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そわり、と頬に触れられたような感覚に、嵐は夜空を見上げた。
左の灰色の瞳が、大きく見開く。
雲の上の、更に上。
星の光の隙間に、透明な球体が浮かんでいた。
中で薄い雲が大きな円を描きながら、アダマスに向かって下降している。
ゆらりと雲を貫いて落ちてくる。
まるで意思を持ったように。
「! みんなを起こしてくる」
球体を目視したリストが駆け出すのを、嵐は手を掴んで止めた。
「大丈夫。あれは風の天恵だから、わたしとカルラで対処する」
「──ええ。リスト、あなたも早く休みなさい」
操舵室から出てきたカルラは、リストの肩を宥めるように叩く。
「今日は疲れたでしょう。こちらは大丈夫です。私に任せてください。ね?」
優しく笑んだカルラと、こくんと頷いた嵐の顔を見たリストは、何かを察したように「わかった。終わったらちゃんと休んでね」と言い残し、足早に船室へ降りていった。リストの頭が見えなくなったのを確認して、嵐はカルラとともに船首へ向かう。
「見えました?」
「うん──春風、だね」
「四季の天恵が来るなんて……ちゃんと帰せるといいんですけど」
「さっきリストに大丈夫って言ってなかった?」
「心配させたくないんです」
「大人だね、カルラ」
「ええ、おじいちゃんですよ」
嵐は小さく笑った。
二人が話す間にも、それは下降を続ける。その重々しさとは違い、どこか舞い降りるようにふわふわと落ちてくる。
雨粒のように、葉のように、花のように、二人に向かって降りてくる。
「アレンが言ったこと、まだ気にしてたんだ」
「そういうお年頃なんです」
「今いくつなの?」
「……当ててみてください」
「それ言う気がないやつでしょ」
カルラが空を見ながら「秘密です」と呟くと同時に、おちてきた球体は、アダマスの船首と同じ位置でピタリと止まった。
円を描いていた雲が、内側からぼわりと薄紅の光りを放つ。
淡い光は、嵐とカルラの輪郭を存分に撫で終えると、満足したようにと小さな音を立てた。
パリ、と。
外殻の上部が花びらのように変化し、内側から溢れるように崩れはじめる。
何かを思い出すような色だった。
由晴の淡桃の〝瞬きの瞳〟。
まだどこかで生きている、リシマの民。
どこにいるのだろう。
嵐は崩れ行く外殻を見つめながら思う。
落ちた花びらは、海まで届くことなく光となって消えていく。
この光は、由晴まで届くのだろうか。黒い砂漠の青い光のように。
ふと、カルラが一歩後ろに引いた気配がして、嵐は殻から出てきた天恵の姿を目に映しながら、ゆっくりと跪いた。
梟。
その濁りのない目が、じっと嵐を見つめる。
短い灰色の嘴、耳のような羽角。
ふっくらと大きな体の羽は、薄紅色が柔らかにちらちらと舞っている。
嵐は目線を下げるとそっと腰の剣に触れ、静かに引き抜いた。
『──それは不要よ』
甘い声が、嵐の耳に届く。
一瞬手を止めてしまった。
嵐の目の前には、白く光る幻影が微笑んでいる。彼女は髪を揺らしながら、嵐を優しく見守っていた。
『白き嵐の子……ああ、なんて大きくなって』
彼女の温かな愛にも無表情を貫く嵐は、剣を抜き切るといつものように置いた。
「天恵──春風、天へお帰りください」
頭を下げる。
すると、幻影も無邪気にしゃがみ込んだ。下から嵐の顔を見つめ、美しいまつげは柔らかな羽根のように笑む。
『私と話をしてくれるのなら、帰るわ』
嵐の無言を責めることなく、彼女はちらりとカルラを一瞥した。
『彼は、変わらないわね』
幻影は白く細い手で嵐の頬を撫で、顔を上げさせると、左目の下を優しくなぞった。
『なんという因果かしら。〝遠見の瞳〟を、嵐の子であるあなたが受け取るなんて』
「……どういう意味?」
『あなたにはあの〝常闇の瞳〟が必要だったというのに』
「!」
嵐が目を見開くと、幻影は嵐の右頬を撫で、〝瞬きの瞳〟を懐かしそうに眺めた。
『悪戯をしようとしているわね? あなたの雨とともに』
「……〝常闇の瞳〟って」
『あなたに必要なものよ』
「わたしと何を話したいの?」
尋ねる嵐に、幻影は唇を動かす。
その言葉は、嵐にとって残酷なものだった。




