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船が動いている。
きらめく海の上を駆けるアダマスの操舵室には、甘い香りが漂っていた。
「……マローケーキ」
ぼリストが呟くと、嵐はパチっと目を開ける。
未だリストのハンモックを間借りしていた嵐は、リストの背中に優しく潰された。
「できたっぽいよ。まだ寝るの?」
「起きる」
「だよね」
リストはハンモックを揺らし、先に降りる。
「早く取りに行かないとアレンに食べ尽くされるよ?」
「それはいや」
「ほら」
手を差し出してきたリストの手を、嵐はのそのそと動いて取った。
カルラが何を思って、嵐とリストを同室にしたのかはわからない。思い出してみれば、確かに最初のリストは嵐に怯えていたような気がする。嵐は全く気にせず、リストの世話を焼いた。彼が怯えようと顔色をうかがってこようとも気にせずに、朝には起こして、夜には部屋に手を繋いで連れて行ってベッドに無理やり登らせて寝かせ、飛雨の手伝いもさせた。
今思えば、あの頃は弟の面倒を見ているつもりだったのだろう。
嵐に弟はいなかったが、弟を模した人形の世話は焼いていた。母の作った白い猫で、飛雨にまで世話をさせていたような気がする。布団をかけさせて昼寝をさせたり、おやつを準備させたり。
「……」
「笑うなんて珍しい。どうしたの」
「? 笑ってないよ」
嵐が答えれば、リストは嵐をハンモックから引っ張り出しながら笑う。
あんなに怯えていた小さかった子供が、今やこの船の誰よりも大人だ。
いつの間にか話をするようになり、笑うようになり、自分を受け入れ始めた。自分がしたことを一瞬も忘れず、戒めながら、それでもいつまでも自分を憐れむのをやめたのだ。
嵐や飛雨とは違う方法で、自分の足で乗り越えようとしている。
その強さは、眩しいほどだった。
「いいや、絶対笑ってた」
「そうかな」
「絶対そう」
昔は弟のように世話を焼いていたが、今となっては兄のような振る舞いだ。
ハンモックを降りた嵐の服の皺を手で払って整える。
「おとなになったね」
「何言ってるの」
呆れたリストと開放的なキッチンに向かうと、ちょうど飛雨が皿をカウンターに置くところだった。
ことん、と置かれた皿を見て、嵐の目がほんのり輝く。
「……」
飛雨特製のマローケーキは、港に寄った時にしか出てこないご馳走だ。
ふんわりと膨らむマロー、をベルドナッツのミルクで練って作られた、甘いケーキ。今日はそれが二段になっていて、さらに真っ赤なリーニの蜜漬けが贅沢に半分に切って乗せられていた。赤いドームがきらきらと輝き、その蜜がケーキをつややかに彩る。
珍しくリストも年相応な表情でそれを見つめて「おいしそー」とこぼした。
「おやおや、できましたねえ」
「おやつ、おやつ」
嵐とリストの後ろから、カルラとご機嫌なアレンが覗き込む。
「アレン。食べるなら髪を一つに結え」
飛雨が皿をカウンターに置きながらアレンに注意をすれば、アレンは飛雨を手伝っていたシュナの手からフォークをひょいと取り上げた。
一つにした髪を器用にくるくると巻き付け、フォークを刺す。
「結った」
「……よし」
仕方なさそうに許可をした飛雨の隣で、フォークをもう一本出すシュナから受け取ったアレンは、いち早くテーブルに向かった。
カルラが感激したと言わんばかりに、黒眼鏡を押し上げる。
「……ヒューは本当に……ええ、本当に面倒見がいいですね……」
「誰のせいだろうな」
「え? 私ですか?」
「──カルラがしっかりしないから」
リストもそう呟き、自分の皿とシュナの皿も持って行く。
「えー……私、しっかりしてませんかね……? ねえ、シュナ」
「カルラさんにはカルラさんだけの、カルラさんにしかできない……アレがあるよ!」
「ありがとうございます」
シュナの精一杯を重く受け止めたカルラも、皿とフォークを持っていく。
シュナは慌てたようにカルラの後ろをついていきながら「背が高い」やら「髪がふわふわ」と励ましている。そのたびに肩がしょげているので、アレンまで「声がいい感じ」と加勢していた。わけのわからない船長褒めちぎりタイムが生まれている。
甘いかおり。優しい味。穏やかな、空気。
「機嫌は直ったか」
最後まで残っていた嵐に、飛雨が皿を出しながら聞いてきた。
よく見ると、みんなよりも少しだけ大きい気がする。
別に悪くないよ、と嵐が答えると、飛雨は「そういうことにしておく」と言いながら、二人分の皿を持ってテーブルへ向かい──嵐はそれをどこかむず痒い気持ちになりながら、ゆっくりと追いかけるのだった。




