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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
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 ──返り血で(おのれ)(けが)してはならぬ。



 リシマの惨状を見たあとでは、どうでもいい教えだった。

 エトライを出てアレンを拾って、半年。

 逃亡を始めて一年目のことだった。


 心身が回復すると同時に湧き上がる怒りを、八つの(ラン)はどう扱うべきかわからないまま、それでもアレンが加わったおかげて平穏に身を委ねることに慣れ始めた頃だ。

 飛雨(ひう)もそうだったのだろう。

 ふたりとも、油断していたのだ。

 圧倒的な力でねじ伏せられる惨めさと恐怖を、忘れていた。


 気象空挺団の者に、水輝(みずき)の瞳が使われていると知ったとき、嵐の奥底に閉じ込めた怒りが身体を貫くように噴出した。


 飛雨を傷つける者は許さない。

 水輝の瞳を手にする者がいるのなら、許さない。

 頭の中はそれだけだった。


 ──ラン!


 カルラが叫ぶ。

 後ろからナイフを取り上げられ、覆われるように動きを封じられる。

 カルラが持つナイフには確かに血がついていたが、残念なことに男は死んでなどいなかった。

 ただ驚いたように嵐を見ながら、咄嗟に庇った右腕を左手で抑えている。

 嵐はただ睨む。

 まだカルラよりも若い、青年を。


 ──〝(またた)きの瞳〟?


 そう愕然と呟いた彼から感じた罪悪感に、嵐は激しく反応した。


 返して、と。

 水輝ちゃんの瞳を返して。


 泣き叫ぶような声だった。

 涙など出てこなかったが、カルラはきつく嵐を抱きしめ、苦しげに「すみません」と謝る。


 男はなぜかひどく動揺していて、自分の胸元にある小袋をきゅっと握った。

 嵐はもがく。カルラの腕に爪を立てながら、引っ掻く。



 触らないで、人殺し!



 ぱっ、とカルラの腕が離れた。

 彼を傷つけたことに気付けない嵐は、男に向かって飛び出した。どうにかできるわけがない。それでも、水輝の瞳が入っているその袋を取り戻そうとした。が、今度はふわりと持ち上げられ、離される。


 ──ラン、落ち着いて。


 アレンだった。

 幼子を抱くかのように柔らかく抱きしめられる。

 嵐の心が締め付けられるように痛み、その向こうに立ち尽くす飛雨が、悲痛な表情で走ってくるのが見えた。

 アレンが嵐をおろすと、飛雨が嵐の手を強く握る。


 ──〝返り血で(おのれ)(けが)してはならぬ〟そう言われてきただろ。


 関係ない。

 もうみんな死んだのに。


 嵐の言葉に、男が視線を下げて歯を食いしばり、小さな声で呟いた。


 ──そういうことか。


 そうです、と答えたのはカルラだ。

 男は、カルラが死んだことになっている理由も、それが嵐と飛雨の存在も、何も口に出さずに飲み込んだ。

 そうして、嵐を見た。

 先程までの動揺をすべて押し殺し、淡々と事実を告げるように心を凍てつかせていた。


 ──リシマの民よ。この瞳は、返すことはできない。王から我が役目とともに賜ったものだからだ。決して不要な天恵の殺戮はしないと誓おう。気象空挺団の役割は、民を守るためであり、そのためにこの瞳を使う。不快だろうが、返すことはできない。

 男はそうして、名前を名乗った。


 ──私はノヴァ。いつか君たちに殺されることを甘んじて受け入れよう。しかし今はできない。申し訳ない。


 飛雨が、飛雨の手が、震えている。


 ──じゃあお前のきょうだいの瞳をもってこい。それは俺の姉のものだ。


 飛雨の言葉に、ノヴァは息を呑んだあと、私にきょうだいはいない、と一言、呟いた。

 私が殺してしまったからだ、と。


 嵐は出窓に身体をすっぽりとおさめ、剣を抱きながら外を見ていた。

 空を飛ぶ船。

 逃亡船。

 カルラの船。

 悲しみが乗っている、船。

 ここが家だ。

 ここが、嵐の終の棲家だ。


 あれから、嵐は人を傷つけたことはない。


 飛雨は、あの時まっすぐに嵐のところへと来た。ノヴァのところではなく。

 怒っているのではなく、ひどく悲しんでいたからだ。

 感情で力を振るった嵐を、飛雨は自分に深い傷を負ったかのように顔を歪めていた。


 ──返り血で(おのれ)(けが)してはならぬ。 


 八つの嵐にも、今の嵐にとっても、どうでもいい教えだ。

 けれど、飛雨を傷つけることだけはしたくない。したくないのに、この間は青嵐(せいらん)を呼んで叱られたばかりだし、さっきは彼が一番嫌がる方法で脅した。


 守るために傷つけることを厭わない自分を、どうして押し殺せないのだろう。

 嵐はぼんやりと外を見つめ続ける。


 ふと、空に小さな影が浮かび、消えた。

 トファルが風を読んで船から離れたのだろう。

 彼女も持っている。リシマの誰かの瞳を。



 昔のような激情は、嵐の奥底からは湧いて出そうにはない。



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