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嵐が視線を動かすと、飛雨は額の汗を拭いながら「二階」と短く答えた。
丸い天窓が目に入る。燦々と午後の日差しが降り注ぎ、それは時折雲で遮られていた。
操舵室の二階。
よく見れば、寝ているのは絨毯の上で、身体にかけられているのはカルラに編んだショールだ。
傍らに座る飛雨は、やわらかな声で尋ねた。
「……昨日、夜に天恵が来たろ」
「うん」
「気づいて部屋から出たときに、リストから嵐とカルラで対処するって言うから引っ込んだが……何があった?」
嵐はゆっくりと瞬きを繰り返しながら、見下ろす飛雨を見つめる。
言い淀んでいるのではなく、言葉を探している嵐を見透かしているように、飛雨は優しく目を細めた。
声が自然と喉をせり上がる。
「疲れたんだと思う」
「そうか」
「……春風が」
「四季が来たのか?」
飛雨の声に問いただすような色はない。ただ、穏やかに繰り返している。
昔を思い出す。
リシマの中央のお社。その舞台で眠ってしまうと、よく夢を見た。氈鹿の背に乗って木々を抜け、大蛇とともに水浴びをし、梟と空を飛び、兎と雪原を走る。目が覚めると、その自由を失ったことを嵐は泣いた。
飛雨は舞をやめて、突進してくる嵐をなだめる。
あまりに泣くときは、飛雨は明るく笑い飛ばすこともあった。
嵐はむぎゅむぎゅと抱きしめられ、つられたように笑い出す。
「会ったから、かもな」
飛雨は嵐の前髪を流しながら呟いた。
「水輝が近くにいたから、懐かしくなって降りてきたんだろう」
「……飛雨は」
どこまで知っているのか、と聞きそうになる。
飛雨は小さく目を細めた。
「春風は、よく水輝が舞うと風を送ってくれただろう」
「……うん」
「無事に帰せたなら、よかった」
「うん」
「──嵐がすべての天恵に呼びかけられることは、知られないようにな」
声を潜めた飛雨に、嵐は頷きながらその手を取った。
硬い手。傷ついてきた手。その手を、両手で祈るように握る。
ふと、理解した。視線なのか、声なのか──けれど確かな何かから、伝わってきたのだ。
知らない。
飛雨は、知らない。
自分が〝嵐の子〟のために、リシマに連れてこられたのだということ、知らない。
生まれてすぐに〝常闇の瞳〟に気づいた本当の両親が、すぐに飛雨をリシマを治めるお社の本家へと渡したことを、知らない。生みの両親も、育ての両親も、四人もシトリアに殺されたなんて恐ろしいことを、知らない。
嵐の頭の中に、春風の幻影が悲しそうに微笑む。
──〝常闇の瞳〟はね……〝嵐の子〟に捧げられるために先に生まれてくるの。必ずリシマから遠い地で、リシマの子孫に生まれる。リシマで〝嵐の子〟が生まれれば、お社の家の者は血眼になって大陸を探しまわるけれど、見つからないことのほうが多いわ。だからこそ、捧げもののいなかった〝嵐の子〟は、多くは自ら両目の瞳を返し、一生を暗闇の中で生きてきた。それでも、どうにか抑えられる程度なの。それほどに〝嵐の子〟の力は強い……天恵を使役できる力で、リシマを滅ばさぬように、みな手を尽くしてきたわ。でも──あの雨の子は。
見つかってしまった。
母親が、お社の家の血の者で、その存在を知っていからだ。
飛雨の両目を見て、すぐにリシマへ戻った。
──〝常闇の瞳〟というのはね、嵐。
幻影の声が頭に響く。
──〝嵐の子〟のために生きる者。守り、愛し、最後には殺すために存在する者よ。
飛雨の温かい手を、嵐はぼんやりと見つめる。
──片方の瞳を交換することで、〝嵐の子〟の力を抑えるのだけど、瞳は一つしか交換できない。あなたはもう彼と交換してしまったわ。それも〝遠見の瞳〟と。あなたの力は徐々に強くなるでしょう。身体にその瞳が馴染むたびに、魂のつながりも強くなる。あなたと彼の出会いは悲劇としか言いようがないけれど──あなたが今できることは、一つだけ。決して、力を暴走させてはいけない……それだけよ。もし、そんな事が起きたときには──
「ごめんね」
嵐は飛雨の手に呟いた。
小さな声で、聞こえぬ声で。
──そんなときが起きたときには、〝常闇の瞳〟を持つ雨の子は、自分の瞳に逆らえず、あなたを殺すでしょう。長い歴史の中で、みな同じことをした。遠い地にいても、〝常闇の瞳〟の子は〝嵐の子〟の暴走の前兆を知ると、駆けつける。ようやく会えた愛おしさを感じながら、瞳の交換ができなかった二人は、いつも血溜まりの中で死んだ。愛するものを手に掛けたあとに選ぶ道は、いつの時代も変わらない。悲しいことにね──それが、〝常闇の瞳〟をもつ者の運命なのよ。




