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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
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「……帰せましたね」


 カルラの手が、ゆっくりと(ラン)の手を握り返す。

 落ち着きなさい、というように。

 そのぬくもりに、嵐は笑い出したくなった。

 それでも抑え、カルラの手を離し、立ち上がる。


「うん。よかった。合わせてくれてありがとう」


 カルラの解放された手を、ちらりと見る。

 不思議なことに、カルラの手を取った瞬間、必ず自分に合わせてくるのがわかった。

 信頼している、という生易しいものではない。

 確信だった。

 激しい支配にも似た、確信。


 カルラは戸惑っている様子もなく、ただ嵐を注視するようにゆっくりと立ち上がる。


「……天恵と、話を?」

「カルラの名前を聞かれたから答えたの」

「それだけですか?」


 躊躇いの隙間から、カルラが射る。

 その優しい声色に、記憶の中の幻影の声が重なった。


 ──ああ。こんなにも一つになって……苦しむのはあなたなのに。


 嵐を気遣う天恵春風(はるかぜ)の顔が霞んでいく。

 代わりに、頭の中に白い(もや)が浮かんできた。


 青嵐(せいらん)

 その蜂蜜色の瞳が問うてくる。

 おまえはどうやって生きていくのか、と。

 嵐は笑った。笑ったつもりだったが、彼はその強く光る目は悲しげな色に滲んでいく。

 それでも、答えはいつも変わらない。


 飛雨(ひう)を生かすために生きていく。

 飛雨のための瞳になって生きていく。

 それが、許されるのであれば。



「なんでもないよ」


 カルラにそう言いながら、嵐は甲板を立ち去ろうとした。

 が、腕を掴まれる。


「言えないことを言えとは言いません。信頼されていないとも、思っていない」

「……」

「ただ、一人で抱えるのは限度がある。それに、あなたはまだ子どもなんです」

「カルラ」


 手を離して。

 そう言おうとした瞬間、嵐の身体は鉛のように重くなり、足から力が抜けていくのを感じた。

 視界が狭まっていく。






 この手は一体何なのだろう。

 嵐はじっと、自分の腕を掴む手を見ている。


 ──ラン。


 そう呼ばれ、ああ、これは夢なのだと気づく。

 夢だ。

 こんな真っ暗な中で、淡く光る手だけが希望のように煌々と輝いている。


 ──ラン。


 カルラだ。

 この声は、大人ぶる彼の声だ。

 暗い洞窟の中に「何もしませんから、出てきてください」という声が響くと、嵐は笑った。ここにいるではないか。手を掴んでいるのは、誰でもないカルラだ。


 ──ラン。


 何度も呼ばれる。

 何度も囁かれる。


 徐々に、言いようのない不安感が込み上げてきた。


 手を振りほどきたい。

 けれど、できない。

 腕が動かない。


 どうしてできないのだろう。

 離れたい。離れたい。この人から今すぐに。そうでなければ、己の愚かさに泣き喚いてしまいそうだった。抑えたそれが吹き出しそうだった。手を振りほどくための勇気がでない。こんなことならば、船から飛び降りるほうが何倍もましだ。身体が──意識が、ガクガクと震えだす。


 縋りたい。

 助けを請いたい。

 そんな情けない自分が飛び出そうとする。

 その下から、怒りに満ちて震える自分が、泣き出すもう一人の頭を抑えて逃げ出そうとする。

 リシマに帰りたい。

 みんなが生きているあの場所に、帰りたい。



 『抑えなさい。耐えなさい』



 春風の幻影が言う。

 震える。

 どうやればいいのかわからない。

 どうしていつものよう片付かないのか、わからない。

 塗りつぶされるような大きな感情の波の中で、溺れながら喘ぐ。

 輝く手に縋りそうになるのを、もう一つの心が許さない。怒る誰かが、許さない。

 青嵐。

 そう呼びそうになる。

 身を捩る。

 意識と意識が分かれそうになる痛みの中で、助けを呼びそうになる。








「ひ、う」



 ハッと目を覚ました嵐の額を、何かが拭った。


 その瞳を見た途端、嵐の〝(またた)きの瞳〟にうっすらと涙が浮かぶ。蜂蜜色の瞳が、わずかにチカチカと瞬く。


「嵐」


 飛雨の黒に塗りつぶされた瞳に、嵐はほっと深い息を吐いた。


「……ごめん」

「落ち着いたか」

「……」

「めずらしいな。嫌な夢?」


 涙になる前に拭うように、飛雨の無骨な指の腹が優しく動く。

 細く長いカルラの指とは違う、と比べている自分の思考に気づき、目元を険しく細めると、飛雨はなぜか笑った。


「懐かしい」

「……何が?」

「嵐、よく昼に疲れたって言い出して、どこでも寝てたろ。お(やしろ)の舞台で、よくエネルギー切れたみたいに寝てた。その間、俺は嵐を起こさないように、静かに練習してた。起きると、嵐が泣き出すから」


 ああ、安心させてくれているのだ、と思うと、嵐の右目はまた瞬いた。

 涙は出なかったが、無表情の嵐の心を雄弁に語るように、小さく、しかし確かに飛雨を呼んでいた。







 ──〝常闇の瞳〟はね、嵐の子への捧げものなのよ。


 幻影が、悲しそうに微笑んでいる。





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