか見えないらしい。記憶を覗けるのは、嵐だけなのだろう。


「カルラ」

「はい」

「〝常闇の瞳〟が、何かわかった」


 カルラが驚いたように身を起こし、ちらりと階段を見た。


「昨日、それを春風から聞いたんですね?」

「うん」

「それで様子が──」

「カルラだけに教えるから、誰にも言わないで」


 嵐は短く遮り、カルラを見つめる。

 そうして春風に聞いたことを端的に伝え、頼んだのだった。


 わたしが死なないように、助けてほしい、と。

 わたしのことを、愛さないでほしい、と。








「もう起きて平気なのか?」


 一階におりると、飛雨がキッチンから嵐を見た。


「うん。大丈夫」

「嘘つくな」

「つけるもん」

「ふ」


 優しい笑い声を聞きながら、嵐は自分の椅子に座った。

 風のない午後。

 広々とした生活感溢れる操舵室に、燦々と日差しが入り込む。

 シュナが育てる緑が光を飲むように葉を伸ばし、ナザミ酒のアルコールが飛ぶ香りが埃の間を縫うように満ちていく。開け放たれた窓の外で、雲がアダマスと同じ位置で泳ぎ、甲板の三人は嵐が降りてきたことに気づきながらも、こちらに来ないまま楽しそうに舞っている。


 テーブルに頬杖をついて目を閉じると、じわりと右目の〝(またた)きの瞳〟が霞むのを感じた。

 まぶたに何かを映すように、広がっていく。




 春風の前に、誰かが膝をついている。

 ああ、自分だ、と嵐は頭の片隅でそれを理解した。

 彼は、じっと見ている。視線はわずかも動かない。見守るように切実に、焦りを抑えるように辛抱強く手を握り込む。


 呼ばれて動く足。

 手を取られて、唇が触れた瞬間にわずかに走る雑音。

 声を重ねた瞬間の、尊いものの片鱗に触れたよう動揺。

 梟の翼が大きく動いて去っていく直前に呼ばれた自分の名前が、聞いたことのない美しい響きに聞こえる。

 暖かく穏やかな風が吹く。何かが満ちる。不安と心配と、そして深い愛のような何かが。




 嵐はゆっくりと目を開けた。

 二階を見て、繋がった視覚と記憶を断ち切るように目をそらす。

 最後に流れ込んできた、倒れた少女を悲しげに抱き上げる感情を、見なかったふりをする。

 


「嵐」


 呼ばれて、嵐はキッチンへ走った。


 頭の中には、白く片付いた部屋が静かに広がっている。





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