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その船は空に浮かぶ。旗は漆黒。
船というには小ぶりの底が深い木製の帆船だが、帆もなければ索具もない。
あるのは 二本の帆柱と、それに水平に渡されている帆桁だけだ。船を見たある者は、それを鳥居と呼ぶ。
夜空をゆったりと飛ぶ船の周囲は静寂に満ちている。
黒い船旗を見た他の船は、避けるように舵を切るからだ。年季の入った小さな船の黒い旗に恐れをなして、鉄製の大型船が背を向ける。
アダマス。
乗船員はたったの六名。
ころんとした、吹けば飛ぶような小さな船──その寂しい甲板に、人影が一つ、じっと佇んでいた。
小柄な身体は汚れたマントに包まれているが、美しい姿勢から辛抱強さが見て取れる。雲間から月が顔を出せば、帯剣された華奢な剣が輝き、彼女の真っ白い髪もまた照らされた。横顔はどこか幼く、顔の右側を隠している伸びた前髪も、後ろで三つ編みにまとめられている白い尾も、風になびくことはない。
目を瞑ったまま、無風の静寂の中で一人、彼女はその気配を待っていた。
「……まだそこにいるつもりか」
後ろから声をかけられ、瞳をゆっくりと開く。
落ち着いた灰色の左目は、鳥居の下の階段を上がってきた男を見を見つけると、ほのかに細くなった。
「飛雨」
彼女に甘く呼ばれた男は、無表情の中にも淡い視線を混ぜる。
額で分けた黒い髪に、鋭い三白眼。左頬の下には深い傷跡がある。
「もう三時だ。そろそろシュナも眠りにつく。部屋へ行け」
「ああ……」
「嵐」
叱られるように呼ばれても、嵐は動かない。
ぼんやりと空を見ていると、飛雨が歩いてくる足音がした。コツコツと、ブーツの音がする。昔は静かな草履の音だったというのに。彼が纏っていた汚れ一つない白い装束姿が懐かしい。ふと感じた郷愁を隠すように、嵐は目を伏せた。
悲しみにも、喜びにも、哀れみにも見える、無表情な彼女なりの微笑みを、飛雨は何も言わずに受け止めると、嵐の顔に手を伸ばし、右目を隠す前髪を指先でそっと流す。
嵐は穏やかな指先を追うように、飛雨を見上げた。
左目は灰色だが、右目はこぼれるような蜂蜜色だ。その瞳の中に──宇宙が広がるように小さな光が不規則にチカチカと煌めいて弾ける。
〝瞬きの瞳〟
そう呼ばれるそれが高値で売り買いされる中、現在生き残っているのは嵐だけだった。右目しか、残っていないが。
飛雨の光一つない仄暗いな目が、わずかにやわらぐ。
嵐は、飛雨が自分を通して何を見ているのかを知っている。
彼の姉だ。彼女は、リシマの民の中でも美しい目を持つ人だった。淡い緑緑色の中に、木漏れ日のような光が優しく瞬くのだ。彼女を思い出すだけで、心の傾きが修正された。全てがうつくしい人だった。
「寝ろ」
「ふ。もういいの?」
嵐が聞くと、飛雨は手をパッと離す。
「いつでも見られる」
「そうだね。この瞳は、飛雨のものだしね」
「……」
「あ」
ふと、嵐はその些細な異変を敏感に感じ取った。
肌の表面がひりつき、髪が逆立つような感覚に、嵐は空を見上げる。
強い輝きを放つ星しか見えない満月の夜空には、薄く引き伸ばされた灰色の雲がゆったりと泳いでいるが、突然、その雲がひゅっと上から落ちてきたものに切り裂かれた。重量のある球体が落ちていく。
「!」
「飛雨」
「全員起きろ!! 天恵だ!! 」
来た。
来ると思っていた。
無表情の嵐の目が、落ち行く球体をを見つめ続ける。灰色の左目は、小さくなっていくそれを逃さない。
嵐は身を乗り出した。
黒い森に落ちていく球体に、集中する。
丸い塊。継ぎ目のない飴細工のような繊細な薄い外殻の内側で、雲が圧縮されていくようにぐるぐると回り続ける。
ぷくぷくと気泡を発生させ、じわりと曇っている。黒い粒。
「飛雨、わたし、先に行く」
「いや、カルラが来るのを」
「見えた。〝夜雨〟だし、すぐ対処できる。他の船が気づく前に行かなきゃ」
嵐はぐっと腕を突っ張ると、そのまま身体を投げだした。
「嵐!」
華奢な身体が落下する。
灰色と琥珀色の視線の先には、黒い森に落ちていく丸い物体──天恵だけが映っている。




